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第三十三話・呼んでみよう

 文化祭が終り、お祭り気分から学生身分へと帰る為の週末が開けた月曜日、私は普段通り大学へ向かい、普段通りの自習をしていた。


 「……そろそろね」


 一限目の授業は履修しておらず二限目からなので、普段よりも少し遅い時間に家を出て、人が少ない朝の図書館を利用する。暗記するにせよ、理解するにせよ、勉強という極めて能動的な行為は朝と夜とで効率が随分と変わってくる。今日は何もしなかったな、と思っていても夜寝る前の頭は疲れていて中々勉強は捗らないし、調子が悪いと思っていても、朝であればストレスなく集中出来る。前期授業が終わり、夏休みに入ったら実家に戻るつもりなのでそれからは、朝の移動が大変になるだろう。毎日フル単位履修していた一年生の頃でなくて良かった。これまで常に履修可能上限の講義を取って、一つも落とすことなく来た私は、すでに卒業に必要な単位の八割方取り終えている。極端な話、後期はどこかひとつの曜日に授業を纏めてしまっても良いくらいだ。


 「そろそろよね」


 同じ言葉を二度呟いた。大切なことだから念の為二回呟いたという訳ではなく、単に緊張のせいだ。

 私は友達と隣の席で授業を受けるという事をしない。顔馴染みの人物は勿論のこと、花ちゃんであっても席は離す。仲が良いからこそ遠くに移動するといった方が正しいかもしれない。隣に座っていたからといって授業中に会話などしないし、であるのならば最初から遠くにいた方が集中出来るというのが理由だ。


 ただ、そんな私であっても、そんな私だからこそ、その講義を履修している知り合いの顔は把握している。花ちゃんはほぼ毎日高ノ宮君と並んで講義を受けているのを見るし、花ちゃんの繋がりで仲良くなった女の子達も、どの授業には誰がいると、覚えるともなく覚えてしまった。まあ、女子の場合全員いるか一人もいないか、という二択であることが極めて多いので、覚えるのが楽というのもある。

 そうしてここからが大切な所なのだけれど、私にとって週明け最初の講義である月曜二限は、本間君も受けている講義だ。



 ドキドキしていた。



 特に何を約束したでもなく、昨日の夜『明日同じ授業だね』『会えるの楽しみ』などというやり取りをした訳でもない。以前までも月曜二限は同じ授業を受けていた訳であり、私は週明けに本間君を見て軽く会釈をして挨拶するのが日課だった。授業の後、用事が無ければ食堂で会い、一緒にご飯を食べた。花ちゃんと高ノ宮君も加えて四人での昼食が多く、三人になったり二人になったりすることもある。私と花ちゃんということも、私と高ノ宮君ということも今までにあった事だ。


 だから、私にとってこの移動も、これから本間君の姿を見る事も、それは取り立てて珍しい出来事ではない。それでも今までとは違う。胸が高鳴る。これまでとはほんの少し関係が変わった。これまでとはまるっきり違う関係になるかもしれない。その期待と不安が、私を冷静ではいさせなかった。


 本間君は一限目の講義を二限目の講義を受ける隣の教室で受けている。いつも前の講義が終るとすぐに鞄だけを移動させ、トイレに行ってから戻ってくる。大抵の場合私はその鞄を確認して席に着き、戻ってきた本間君と視線を交わす。時々、トイレから戻ってくる本間君と、エレベーターで昇って来た私が鉢合わせる事もあった。そんな時にはちょっとだけ会話をし、ちょっとだけ幸せな気持ちになれた。


 普段通りの、日常の一コマだと、私は意を決して昇りエレベーターに乗り込み、普段より少し気合を入れてから、教室の扉を開いた。


 「本間君て、今日暇なの?」


 そう言ったのは私じゃない。私が入室した時には既に教室内にいた女子のうちの一人だ。


 「カラオケ行きましょうよ、私本間先輩の歌聴きたい」


 口調から後輩と分かる。けれど背が高くて随分と大人びた女の子が楽しげに言った。語尾の『た』と『い』の間に『ぁ~』と加えても良いような、間延びし、甘えた声だった。


 スッと、胸の熱が冷めたのが分かった。同時に、それよりも下の、お腹に熱が加わったのが分かった。本間君を囲む女子は三人、その中の一人が本間君の肩に手を置いている。『何馴れ馴れしくしてんのよこの女』などというお下品なことはちっとも思わず、『本間君の世界を広げる為にあえて目立つことをさせたのだから、私の作戦は大成功ね。あー、計算通りだわ』と、海のように広い心で思った。眉に皺が寄ってしまったのは元々こういう顔だからであって、決して不機嫌であるからという理由ではない。一応眉を揉んではおくけれども。


 「……こういう予想もしておくべきだったのね」


 自分にだけ聞こえるよう呟き、そして私は普段通りのすまし顔で教室の中央やや前左端の席に座った。本間君達は右側の中央やや後ろ。入室し、扉を閉めてから私はもう本間君に視線を向けることはなかったけれど本間君からは私の横顔、後姿がよく見えた事だろう。私はそれを意に介さず、席に座ってすぐに文庫本の小説を開いた。


 本間君を囲む女の子達は楽しげに話を続け、それに対して本間君の『うん』とか『ああ』という控えめな返答が何度か聞こえた。


 「彼女いるんですか?」

 先程の、大人びた女の子の声が聞こえた時、私の心臓がドクンと跳ねた。


 「いや、いないよ」

 「意外ですね、仲良しな女の事か多そうですけど」

 「まあ、仲良くしてる子ってことなら」


 本間君の言葉に、女の子達が食いつく。それから幾つかの質問と回答が繰り返された後、仲が良い女の子は誰なのかと問い詰められ、本間君が花ちゃんと私の名前を出した。


 「そこに座ってる……初瀬倉さん?」

 名前を呼ばれて、私はあたかも『今気が付きましたよ』という表情で本から顔を上げた。


 「どうも」

 にっこりと微笑んで、軽く会釈をする。三人とも知らない顔だ。或いは三人とも一年生であるのかもしれない。


 「綺麗な人、本間君こんな可愛い人と仲良しなの?」

 「仲良しっていうか、どうだろうね」

 「あら、私は仲良しのつもりだけれど?」


 本間君が、本間君らしく歯切れの悪い事を言うものだから、私も私らしくからかうような事を言った。女の子達はキャーと歓声をあげて、私はそれを聞いてクスクスと笑う。


 「何かすっごい大人」

 「ねー、本間先輩、相手して貰えるの?」

 「弄ばれちゃいそー」


 女の子達が楽しげにそんな事を言い、本間君は本間君で苦笑しつつそれを否定しない。誰の事も傷つけないし、誰の言う事も否定しない、いつもの本間君だ。


 「もう、授業が始まるわよ」


 これまでの会話に聞き耳を立てていて、彼女達が前の講義でここを使用していたということは分かった。昼休憩を除き、講義と講義の間は十分間。間もなく講義が始まり、そしてすでにそれなりの人数の学生が集まってきている。


 私の言葉を聞いて、女の子達がハッと気が付いた表情で慌て始めた。どうやら彼女達も次があるらしい。やはり三人とも後輩なのだろうか。


 三人がいなくなり、バツが悪そうな表情をしている本間君が残った。私は立ち上がって本間君に近付くようなことはせず、文庫本を閉じ、咎めるようにちょっとだけ睨み付けてみた。


 『怒ってる?』

 講義が始まってすぐ、スマートフォンが震えた。教科書を開きながら、片手で操作する。


 『怒っていないわ。モテるわね。って思っただけで』

 『モテてないよ。文化祭で見たから話しかけて来ただけで』

 『それを、モテてるって言うのよ? おめでとうございます』

 『何か誤解してない?』

 『してないわよ。本間君がモテてるってことは事実だし、昔から本間君は人気者だもの』


 返信の後、暫くスマートフォンの動きが止まった。マルチタスクは得意なので、この程度の操作で講義内容が分からなくなることはない。


 『カラオケ行かないよ』

 その一文に、思わずクスっと笑ってしまった。可愛い。


 『あら残念、誘おうと思っていたのに』

 何と返そうか考えて、本間君が困りそうな内容にしてみた。斜め後ろの本間君が、どんな表情をしているのか想像をする。とても楽しい、有意義な時間だ。


 『それは行こうよ』

 また、しばらく時間が空いて、それからシンプルな一文が帰って来た。色々考えて、結局何も思い浮かばなかったので単純になってしまった。そんな内容だった。


 『そうね』と返し、講義に戻った。またどうせ食堂で会うのだから、これ以降の話はそこですれば良い。


 講義は終了時間のほんの少し前に終わり、学生達は三々五々散ってゆく。出口で渋滞するのが嫌だった私は教室から人が減るのを待って、それから立ち上がる。前にいる本間君がチラリと背中越しに私を見たのが分かった。出入り口の混雑を通過し、まばらになった人ごみの中、私はその背中を強く押した。ちょっと予定外のこともあったけれど、私が今日大学に来た理由を果たそうと思う。


 「本間君」


 話しかけながら、本間君に近付いた。背中から、腕、それから胸元の辺りを、スンスンと嗅いでみる。落ち着く、本間君の匂いがする。突然なされた私の奇行に、本間君は少々戸惑い気味だ。


 「えっと……何?」


 本間君の質問。その質問に私は首を横に振って答える。前に回って、後ろ向きに歩きながら一言。



 「呼んでみただ~け」



 一言だけで振り返り、私は進んだ。言ってから思う。これは、思っていた以上に恥ずかしい。頬が赤くなっているのが分かるけれど、耳まで赤く放っていないだろうか。


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