第三十六話・大きなお世話
「伊勢海老をカタカナで『イセエビ』と表記している場合、それは私達が思う伊勢海老とは別種の海老だって知っていた? それと、『和牛』という名称には産地を表す意味合いは含まれていなくて、私達が食べる和牛の多くはオーストラリア産の和牛であるそうよ」
「どっちも知らなかったけど、このタイミングでその知識を披露して来るのが初瀬倉さんだよなあって気はするよ」
本間君の返答を受け、私はケラケラと笑った。目の前には、伊勢海老のお造りが一つ。お鍋の中には薄く切られた牛のお肉が入っている。
半日歩き回ってくたびれた私達は、部屋に戻ってすぐお風呂に入った。部屋には海が見える内風呂があったことは二人共当然気が付いていたけれど、そこには触れず、旅館の自慢だという大浴場に向かい、勿論別々の湯に浸かった。室内の夕食は六時から八時までということだったのだけれど、私はうっかり長風呂してしまい、お風呂から上がった時には八時を五分ほど過ぎていた。朝食のバイキングも夕食も、時間を過ぎてしまうと自動的にキャンセルなので、少々慌てた。私らしくない凡ミスだったと言って良いだろう。
幸いにも、本間君が一足早くお風呂から出て、料理の注文をしてくれていた。慌てながら、けれど慌てている自分を本間君に見られたくなかった私は髪を拭きながら戻り、室内から良い匂いが漂ってくるのを感じて、ほっと一安心した次第だ。
「本間君の活躍が無かったら今日の夕食を食いっぱぐれるところだったのだから、そんな盛り下がるような言葉を言っては駄目ね」
言いながら、本間君のコップにビールを注ぐ。私はお茶を飲む。あんまり、酔っぱらって前後不覚に陥りたくはない。
「初瀬倉さんらしくて、僕は好きだけどね」
注がれたビール、そのコップと私のコップで小さく乾杯をした。
「色々、気を使ってくれてありがとう」
「そういう事を言われるのはもう何度めかしらね」
食事を始めて暫くは今日歩いた道やお店の話をしていたのだけれど、ある時不意に本間君が話を変えた。本間君はそうだねと答えて、よく火が通った牛肉でご飯を一口。
「お代わりは?」
「お願いします」
そっと手を伸ばすと、本間君の手が僅かに触れた。おひつは私の横にあり、そこに、気持ち大盛りのご飯をよそう。
「本当は日本昔話みたいな大盛りにしたかったのだけれど、これくらいにしておいてあげるわ」
「今日も、色々僕の事を気にかけてくれてありがとう」
お茶碗を手渡しながら言うと、本間君はそこにではなく、一つ前の話の続きをした。先程の私の言葉を受けて、言葉を改めた格好だ。
「……気を使われているのが分かるのなら、それを言わないでおいてくれた方がこちらとしては楽なのだけれど」
「嬉しかったよ」
達観したような表情で、本間君が呟き、私をちらりと見て微笑んだ。今日、本間君は私と一緒にいながら、私以外の人とも歩いていた。本間君はそれを表には出さず、私はそれに気が付き、そして本間君は私が気が付いているということにも気が付いた。
「藤原さんと一緒に来たかった?」
そうして、私は今日ずっと避けていた彼女の名前を口に出した。本間君の微笑みは、困ったようでもあり、嬉しそうでもあり、一言では言い表せない不思議な情緒をたたえている。
「ごめんね、僕は今、生きている初瀬倉さんと一緒にいるのに」
「いいのよ。私が勝手に気が付いて、私が勝手に踏み込んでいるだけなのだから」
私が、こんな余計な質問をしなければ、本間君は藤原さんの事を胸の奥の部屋にしまい込み、そして生涯外には出さないまま、そっと大切にし続けて行った事だろう。それが出来るくらいに強い人で、そうせざるを得ない位には繊細な人だ。そうしたくてしているのではなく、そうせざるを得ないのが、本間君の人間性。そこを好きになってしまったのが私なのだから、仕方がない。
「今の本間君を見ていると、私がしてきたことは全て大きなお世話だったということがよく分かるわ」
そうして、私は言葉を紡ぐ。幼い頃から論を組み立てる事は得意だったし、自分を客観視することも得意だったけれど、本音を本音のまま伝える事は、私が不得手とするところだ。
「私は、『一番大切な人』を失って呆然としている本間君の横顔を見て、何も出来ないと思ったのよ」
藤原さんの告別式の時の事。あれほど、自分が無力だと悔しい思いをしたことはない。
「それから、大学に出て来た本間君に、私は何かとお世話をしたし、本間君の気持ちが沈んでしまわないように努めて来たけれど」
「それも全部、感謝してる」
本間君の優しい言葉に、私は首を横に振って答える。
「全部自己満足で、大きなお世話よ。だって、本間君は一番辛かった最初の半年間をちゃんと乗り越えて、大学に一人で来られるまで立ち直ったのだもの」
花ちゃんから、高ノ宮君から、本間君の御家族から、逐一本間君の様子がどうであるのか、情報は聞いていた。けれど、私は私に何が出来るのか分からず半年間を無為に過ごした。一まで落ち込んだ、本間君の気持ちを二にし、五にし、十にすることは出来ても、ゼロから一にする為に、自分が何をすれば良いのかは分からなかったのだ。そして、その最初の一を、本間君はしっかりと回復させ、そして自分の力で立ち上がった。
「もし私のしたことに意味があったのだとしたら、それは本間君が立ち直るまでの時間をほんの僅か早めた、くらいのものよ」
私がいなくても、遅かれ早かれ本間君は藤原さんを失った悲しみから立ち直り、そして自分の人生を歩んだことだろう。いや、もしかすると私がいなかったところで私ではない誰かが同じようなことをして、結局何も変わらなかったのかもしれない。
「私がしたことは代わりがいてもいなくてもかまわないようなことだけ。だから、やっぱり思うわ、大きなお世話だったって」
本間君を助けたいという私の気持ちは、実のところ本間君の側にいたいという私のエゴでしかなかった。落ち込んでいる本間君を見ていられない、見ていられないというのは私の都合で、本間君が助けて下さいと私に縋って泣いた訳でもない。
私の、聞きようによっては酷い自己否定の言葉を、本間君は否定しなかった。一つ一つ頷いて、噛みしめるように考えて、そして、私の言葉を全て聞き終え、納得したような表情を見せた。
「でも、家族ってそういうものだと思うよ」
そうして本間君は、私の言葉を否定することなく、『大きなお世話』という発言を受け止めるような形で、そう答えた。
「初瀬倉さんが悩んできたお父さんやお母さんとの関係もそうだし、僕と妹なんかもそうだけれど、家族って、本来『大きなお世話』なことを押し付け合うものなんじゃないかな。例えば大学なんて、別にFラン大学って呼ばれるようなところでも、そこで本人が頑張れば何とでもなるよ。大学に行けなくっても、本人に意志があればいくらでもいい職業はある……と思うよ?」
最後だけ、ちょっと自信なさげに言った本間君に、ふふっと笑う。自分が経験したことがないことを訳知り顔で語ることの無い彼らしい。
「でもさ、そうはいっても心配だから、余計なことを言って、却って怒らせてしまったり、余計不安がらせてしまったりするのが家族なんじゃないかなあ?」
少なくとも、と、前置きをした後、本間君は自分の胸に手を当てた。
「僕は、初瀬倉陽子さん、っていう人の存在が、これ以上なく心強かったし、側にいて安心出来た。この感謝はきっと、僕が今後どういう人生を送ったとしても消えないし、嘘じゃない。多分立ち直れただろう僕の事を、最初から最後まで見続けてくれた君の『大きなお世話』に、僕は救われたと思ってるよ」
こういう時、私はいつだって自分の感情を押し殺してしまっていた。生意気で小賢しい私は感情が必要以上に揺れ動いてしまうことを恐れ、そして無理に平静を装ってしまう。だから、この時も私は、薄く笑い答えた。
「何よ、それ」
言っている間に、目から大粒の涙が流れていることに気が付いた。押し殺そうとした理性は、あふれ出す感情に押し流されてしまった。
「本当、お人よしなんだから、真っすぐないい子なんだから、誰にでも好かれちゃうんだから、誰とでも友達になれちゃうんだから」
「それ滅茶苦茶褒められてるけど、なんで罵倒するみたいに言うのさ」
泣いている私を見て、本間君は構わずお茶碗を手に取り、お刺身とご飯を口に入れた。こんな時くらい食べるの止めなさいよと私が言うと、悪戯っぽく笑いながら御免と頭を下げて来る。
「本間君に会ってから、もう何度こんな気持ちになって来たか分からないわ。本間君に出会ってなければ、私はもう少し冷静で、もう少し賢くて、もう少し上手く生きて、それで」
きっと、もっともっとつまらない日常を送っていた。
「私は、もっと理論的に、理由があって過程があって、ちゃんとした公式のもとで答えを出したいのに、どうしてかしらね。本間君といると途中式が分からないのに答えばっかり出てきてしまうわ。私は、本間君の悪いところなんていくらでも言えるし、本間君の駄目な所だったらもっと言える。なのにどうして、私は、こんなに強く、貴方の事を」
「好きだよ」
答えを、結論を言う前に、本間君の方から言われた。短く、そして分かり易い。これ以上なくそれは告白だった。
「僕は、初瀬倉さんの悪い所は全部可愛いところだと思ってるし、初瀬倉さんの駄目なところも全部魅力だと思ってる。これからも、初瀬倉さんから大きなお世話をされたいし、これからは僕の方からも大きなお世話をしてあげたい。いつかどこかの誰かに、初瀬倉さんの事を取られてしまう日が来るのは我慢が出来ないし、誰よりも早く、結論を出したかったから今一緒にいる。だから」
それまで、澱むことなく詰まることなく話をしていた本間君が、その時初めて、ちょっと恥ずかし気に言葉を溜め、そしてんん、と喉を鳴らしてから、改めて私の事を見た。
「ずっと、僕に大きなお世話をして欲しいんだ」




