第五話・嫌いなタイプの善人
「疲れてるね」
「まあ、この時期だから少しはね」
文化祭の時期になり、クラス委員でもあり文化祭実行委員でもある私は忙しい日々を送っていた。文化祭が一週間後に控えたこの時期になると一般生徒も帰宅時間を延ばされ、夜の九時まで居残っていいことになっていたけれど、私はそれだけでは仕事が間に合わず遅くとも朝七時には登校して仕事を行っていた。
「何か手伝おうか?」
「そうね、クラス委員の仕事が速く片付いてくれたらそれだけでとても助かるから、そうしてもらえたら嬉しいわ」
親切で言ってくれている本間君に嫌みを言って返した。この頃、お化け屋敷に決まったクラスの出し物の内装や仕掛けの作りが全く進まず、私は少し気が立っていた。文化祭実行委員として教室にいられない事も多い私の眼を盗んでこっそり帰ってしまう生徒も多かったことが、私の苛立ちに拍車をかけていた。
私が大嫌いな、誰かが何とかしてくれるだろうという連中。役割を割り振られればそれだけはこなす、というスタンスであればまだマシな方で積極的に逃げていくような奴すらいた。こういう時に少しでもサボり辛くしてやる為に宿題を見せたりノートを写させたりしていたのに、厚顔無恥な女子の脳は都合良くそれすら忘れられるようだった。
「先生は私達の自主性に任せてくれているみたいだから、もし上手くいかなかったら私達クラス委員の責任ね」
二年生の時の私達の教師、中立先生を、私は一言、無能な教師として見ていた。生徒の自主性、強要はしない、自己責任。そんな言葉を矛盾しあった各場面で使い分けて、何とか自分の仕事を少なくする事に血道を上げるようなしょぼくれた中年男。顔も覚えていなかったけれど、唇が分厚くて大きな丸眼鏡をいつもつけていたので文章としてそれを記憶して何とか他の教師と見分けをつけていた。
「そうだね、初瀬倉さんは忙しいし、何とか頑張ってみるから、放課後は僕に任せておいてよ」
「そう、じゃあ宜しく」
本間君はよく働くしそれなりに効率よく作業出来るようになっていた。けれど頼りにはならなかった。高ノ宮君や彼のグループも部活が無い時には手伝いをしてくれてそれなりに戦力になるのだけれど、彼らが部活の無い日というのが極端に少ない。結局、集団での仕事というのは誰か一人が飛びぬけて有能である組織よりも全員がそれなりに出来る組織の方が効率良く作業が進む。方針と指示がしっかりしていれば、という注釈は付くけれど。本間君は作業をする一人として有能でも、集団全体に対してにこうするようにと指示をする側の人間としては不器用に過ぎた。
少年漫画の主人公のような人だなと私は本間君を評価していた。それはそれで彼が持つ一つの魅力ではあるけれど個人的に言えばそういう人は嫌いな私だ。相手方の、卑怯と表現される沢山の工作を乗り越えて、自分と仲間達との力のみで勝利を手にする。そういう主人公が出て来る物語で、私は確実に敵方を応援する。色々な妨害工作をする敵役は、勝ちという目的の為に予め工夫を凝らしている。その間に何もせずにいた主人公達が勝つというのは納得がいかないし、真っ直ぐに進む事以外に道は存在しないと言われているようで腹が立つから。考えすぎ、ひねくれ過ぎだという事は自覚している。
「ちゃんと全員が仕事をこなせれば今週中に殆ど終わるでしょうね、私も実行委員の仕事が終わったら教室に向かうから」
私が嫌いなタイプの善人。それが本間君。自分自身が努力をすれば何となると思っている。回りの人間の悪意に気が付いていない。見栄えがいい努力以外の方法を考えようとしない。人の意見を聞き過ぎれば自然と自分の意見が削られて行く事は自明であるのに、作業が遅れ始めてもまだ、彼はバイトや部活がある人達にはしょうがないからといって帰宅を許していた。そんな事をすればバイトも部活も無い人達が不満を持つのは当然で、ある程度機械的に仕事は割り振ってしまうべきだ。
けれど、私はそういった話を本間君にしてあげたりはしなかった。この期に及んで私を心配する余裕があり、努力している彼が彼なりに仕事をした結果、どうなるのかを知りたいという気持ちもあったから。
放課後になって、私はクラスメイトにこの仕事をお願いしますとだけ言いおいて、それから文化祭実行委員の仕事に向かった。女子の多くは私が教室にいる間には仕事をしているけれど私がいなくなったら色々と理由をつけて帰る。それも知っていたけれど、別段注意はしなかった。誰にも何も、期待はしていない。仕事が遅れてしまえば私は帰りたくない家に帰らないでも済む。やるべき仕事は全て頭に入っている。最後には私一人がやればいい事だ。
「遅くなりました」
その日、文化祭実行委員の仕事は体育館で行われる出し物の打ち合わせだった。初日の朝、校長の話があった後、有志で集まった女子のダンスがある。その日はそれの打ち合わせで、二日間の間にライブや漫談、研究発表など多くの催しが予定されていた為、何度かの打ち合わせが行われる。
「お疲れさま、椅子出しをしてくれる?」
私が挨拶をしたのは当時の文化祭実行委員長の綿貫さん。背が高く、生徒会の副会長でもありテニス部のキャプテンでもあった。当時の生徒で彼女に憧れていない生徒は少なかった筈。黙っているとそれだけで威圧感がある、ある意味整いすぎた容姿をしていたけれど面倒見も良く、私ですら久しぶりに賢い人に出会ったなと思っていた。
彼女は両手にパイプ椅子を抱えて体育館の後ろから壇上に向けて歩いていた。前の方で、待っていた女子何人かがその椅子を受け取って並べる。体育館の一番後ろに纏めてしまわれているパイプ椅子を出すのは男子が行い、それを運ぶ綿貫さんを中心としたチーム、並べる女子達と、しっかり分業制が敷かれていて作業は早い。人が動き回り、埃がたっているせいか少し咳が出た。
見たところ綿貫さんのチームの人数が少ないように感じたのでそこに加わった。本番さながらに行う為、全員分の椅子を出しライトも本番用のそれを点ける。20人弱で行ったにしてはかなり迅速に準備が完了し、それからチアダンスが始まった。
「衣装は彼女達が作る予定ですよね?」
ダンスが始まり、私は中央前よりの席で座っている綿貫さんの隣に座った。
「そうね、出来ればジャージではなくて本番用の衣装で踊って欲しかったけど」
「本番前日のリハーサルまでに出来上がっていれば」
「そうね」
一度目のダンスは、曲の音量が小さすぎて客席から聞こえ辛かった。それと、思っていたよりもステージが狭かったようで端のメンバーがよく見えない、という問題もあったので、二度目は音量を上げ、中央の立ち位置をテープで貼って固定し、なるべく距離を開けずに全体が舞台中央に寄るようにした上で行った。
「大丈夫、時間はまだあるから、もう一度合わせてみて」
二度目は単純に曲にダンスが合わなかったらしく、三度目が行われる事になった。私達は私達で照明の当たり方を確かめたり、全ての場所でダンスが見えるかどうかを確認する為に色々と動き回ったり、それによっては椅子の位置を変えてみたりと、仕事をしていたので結局ダンスは都合五回行われた。
「お疲れ様、本番頑張って。衣装造りに家庭科室は解放してあるから交替で使ってね。前日になると多分混み合うわよ」
教師よりも余程教師らしく指示を出す綿貫さん。校長先生や文化祭実行委員長である彼女自身の代表挨拶も滞りなく終わり、すぐに片付けに入った。
「思ったより早く終わったわね」
「そうですね」
片付けも終えて、時計を見たらまだ五時半過ぎだった。早めに終える事が出来たので一度教室へと向かう。
「そう言えば初瀬倉さんのクラスの出し物をまだ見てなかったわね、丁度いいから見せてもらうわ」
「あ……はい」
少し嫌な予感はした。早めに終わりはしたけれどやる気が無い私のクラスの事なので、本間君を含めて二、三人くらいしか残っていない。ということも考えられた。
体育館を出る、それまで人が多く熱気があった場所にいたので随分寒く感じてしまう。くしゃみが出てしまい、鼻をかんだ。
「すみません」
「ええ、大丈夫」
綿貫さんと一緒に教室へ、せめて五人くらいは人が残っていて欲しいと思いながら教室の扉を開き、その様子を見て思わず立ちくらみがした。
本間君一人が看板にペンキで色を塗っている教室。こっちが情けなくなるくらいに哀しい光景だった。
「……皆は?」
「あ、えーと、今日は用事があるみたいで、部活が終わったら洋一、高ノ宮達が来てくれるって」
馬鹿なんじゃないの、と、思わず口から漏れてしまった。自分にも聞こえないくらいに小さな呟きだったけれど、あからさまに落胆した表情は本間君にもしっかり見えた筈。
「しょうがないわね、手伝うわ」
その様子を見てやれやれとばかりに微笑んだ綿貫さんは、エプロンを取って来るからと言って教室を出て行った。
「……皆、どんな用事があるって言っていたの?」
「そこまでは聞かなかったけど」
「どうして聞かないのよ」
「そりゃ、聞けないでしょ」
「本間君、少しは頭を回して頂戴、全員が全員どうして放課後に用事があるの? ただ面倒だから逃げているのに決まっているでしょう? 貴方が一人で頑張るのは勝手だけど、そのせいで迷惑するのは私なのよ」
これ以上私の仕事を増やさないでよ。言ってから溜息を吐いた。妙に喉や鼻が熱くなる、不快な溜息だった。
「……ごめん」
「謝られても仕方が無いのよ、今日は折角早く文化祭実行委員の仕事が終わったのに、これのせいで九時までになってしまったわ。委員長の綿貫さんにも迷惑をかけるし、散々だわ」
後になって思えば酷く思いやりに欠けた言葉をぶつけたものだと思うけれど、その時の私は言いたい事を言い終えると本間君の言葉も聞かず、黙って看板の色塗りを始めた。
綿貫さんもすぐに戻って来て三人での仕事。一時間程三人で作業を進め、それから本間君が言った通り何人かの生徒が部活を切り上げて教室に戻って来た。
「ありがとうございました、もう大丈夫ですから」
七時前、綿貫さんにお礼を言って帰ってもらう事にした。私以上に忙しい人なので、これ以上こちらの無能さに付き合わせるのは申し訳ない。人数も増えて来て、教室に息苦しさを感じてもいた。
「うん、それはいいけど」
そんな私を、綿貫さんはまじまじと正面から見詰めた。三秒程見詰め合い、どうしましたか? と私が質問をするよりも前に、綿貫さんの手が私のおでこに添えられた。冷たくて気持ちがいい。
「初瀬倉さん、貴女熱があるわよ」
「え?」
吐息が熱い、教室も、もう秋も深まっているというのに妙に熱かった。
「初瀬倉さんすぐに保健室、いや、もう今日は帰りなさい。体育館に来た時から咳をしていたし、くしゃみもしていたし、さっき立ちくらみもしていたからおかしいとは思っていたのよ。ごめんなさい。もっと早くに気がついてあげられたわね」
立ち上がらされ、鞄を持たされた。私が何をするまでもなくさっとエプロンを外され、コートを着せられマフラーを巻かれる。
「いや、大丈夫です、このくらい、私熱には強い方なので」
「何を言っているのよ、早く帰ってすぐに眠りなさい。少しでも熱が残るようなら明日は休む事、良いわね」
問答無用とばかりに教室を押し出されてしまった。自分が風邪をひいているだなんて全く思っていなかったので、自覚してしまうと一気に体が辛くなった。
「一人で帰れる?」
「大丈夫です」
廊下を二人で歩き、私は帰る為に一階へ、綿貫さんは残った仕事を片付ける為生徒会室へ、階段を降りると、綿貫さんが言う通り自分に熱があって体が重たい事が自覚出来た。
「ご免、初瀬倉さん」
下駄箱で靴を脱いでいると、本間君がやってきた。体調以前に機嫌も良くなかったので、返事はせず靴を履き替える。
「僕のせいで無理させてご免」
「別に、本間君のせいで無理をした訳じゃないわ」
ストレスが溜まっただけよ。とは言わない。
「ちゃんとクラス委員として皆に仕事をしてもらって、初瀬倉さんがいなくてもちゃんと出来るようにしておくから」
「そう……」
そういうことは、結果を出してから言わないと説得力が無いわよ。と言いかけてやめておいた。信用はしていないし信頼もしていないけれど、彼の言葉は本気であるとは分かっていたから。私が嫌いなタイプの主人公である本間君は、失敗はしても怠慢ではない。陳腐な言い回しだけれど良いところも沢山ある事は充分分かっていた。
「大丈夫よ、綿貫さん大袈裟なんだから、明日にはこんな熱無くなっているわ。今日は先に帰らせてもらうけれど、後は宜しくね」
今日の分の仕事が明日以降に流れてしまった。と、私は少々面倒臭い気持ちになりながら帰り、言われた通りすぐに眠った。
翌日、私は三十九度の高熱を出し、三日間学校を休んだ。
土日はお休みです