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第三十七話・初瀬倉陽子の恋愛事情

 その部屋の屋内露天風呂は、湯船がザラザラとしたお椀上の石造りになっていて、浴室全体が木造であることと相まって、少々野趣が強く、それでいて日本的な設えとなっていた。


 露店、という訳であるから外は海、日本国内で、しかも伊豆であるから『オーシャンビュー』というのはちょっとイメージが違うけれど、それでも実際にオーシャンビューであることには間違いがない。ガラス張りで外とは区切られている為季節に関わらず快適な温度で体を洗えるけれど、同時に季節に関わらず景観を楽しむことも出来る。


 ガラスの外はテラスになっていて、机が一脚椅子が二脚、充分に温まったら外で夕涼みでもいかがですか、ということなのだろう。とても細やかな気配りであると思う。


 さて、ともあれこの部屋に露天風呂が設えられているという情報はすでに伝えた通りであり、今更繰り返す必要などない。多くの場合、旅をする上でメインイベントとなるのは食事であって、本来描写すべきことはそちらだ。『お肉があった』『伊勢海老があった』だけで食レポが成立するのであったら、世のタレントは皆グルメレポーターになれてしまう。けれど今の私には、この部屋の様子を少しでも伝えておくべき理由があるのだ。


 浴室から見た外側はガラス張りであるので、外を見るのは容易だけれど、浴室と室内はその限りではない。だから、服を脱ぎ、これから浴室に入ろうとしている女と、既に浴室に入り、おわん型の湯船につかっている男とがいる場合、お互い、あの辺りに相手がいるとは分かるけれど、正確にその姿、様子を伺い知ることは出来ない。


 「入るわよ」

 今朝、家を出る前に身に着けていた衣類は全て脱ぎ捨てた私は、そう短く言って浴室に入った。


 「あら、本間君体は洗っていないの? 背中を流してあげようと思っていたのに」

 私がそう言うと、私の身体が目に入らないよう、微妙に視線を逸らしていた本間君がうんと頷いた。頬が赤い、湯にのぼせたのか、それとも。


 「別にいいわよ、こっちを見たって」


 私は、努めて冷静に聞こえるような声で言った。勿論この時の私が完全に冷静であったという訳はない。経験値で言うのならば私よりも確実に本間君なのだ。一と二であればその差は倍であるけれど、ゼロと一の差は無限だ。


 「い、いいの?」

 「何を今更、藤原さんの身体を見たことがないとは言わせないわよ」


 けれど、私達はまるでその経験値が逆であるかのようなやり取りをした。いざという時、意外と男性は踏ん切りをつけることが出来ず、意外と女性は思い切るまでにかかる時間が短いと聞いたことがある。更にその先、理由についても意見を述べている人がいた。

 女は大概の場合受け入れる側だ。だから、自分の事は自分の事として覚悟を決めることが出来る。男の場合は逆で、奪う側、得る側に回ることが多い。だから、これから自分が攻め入るべき相手に対しての遠慮がどうしても残る。

 その言葉がどれだけ的を射ているのかはともかく、本間君の場合はそれなりに当てはまりそうだ。遠慮、慎み深い彼であるから、遠慮という言葉は実にしっくりと嵌まる。


 「別にいいわよ、本間君になら見られたって」

 淡々とした声を出しながら、一歩ずつ湯船に近付いてゆく。足が滑りそうと呟くと、本間君はまだ目を逸らしたまま腕を伸ばしてくれた。その手を取って近付く。ゆっくりと、おっかなびっくりといった様子で本間君がこちらに視線を向ける。


 「バスタオル巻いてるもの」

 その視線が、私の胸元の辺りに向けられるのと殆ど同時に、私は言った。本間君の視線が上がって、私の視線と交錯する。本間君の眼には、満面の笑みが写っていることでしょう。


 「バスタオル一枚しか纏っていない。腕も脚も肩も見えているセクシーショットよ。見られて嬉しいでしょう?」

 言うと、本間君が恨めしそうな表情を見せ、それからふふっと笑った。


 「初瀬倉さんは、いつになってもどこに行っても、初瀬倉さんらしいね」

 そうでしょう、と言いながら、私は本間君に近付く、湯船の縁に取りつき、そのまま身を乗り出して湯船に侵入した。既に溢れ気味だったお湯が、私の体積分だけ流れ出る。


 おわん型の湯船は、人二人が足を伸ばして座れるだけの面積はなかった。したがって、湯船に浸かった私はそのまま本間君に背を向け、彼に体を預ける形でお湯を堪能する。


 「タオルを巻いたまま入るのは行儀が悪いよ」

 「あら、だったら本間君も、体を洗わずに湯船に入ったら駄目よ」

 「それ、初瀬倉さんもだよ」

 「私は良いのよ、さっき大浴場で沢山洗ったもの」

 「僕もだよ」


 本間君の胸元、鎖骨の辺りに頭を乗せ、首筋に頬ずりをした。温かい。布一枚を隔てた場所にある本間君の身体は、思っていた以上に逞しかった。

 本間君の腕が、私のお腹に回る。私の脚の外側には本間君の脚がある。全身全てを、本間君で包まれたような、恍惚とした被征服感に捉われた。嫌ではない。嬉しい。いやらしい言い方をするのであれば、興奮する。


 「この角度から見上げると、本間君はこんな顔をしているのね。顎のラインがシャープだわ」

 「初瀬倉さんは、こういう顔なんだね」


 言われて、パシャッと、本間君の顔にお湯をかけた。顔を振ってお湯を弾く本間君が『何をするの』と抗議の声を上げる。


 「すっぴんの顔をまじまじと見るものではないわ。不細工でしょう?」

 「そんなことないと思うけど」

 「しまったわ、電気を薄暗くして来るのを忘れていたなんて。恥ずかしい」

 「だから、そのままで十分綺麗だよ」

 「そんなことないわよ」


 それから何度か、私は自分が可愛くないと卑屈な言葉を繰り返した。本当はそこまで思っていたわけではなかったのだけれど、本間君が私の言葉を否定して褒めてくれるのが嬉しくて思っていた以上に繰り返してしまった。まどろっこしいので、『綺麗って言って』と直接要求し、それから要求は『沢山褒めて』と漠然としたものに移り変わっていった。ようは、本間君に甘やかされたかったのだ。


 「初瀬倉さん、そろそろのぼせてきたよ」

 そうして暫く話をして、二人とも十分以上に汗をかいた。


 「そうね、そろそろ出ましょう。お湯の温度はそれ程高くしてはいなかったけれど、それにつけても夏場に二人で一つの湯船に浸かり続けていれば暑くもなる……わ」

 「どうしたの?」


 私の語尾が不自然に止まったのを聞いて、本間君に聞かれた。何でもない、と言いたかったのだけれど、しっかりと捕まえられていて、しっかりと顔を覗かれてしまっている状態なので中々逃げ出すことも出来なさそうだ。


 「それにつけても、で、思い出してしまったのだけれど、本間君の『ソレに着けるもの』は、持って来ているのかしら?」


 恥ずかしくなって顔を背けながらの質問になってしまったのだけれど、言葉を濁したせいで却っていやらしくなってしまった。因みに、私は持って来ている。お母さんが、持たせてくれた。事情も何となくしか話していなかったのだけれど。『ちゃんと、大切にしてくれる人じゃないとそういうことはしちゃ駄目よ』と言われた。ということは、お父さんはお母さんの事を大切にしてくれたのだろうか。


 「まあ……一応」

 「…………スケベ」


 私が言うと、本間君がしかたないだろと言って、強く抱きしめて来た。それまでは意識して過度な密着を避けて来たのだけど、ギュッと強く抱きしめられたものだから色々と、あれやそれやが当たってしまい、非常に生々しい感触が伝わってくる。


 「お湯よりも、初瀬倉さんにのぼせそうなんだよ」

 「あら本間君、いつの間にそんな」


 生意気な、と言うよりも先に口を口でふさがれた。私はそれに驚き、しかし受け入れ、そうして、身をよじり本間君の方を向いて、その首筋に抱き着いた。




 その日、本間君があんまり優しくしてくれなかったことや、それを翌朝私に責められたこと、二泊の感想が『私達は意外と体力がある』になったこと、或いはこの年のひと夏、爛れた夏を送った一組の男女がいたことなどは余談であるから端折るけれど、こうして私と本間君は彼氏彼女という関係になった。


 だからといって、私の中身がどう変わったということでもない。相変わらずお父さんとは喧嘩が絶えないし、そのせいでお母さんには気苦労をかけている。けれど、お父さんだってちっとも丸くなってくれないし、自分から聞きに来ないくせに本間君を指して『なぜあの男は挨拶に来ないんだ、失礼だろう』などと言ってくる。私がいない間にお父さん相手にお説教をしたというお母さんも、私が家に帰り元の三人暮らしになると又唯々諾々と父に従う昔ながらの弱い妻になってしまった。


 「お父さん、明日パスタ作って」

 「明日?」

 「そう、本間君が来るから。作れないなら無理にとは言わないわ。連れてこないで、どこかに出かけて来るから」


 初めて本間君が我が家に泊まっていった前日、こんな会話をした。お父さんは何故かニョッキやピザやクラムチャウダーなども作り、一体どんなお祭りをするつもりなのかという量のイタリアンなメニューが完成してしまった。結局翌日は、お母さんがお友達を三人、私が花ちゃんと高ノ宮君を呼び、大人数での食事となった。私とお母さんの友達が増えたせいで肩身の狭くなったお父さんが甲斐甲斐しく私達の給仕をするのを見るのは非常に気分が良かった。本間君はいたたまれなかったらしく高ノ宮君と一緒に手伝っていたけれど。


 これから先、私は大学卒業とともに本間君と結婚し、後に三人の可愛い子供に恵まれ、幸せな人生を送りました。となるかは分からない。案外、すぐにでも愛想が尽きてしまい酷い別れ方をするかもしれないし、卒業後疎遠になって自然消滅するかもしれないし、結婚後お互いがすれ違い、離婚届に判を押すことになるかもしれない。ただ結ばれたという結果でもってオールクリアとなる物語と、そこからの日常が死ぬまで続いてゆく人生と、最大の違いはそこだろう。私は少しずつ本間君を知ってゆき、本間君に知ってもらい、お互いに努力を重ねて良い関係を長く続けようとする。愛があれば全て耐えられる。なんてことを私は言わない。愛でお腹は膨らまないし、夢で駄目になる人もいる。お金で解決できる問題だって沢山ある。けれど、私は自分の胸の内で、たった一人彼の事を好きであり続けている自分を見失わず今日まで過ごしている。レントゲンには映らない私の一部を、私は決して見失わないようにして過ごすつもりだ。




 この物語は、私の恋愛事情についての物語であって、私の人生を追ってゆく、物語ではない。私が、ごくありふれた女の子が人を好きになり、そうして想いを遂げるまでの物語だ。

 私ではない彼女を愛している彼を、それでも私は好きだった。彼女への想いを胸にしまったまま、私の事も愛してくれた彼に、私は今日も恋してる。


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