第三十四話・お出かけの日
「早く着きすぎてしまったみたいね、お互いに」
試験期間も無事終わり、長い夏休み期間を迎えた暇な大学生である私は、本間君が路肩に駐車している車に乗り込み、挨拶もせずそう言った。
「僕はまあそうだけど、初瀬倉さんは違うんじゃないかな? 家から歩いて五分でしょ?」
「五分、ということも無いわね。家を出て真っすぐ進んだ場所だから、二分くらいかしら。待たせた?」
「いや、待ってないよ。着いて、待ち合わせの時間になったらラインしよう、って思ってるうちに初瀬倉さんが来た」
「でしょうね」
言うと、本間君が表情に? を浮かべた。
「私の家から見えるのよ。私は準備を済ませてリビングでお茶をしていたの。本間君の車が見えたから出て来たということよ」
ほら、と車の外を指差す。リビングで、お母さんがこちらに手を振り、お父さんは難しい顔をして新聞を読んでいる。
「だから、お互い早く着きすぎてしまったと言ったのよ」
「ご両親に見える位置で待ち合わせするくらいなら挨拶させてよ」
本間君は、困った顔をしながらお母さんとお父さんに一回ずつ頭を下げた。お母さんは楽し気に会釈を返したが、お父さんは新聞を閉じ、本間君をジッと見詰め返した。朝からちっとも新聞が捲られていないことに私は気が付いていた。流石に、上下逆さまというようなボケは嗜んでいないようだったけれど。
「車を出しましょう」
「この状態で?」
「良いのよ。挨拶はこの間済ませたじゃない。その節はどうもありがとうございました」
試験期間というものは、私にとっては単に授業時間が短くなるだけのものであって、時間がたっぷりと余った。その時間を利用して荷物を纏めた私は、試験終了の翌日に部屋を退去し、帰宅した。冷蔵庫や洗濯機などの大型のものは売ってしまい、細々としたものを段ボールに詰めて、今は誰も載っていないこの車の後部座席に満載させ、私の実家まで。
「あの時のお父さんの顔っていったらなかったわよね」
「僕だって、どんな顔したらいいか分からなかったよ」
お父さんにしっしと手を振って、本間君に車を発進させてもらう。前回、荷物を運んでもらった時、お父さんは会社を休む勢いで手伝いを申し出てくれたのだけれど、車は用意しないで良いから荷物運びの為に家にいてくれないかしらと私は頼んだ。そうして、本間君との初対面から一分後には力を合わせて段ボールを運ぶ羽目になったお父さんは生来の素直じゃなさのせいで『君は娘の何なんだね?』的な質問をすることも出来ず、粛々と、しかしながら疑惑に満ちた表情で引越しの手伝いをしてくれた。今日も、本間君とお出かけという話はしていたけれど、お父さんはああ、とかそうか、と言うばかりで、難しい顔をしながら何も私に質問出来ずにいた。素直に聞いてくれば良いものを、馬鹿なお父さん。
「私なりのサプライズよ。お父さんのヤキモキしている感情をくみ取っていると、私はとてもご飯が美味しゅうございました」
「趣味が悪いよ……」
「あら、『いい趣味してるね』って、よく言われるのだけれど?」
「それ悪口だよ」
声を出して私は笑った。運転中の本間君の肩を押す。危ないよと言われたけれど、私が本間君の肩を押すのはよくあることなので、左手はハンドルを摘まんでいるくらいで、殆ど右手一本で運転しているのに私は気づいている。かっこいいとも思っている。
「この車に乗るのも三度目ね、私好きよ、この車。映画で三代目大泥棒が乗ってたやつみたいで、可愛いから」
「あれとはちょっと違うけどね」
そう、と答えた。お父さんも、同じことを言っていた。緑色で、ちっちゃくて丸い感じが私にとっては同じなんだけれども。
「ともあれ、旅行に使いなさいと、お父さんが現金で五万円も下さいました。今回はこれを使いますので、本間君のお財布は使わないようにお願いします」
私が言い、古めかしい茶封筒から一万円札を五枚出すと、本間君がええっ、と驚いてこちらを見た。
「お金持ってるわよねえ。流石高給取り。旅館は本間君の歌唱力で稼いで、移動は車で、私お出かけする度にお金儲けできてしまうかもしれないわ」
などと言いつつ、私は本間君の旅行用鞄のチャックを開け、その茶封筒を差し込んだ。何してるの? と言われ、諸々の諸経費よと答える。
「ガソリン代と、運転してくれているお礼ね。旅館の代金は、本間君が私を是非にと言ってくれたのだから有難くご馳走になるけれど、外で何か食べたり、お土産を買ったりすることもあるでしょうから、その辺りに掛かるお金もそれを使って頂戴」
いやいや、と本間君が首を横に振る。ガソリン代くらいはともかくとして、五万円も貰えないとの事。
「なら、向こうで私が欲しいと思ったものがあったら買って頂戴。それにあのお金を使えばいいのよ」
「だったら僕に渡さず初瀬倉さんが使えば良いんじゃないかな?」
「分かっていないわね。男の人に我儘を言って買って貰ったり、ご馳走してもらうのが楽しいんじゃない。父親から貰った五万円なんてつまらないわ。本間君に支払わせた五万円だから、楽しいのよ」
分かった? と聞くと、本間君は分かったような分からないような表情で首を捻った。
「じゃあ、差し当たっては途中のお昼ご飯と、車内で食べたいお菓子とかだね。高速に乗っちゃうけど、初瀬倉さん、忘れ物とか、トイレとか、大丈夫?」
「そうね、大丈夫よ。朝ごはんは軽めにしたから、サービスエリアまでにしっかりお腹を空かせておくことにするわ」
旅館では朝晩二食出るということで、私はてっきり一日目と二日目の朝晩かと思っていたのだけれど、一日目の晩と、二日目の朝晩、そして出発前の朝の四食だった。言われてみれば確かに、初日の朝に出されてしまうのでは、旅行者は朝から空腹で旅館まで移動しなければならなくなる。とても小さなことであったけれど、時々抜けている自分の常識を確認できた一幕だった。
「暑いとか寒いとかない?」
「大丈夫よ。私は大概寒がりなのだけれど、本間君は肌感覚が合うわね」
クーラーの通気口に手を当てる、僅かな冷気が、私に直接当たらない角度でそよそよと気持ちばかり出ている。
「では、休憩を抜くと車の所要時間は大体三時間程度です。渋滞はなし」
「良いわね、まだ世間が夏休みにも入っていないこの時期の、しかも平日に二泊も時間を取って旅行に行けるのだもの。大学生の特権よね」
「特権は、使わないと損だからね」
「そうよ。本間君も分かって来たじゃない」
「割と使われてきたからね」
本間君の言葉に、私は笑った。
「就職活動もサクッと終わらせてしまえば半年以上は時間が出来るのよね。本間君も大急ぎで終わらせてね。都道府県全て旅行しましょう」
「それは……もし就活が上手くいってもそんなにお金が無いんじゃないかな?」
「大丈夫よ。毎回この車で行けばいいんだもの。それに私には旅行に行くたびにお金をくれるオジさんが付いてるから」
今度は本間君が笑った。笑いながら、お父さんの事をそんな風に言うのは良くないよと窘められたので、お父さんの事とは言っていないわよと返した。
空には気の早い入道雲が見えた。




