第六話・キュン
三日間も学校を休んだのは小学校の頃から記憶にない。三日学校を休んだ後、週休二日制に伴って更に土曜日を寝て過ごし、日曜日私は制服に着替え学校へと向かった。
熱は下がったけれどずっと寝ていたせいで体はふらつき、咳はまだ止まっていなかった。それでも薬である程度症状を抑えて向かった学校。
教室の扉を開いたら今まで仕事をしていなかったクラスメイト達が集合していて、今まで初瀬倉さんに任せきりにしていてご免なさい。これからは私達が頑張るから休んでいて。と言われる、そんな事は全く期待していなかった。私が倒れたくらいの事で態度が変わるような人達なら最初から与えられた仕事くらいこなすだろう。
十二時過ぎ、教室の扉を開けた。開けるより先に誰もいない事は分かっていた。完全に無音の教室は分かりやすい。私が考えていた通り、教室は無人だった。
「……あら?」
けれど私が考えていた教室と、私が見た教室の様子は違っていた。教卓の前には出来上がった看板が立てかけられていて、黒板にはお化け屋敷の内装がしっかり描かれていた。教卓側から入り、ジグザクに進ませて教室後ろの窓際の席の辺りで行き止まりになり、そこから引き返すと最初は段ボールと机で止めていた新しい道が現れる。という作りが説明されていて、入場係と、段ボール、机を動かす係、途中配置された脅かし役などが二時間毎に交代制となって明記されていた。
教室を包む暗幕も用意されていて、窓側と廊下側の上にある窓を全て覆う事のできるサイズのものが教室の後ろに並べられている。もう、明日本番だとしても平気なのではないかというくらいに出来上がっていた。
このまま九時頃まで一人で仕事をしなければならないかもしれないと思っていた私は、どうすればいいのかよくわからないままその場に立ち尽くした。
私がしなければならない仕事が無くなった。何もせず帰るか、図書館にでも寄って自分がしたい勉強をするか。考えるまでもなくそれは嬉しい誤算だったのだけれど、しかし理由も無く私は不安になった。
とにかくする事も無いので生徒会室へと向かい実行委員として出来る事が無いかを聞きに行く事にした。こちらは予想通り綿貫さんが仕事をしていた。
「あら、具合は良くなったの?」
来客の方に校門前で渡す冊子。校内の案内図からタイムテーブルまで全てを纏め、実行委員全員で作成していたもの。途中までは私が中心となって進めていたのに私が休んでいた三日間と昨日、今日とで殆ど終わってしまったらしく後はホッチキスで綴じておしまいのようだ。
「すみません、大事な時期に」
「そんな事いいのよ、誰かが出来なくなったら他の誰かが仕事をするだけなんだから」
たまにはサボるのもいいでしょ、と笑われて、私は何とも言えない気分になった。私がやらなかったら何もかもが進まない訳では、どうやらないらしい。
「熱はもうないのね、でもあんまり具合はよくなさそうね。少し痩せたんじゃないの? ちゃんと食べてる?」
母親がしてくるような心配をされて、正直に答えた。運動もせず、食事も出来ずだったので三キロも体重が落ちた。ダイエットはしていないので,どこのお肉が落ちたのかで喜ぶべきか悲しむべきかが変わるところだ。
「クラスは見て来た?」
おでこを触られて、椅子に座らされた。はい、と答えると綿貫さんはまるで自分の手柄のように嬉しそうな表情を作った。
「あの男の子が頑張ってたわよ。僕のせいで無理をさせてしまいました、って、今時あんな素直で真っ直ぐな男の子いるのね。こっちの作業も手伝ってくれたわ、初瀬倉さんの分までは出来ないですけど、出来る分だけでもやりますって。可愛い事言うわね、暇そうにしてた私の友達も連れて来て手伝わせたんだけど、仲良く作業してたわ」
「そうですか、後でお礼を言わないと」
素直。そこが彼の取り柄で、弱点でもある。私の分の仕事をやってくれていたというのも本間君らしい。
借りを作ってしまったから、何かお礼の一つでもしないといけないかなと、この期に及んで打算的な事を考えていると、綿貫さんの視線に気が付いた。面白そうな瞳で私を見ている。
「ちょっと悔しいんでしょ?」
「悔しい? 私がですか?」
「そ、自分抜きでも何とかなっちゃって、もう少し困って欲しかったんじゃない?」
「そんな事は……」
「無い?」
「分からないです」
考えていなかったけれど、教室の様子を見て、綿貫さんを見て、複雑な気持ちになったのは確かだった。私がいなければ何も出来ない人達、と思っていたのは間違いないけれど、私がいなければ何も出来ないでいて欲しいと思った事はない。
「初瀬倉さんのクラス、昨日は女子が来てお仕事して、今日は男子みたいよ、よかったら帰る前に顔を見せてあげたら良いんじゃない?」
綿貫さんは病み上がりの私に仕事を任せるつもりは無いようだった。単純な気遣いなのは分かっているけれどそれについても複雑な気持ちがした。
「さっき見た時はいませんでしたけど」
「じゃあ買い出しか、お昼ご飯じゃないかしら、どこか心当たりない?」
立ち上がり、お礼を言って生徒会室を後にした。心当たりがあったので、私は教室に向かうのではなく、屋上へと向かった。
重たい屋上の扉を開ける。普段よりも体力が無い以上に、これまでは毎回入る時も出る時も本間君か高ノ宮君が開けてくれていたので慣れていない。
「あ、陽子ちゃん!」
「こんにちは」
最初に私に気が付いた花ちゃんが、立ち上がろうとして膝に乗っているお弁当箱を落としそうになって結局動けなかった。その様子を見て微笑んだ。花ちゃんの言葉で、本間君と高ノ宮君が私に気が付き、表情を緩める。
「風邪治ったんだ」
「休日なんだから休んでたら良かったのに」
「ご心配おかけしました」
男子二人からのお見舞いの言葉を頂いて、私は頭を下げ、それから本間君には実行委員の仕事を手伝ってくれていた事にお礼を言い、今教室を見て来た事も伝えた。
「色々大変だったんだよ、なぁ洋一」
「そうそう、俺は特に何もしてないけど」
「えー、高ノ宮君も頑張ってたよ」
「大体想像は付くけれど、苦労話を聞かせてもらえる?」
それから、食事も済んでいた三人から話を聞いた。私が倒れて、翌朝休みの連絡が学校に行ってからの話。
朝のホームルームで本間くんが話したのは私が倒れたということ。そしてこれからどうするのかという話し合いをした。予定はただでさえ遅れていて、このままでは文化祭当日に何も出来なくなってしまう。
最初に、本間君は部活動をやっているメンバーに部活を休んで手伝いに来て欲しいと頼んだ。高ノ宮君達野球部がまずそれに賛成したので他の部活生徒も頷いたらしい。
それから装飾が進んでおらず図面すら出来上がっていないところが多かったので、恥を忍んで担任教諭の中立先生に頼んだ。彼は技術の先生で、まんざらでもなかったらしくその日の放課後には図案を持って来てくれたのだという。曰く、頼れる時頼れるものを頼るという事も必要で、それも又一つの責任のとり方であり自主性なのだそうだ。不覚にも、ちょっと立派なことを言っているじゃないかと思ってしまった。
バイトや習い事で残れないという生徒にはそのバイトや習い事の時間を聞き、それまでは残るように頼み、それ以外の理由で放課後残れない生徒には理由を尋ねた。これでクラスの大半が少なくとも放課後の一時間程度は居残る事が決定し、その全員に本間君が仕事の役割を与え、三日間の作業と、昨日今日の二日間でお化け屋敷はほぼ完成した。
「……駄目ね」
話を聞いて、私は溜息を吐いた。高ノ宮君が笑い、本間君が駄目出しは覚悟していた、というような表情を作った。
「私がよ」
私が本来するべきだった事を、本間君がしてくれていた。私は一人で居残って仕事をしていれば家に帰らないでもすむ、という気持ちがあったのでギリギリまで自分一人で行おうとして、結局体調を崩してしまった。本間君が責任を負ってからの行動は早かった。一人で頑張るのは勝手だけどそのせいで迷惑がかかるのは私。私が本間君に言った言葉がそっくり私に当て嵌まっている。本間君は使うべき人達を有効に使って仕事を一気に終わらせていた。
「少し悔しいわ、私がいなくても本間君は一人で何でも出来るようになってしまったのね」
空を見上げながら言った。本心から言った言葉で、相変わらず複雑な気持ちは消えないけれど、本間君に助けられた事は本当なので素直にお礼を言っておいた。
休日でも休まず動いている時計が、昼休み終了の鐘を鳴らし、それを合図に私達は教室へと向かった。教室に戻ると、先程はいなかったクラスメイト達が何人か集まって来ていて、私を見て口々に大丈夫? と声をかけてくれた。
その日の作業は既に殆ど終了していて、午後は出来上がったものを実際に使ってみてどうかの確認をした。かなりの突貫工事だったようで幅が合っていなかったり色使いが間違っていたり、暗闇にしてしまうせいで折角作った看板の幾つかが全く見えなかったりと、細かな計算違いはあったけれど、それらの補正も二時間程度で終了し、三時過ぎには私達は解散出来た。
「初瀬倉さん、この後用事あるの?」
本間君達は、それから皆でカラオケに行くという予定があったようで盛り上がっていた。病み上がりの私は遠慮して、駅前の本屋に少しだけ寄ると言った。
「ユーダイ、送ってってやれよ」
高ノ宮君が言って、そのつもり、と本間君が頷いた。すぐに本間君が自転車を持って来て、後部座席に乗るようにと言われた。
「二人乗りするの?」
「そう、初めて?」
そんなわけないよね、という意味を込めて言われたのだけれどそんなわけがあった。そもそも自転車に乗れないので自転車自体が怖い。そう言うと、男子に笑われて、可愛い、という評価を何故だか受けた。
横向きに座って、本間君の腰に腕を通す。走り出した途端に怖くなって、わわわわ、と情けない声を出してしまった。
「普段冷静な初瀬倉さんが慌ててるのって面白いね」
「面白がってないで前を向いて漕いで!」
本間君は楽しそうにゆっくりペダルを漕いでいた。私に話しかける時には首を曲げて私と目を合わせようとして、その度に、前が怖くなる私が苦情を言うのだけれど、本間君は何も心配がないというように自転車を漕ぎ、実際に何の問題もなく自転車は進んだ。
「どうだった?」
「怖かったわ……」
十分程で駅前の本屋に到着した。何の本を買おうとしていたのか忘れてしまった。
「ありがとね」
と言ったのは私ではない。私は、このタイミングで私がお礼を言われる理由が分からず首を傾げた。
「初瀬倉さんに言われた通り、一人で頑張らないで皆に頼んでみたら上手くいったよ」
お礼の理由は、熱があった私が言った八つ当たりに近い言葉についてだった。
「初瀬倉さんの仕事を見て、何となく色々分かって来たような気がするよ、女の子と話すのも前程構えたりはしなくなったし、変わっていくんじゃなくて成長してる感じもするし、お陰で今回も何とかなった。ありがとう」
「全く……」
溜息を吐いて、頭をガリガリと掻いた。普段の私とは違う、貞淑さも遠慮もない態度だ。こんな風な態度を人前で取るのはいつぶりだろうかと自分でも分からなくなるくらいの、がさつで素のままの行動。
「ほんっとうに、本間君は」
「え?」
眉をしかめ、不機嫌な態度を取る私に本間君が混乱する。
「呆れ返るくらいに素直な良い子よね」
何の掛け値もなく。どうやったらこんなにスクスクと人が育つのか、ご両親から是非伺いたい。
「それって、褒められてるの、けなされてるの?」
「両方よ」
正しく言えば嫌み。深読みするとやっかみ。
「あなたの言い分だとまるで私が本間君の成長の為にありがたいお言葉を与えているみたいに聞こえるけど、私はそんなに善人ではないわよ。クラス委員になった時には興味本位で質問して、思った事を言っただけだし、この間の話はただ本間君に苛立ったから当たってみただけ。そんなに世界を良い方向にばかり捕らえていたらいつか危ない目に遭うわよ」
前々から心配な人だとは理解していたつもりだけれど、私が思っていた以上だった。
「そうだ、一度言っておきたかったのよ。本間君、あなた私の事良い人だと思ってるでしょう?」
頷かれた。私は首を横に振った。例えばどこをか、と聞いてみた。クラス委員や文化祭実行委員を進んでやっていたり、教科書やノートを見せたり、花ちゃんに協力してあげたりしてるところだと言われた。
「クラス委員は教師からの心証が良くなるわ。文化祭実行委員も同じ、内申が上がるしそうすれば進学を推薦で決める事が出来て楽なの。教科書を貸すのもノートや宿題をみせるのもそうしておけばいざという時に私の頼みを断り辛くさせる事が出来るし、味方は増やしておくにこした事はないから」
「花の事は?」
「あれは……花ちゃんは、友達だからよ」
「良い人じゃんそれ」
ヘラヘラと、屈託なく笑われた。何だか簡単に論破されたようで悔しい。
「初瀬倉さんは嫌な人だって思われたいの?」
また、何の裏もない質問をされてしまい、黙った。本間君との話はたまにこうやって呑まれてしまう。どうして私が私の心情を彼に吐露しているのかも、よくわからなかった。
「初瀬倉さんは照れ屋さんだから皆にそうやって思われるのが恥ずかしいかもしれないけどさ、でも初瀬倉さんは間違いなく良い人じゃん」
照れ屋さん。そんな風に言われたのは初めてだった。ビックリして、私が良い人だという証拠は、とよくわからない質問をしてしまった。
「そんなのに証拠いるかな? だって今回も皆が頑張ってくれたのは初瀬倉さんがあんなに頑張ってくれているんだから皆で頑張ろうってなったからだし、女の子達も、たまにはこっちも役に立ってあげないとね、とか言って笑ってたよ。そんな風に皆が動く人ってもう良い人以外の何なの? って思うけどなあ」
「私、クラスの皆にも良い人だと思われているの?」
「うん」
話がよくわからないところに流れていた。私は最初に何を話そうとしていたのだろうかと、話を元に戻そうとしたのだけれど、それよりも先に本間君に話された。
「初瀬倉さんがどう思ってるかまでは僕には分からないけどさ、僕から見た初瀬倉さんは、美人で、努力家で、黒髪が綺麗で、面倒見が良くて、優しくて、無理しがちで、頭が良くて、運動も出来て、後なんだろ、あ、そうだ照れ屋で、友達思い。そんな感じ。僕が勝手にそう思っちゃってるんだからしょうがないでしょ? ていうか皆そう思ってるよ」
満面の笑みで言われてしまった。その間私は、何一つ言い返すことが出来ず立ち尽くしていた。熱がぶり返して来たのかと思うくらいに頬が熱かった。中学を卒業してから、私は私と回りとの距離をなるべく詰めないで生活していた筈なのに、クラスメイトだって皆、私が使えるから使っているだけの筈だったのに。
「何でそんな事でそんなに恥ずかしそうにしてるのか、僕には分からないけどさ、そういう初瀬倉さんがいるって事を今日知れて、僕は嬉しいと思ってるし」
にこっと笑って、本間君が右手を差し出した。
「これからも仲良くやっていこうよ」
伸ばされた本間君の右手に、おずおずと私も手を伸ばし、その手に触れた。指先から掌がふれあい、軽く握り締める。キュン、と、手ではない場所が鳴ったのが聞こえた。
恋に落ちる音を聴いたのは、その時が初めてだった。