第二十九話・父と娘と
その電話が入ったのは、週が明ければ文化祭となる、五月最終週の週末だった。
どうして、この大学は梅雨入りする六月に文化祭を行うのか理解に苦しむと、実行委員の皆が口を揃えてぼやきながらも、文化祭準備のラストスパートを行っていたその日、実行委員の皆は愚痴を言いながらも楽し気に仕事に従事していた。今年はギリギリ梅雨入り前で、天気に問題はなさそうだとか、意外と、大雨の文化祭の方がフェス宜しくイベントは楽しいとか、そんな話が盛り上がっていたような気がする。
いつも通りといえばいつも通り、いつの間にかある程度皆に指示を出す立場に置かれていた私は、その時イベントのタイムテーブルについて質問を受けていた。
「ちょっと、ごめんなさい」
一言断りを入れて、スマートフォンの液晶画面を覗いた。そこにあったのは、登録だけはしたけれど一度として連絡を取り合ったことの無い父親の名前。
その名前を見て、そしてその名前を持つ人間の顔を頭に浮かべた時、心臓が跳ね上がるような思いがした。勿論ドキッとした、というような感情ではない。どちらかといえば、ビクッと、怯えから身体を固まらせたのだ。
「ええと、ここに書かれているから、皆で確認しておいて貰えますか?」
何とか、そう一言だけ言いおいて、画面を覗き込んだ。多分、顔からは血の気が引いていたと思う。電話越しに、父親と会話をする。あたり前に行なわれている筈の親子の対話。それが怖い。以前は二対一でやり合ったのだから、一対一で、それも叩かれるような恐れのない通話という状況で、何を怯える必要があるのかと、自分で自分を励ます。それでも、通話とする事が私には出来なかった。どうしても、出来なかった。
「どうしたの?」
肩口から、花ちゃんに声をかけられ、私は口元を引き結びながら、液晶画面を花ちゃんに見せた。私と同じ名字で、私と違う男性の名前。私の父のフルネームを知っているわけではない花ちゃんだけれど、誰からの電話かは分かったようで、黙って手を繋いでくれた。
「どうしよう……」
自分でも驚くくらい、不安そうな声が出てしまった。大丈夫大丈夫、花ちゃんがゆっくりと、柔らかな声で繰り返してくれた。
「あ……」
大丈夫と言って貰えたお陰で、ほんの少し私が落ちつけたのと殆ど同時に、着信が切れた。切れてしまうと、今度は何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、私はさっきとは違う意味で『どうしよう』と呟く。
「落ち着いて、ちょっと時間を空けて、それから掛けなおせばいいだけだよ」
にっこりと笑う花ちゃんから言われ、私はそうかと頷いた。確かにその通りだ。落ち着いてから掛けなおせば良い。それだけだ。簡単なことだ。
「何かあったかいものでも飲もうよ。陽子ちゃんは何が飲みたい?」
花ちゃんに手を引っ張られ、ロビーにまで連れて行かれた。そこで私は丸テーブルの脇に設えられた白い椅子に座らされ、聞かれた。
「あの、私自分で持って来てるから」
「たまには良いじゃない。飲み切れなかったら誰かに飲んで貰えば良いよ。陽子ちゃんの飲みかけだったら大人気だよー」
コロコロと笑いながら言う花ちゃんの言葉に、私はうろたえた。そして恥じらった。自分が飲んだものを、誰か男の人が飲む。とても恥ずかしい、はしたないことをしているような気がした。頬を抑え、言葉になっていない声を漏らすと、可愛いなあと言われた。
「素の時の陽子ちゃんって本当可愛いね。いつも可愛いけど、もっと可愛くなる」
何と言い返せばいいのか分からなくて、いや、とかそんな、とか言っている間に、花ちゃんはピーチティーとレモンティーを一つずつ買って、どっちが良い? と聞いてきた。どちらも私が好きなものだ。悩む、どちらも好きだからどちらも捨てがたい。
「レモンティーは最近沢山飲んでたから、偶にはピーチティーにしましょう」
私が決めるよりも先に、花ちゃんが言って、そしてプルトップの蓋を開けた。言われるとそんな気がして、うんと頷き手渡されたピーチティーを受け取る私。こんな時に何について乾杯しているのか分からないけれど乾杯をして、一口飲む。美味しい。甘い。
「ありがとう。ちょっと落ち着いたわ」
私が言うと、良かった、と花ちゃんに返事をされた。その花ちゃんにもう一度、ありがとうと言う。今度は、いつもありがとうと言う意味で。こちらこそ、と言ってくれた。
「今更何か私を叱りつける為に、わざわざ電話をしてきた、という訳ではないわね」
落ち着いた私は、父からの電話の意味を予想し、言った。花ちゃんはそれに答えず、ふーんと一言。ただ私の話を聞く体制だけを作ってくれているようだ。
「あの人達はあれで何かきっかけがないと動けないところがあるから、私にお説教をするとか、或いは」
謝罪するとか、と言いかけて、そんな可能性が全くないと思い一旦言葉を区切った。謝るくらいなら死ぬまで意地を張り続ける。母はともかく父はそういう人だ。全く、私にそっくりで嫌になる。
「……お説教するなら、例えば年明けとか、新学年になった時とか、私の誕生日とか、そういう分かり易い節目に連絡をして来る筈」
となると、一体何の理由で電話をしてきたのだろう。間違って掛けてしまったというのは考え辛い。何か心境の変化でもあったのだろうか。出世でもした? こんな中途半端な時期にと思わないでもないけれど、そういうこともあり得ると言われてしまえば私には事の真偽は分からない。出世して、そろそろ娘のことを許してやろうか。等と思い始めたのかもしれない。私とやりあった事が、父の中では『娘に言い負かされた日』ではなく『娘が我儘を言うので家を追い出した日』に変換されていたとしても不思議ではない。
「……うだうだと考えてみても、実際、話をしてみないと分からないわね」
自分の気持ちを落ち着ける為に、花ちゃんに色々と話してみたけれど、結局は単純な結論に落ち着いた。花ちゃんはいつも通りの笑顔でそうだねと言った。ピーチティーを飲む。うん。大丈夫だ。
「電話してみるわ」
言って、私は立ち上がり、片手にスマートフォン、片手に缶という状態で歩き出した。階段を登り、屋上を目指しながらの通話。屋上に到着してから電話をかけることはしなかったし、エレベーターを使って急ぐようなこともしなかった。普段通りだ。後ろから、頑張ってねと声をかけられる。スマートフォンを肩と頬で挟み、ピースサインを送った。
「もしもし」
コール二回で、電話は繋がった。呼び出し音が途切れ、通話が開始された瞬間、緊張と不安でお腹の奥がキュッとすぼまるような感覚になった。
「こんにちは。今、大丈夫か?」
もしもしと言った後、黙って父からの言葉を待っていると、そんな風に言われた。そんな言い方で会話が始まると思っていなかった私は、戸惑って『ああ、うん』とか、自分でもよく分からない声を出した。
「何から話したものかな」
父の声は、私がよく知っているそれと変わりはしなかった。ただ口調が若干大人しく、というか、高圧的ではなく、私を相手に気を使っているような、言い淀んでいるような様子は聞いている限りで分かった。
「母さんが今病院にいる。お前と会いたがっていると思うので、会ってやって欲しい」
それだけ言うと、用事は以上だと、話を終えた。
「電話番号当てにメールを送る。住所と病院名と病室、面会が可能な時間などを送るので、空いている時間に来ると良い」
そうして、父は黙り、沈黙の時間が流れた。父の沈黙は『言うべきことは言い切ったので、質問が無ければ通話を切る』という意思表示であることがよく分かった。
「お、お母さんが、入院しているの?」
「そうだな」
電話越しの父は、自分が言っている言葉とは裏腹に冷静だった。昔から冷静な人ではあったけれど、更に熱が取れたというか、分かり切ったことを淡々と定時連絡しているだけというかのような、こちらが拍子抜けしてしまう口調。もしかすると、入院ってそんなに大事じゃなかったのかしらと思ってしまうような。
「お母さんの様子は? 大丈夫なの?」
まさか死んでしまうとか、もう人と話せるような状態にないとか、そんな想像をしてしまい、思わず口籠ってしまった。そんな私に、電話越しで少し、笑ったような吐息が聞こえてきた。
「もしそうなら、今すぐ来いと言うし迎えに行っている。大丈夫だ」
「そ、そうよね」
父の強引で傲慢な口調が、この時ばかりは安心材料だった。笑われてしまった事も、笑ってしまうくらいに、事実とは違う予想だったということだ。それならよかった。
「急いで行くわ。すぐにメールして」
「分かった。急ぐ必要はない」
そうして、再び父が黙った。私も黙り、そしてこちらから通話を切る。電話を切った時に、漸く校舎の最上階に到着した。そのまま、登って来たばかりの階段を下ってゆく。
「大丈夫だった?」
戻ってすぐ、花ちゃんに話しかけられた。周囲には何人か人がいて、それぞれ自分の仕事をしている。二人だけになれる場所で話そうかと、私は一瞬考えて、何も隠す必要はないと今あった話をそのまま口にした。
「母親が倒れて、入院しているみたいなの。父親から今連絡があって」
花ちゃんがびっくりして目を真ん丸に見開いた。思わず微笑んでしまい、心配ないわと答える。聞き耳を立てていたわけではない実行委員の皆も、母親が入院、という言葉を聞いて一旦作業を止めた。
「父の口ぶりからすると、危篤とかそういう話ではなくて、一応知らせておいたから時間がある時にお見舞いに来なさい。という感じだったのだけれど、でも、やっぱり心配だから、ごめんなさい、帰らせてもらえませんか?」
一瞬、場が鎮まった。断られるとは思っていなかったけれど、でも、誰がそれを判断すべきなのかが分からないのか、その場の皆がそれぞれの顔を見回す。木口先輩がいれば鶴の一声なのだけれど。
「すぐ行ってあげて。後の心配は何もしなくて良いから」
そう、言葉を発した人に、私の、その場の視線が集まる。香月先輩だった。
「連絡もしないでいい。どういう状況であっても戻ってくる必要もない。お母さんの側にいてあげて」
いつも優し気な、悪く言えば自信なさげな香月先輩がその時ハッキリと、そして力強く言ってくれたことには驚いた。驚きすぎて、思わずジッと正面からその顔を見詰めてしまうくらいに。
「あ、いや、初瀬倉さんが必要ないって事じゃなくて、僕らの事は心配いらないからね、って意味だよ」
私の沈黙をどう捉えたのか、香月先輩が少し慌てたような表情で釈明をした。その様子がおかしくて、私は口を押えて笑った。
「いえ、私一人いなくったって、代わりの人は沢山います」
私は、私がかけがえのない存在でも、絶対必要なピースでもないことを知っている。少し前までならばそれはネガティブな言葉としてとらえられたかもしれないけれど、今の私にとっては寧ろ喜ばしいことだ。ここはたった一人の人間が離脱するだけで代役を立てられなくなるような脆弱な組織じゃあない。木口先輩が、他の先輩方が、ほんの少し私が、もちろん香月先輩も、懸命に努力をして万全の体制を作った。それを頼もしいとも思い、誇らしいとも思える。
「ありがとうございます」
頭を下げて、バッグを小脇に抱え教室を出た。気を付けてね、という声が幾つかかけられた。その声をかけてくれる人達の顔も名前も、今の私は見分けることが出来る。向こうがどう思っているのかは知らないけれど、友達だと思うことが出来る。
「えーと、お大事にどうぞ」
廊下を早歩きで進んでいると、ペンキを使って字を書いている本間君に言われた。頬に青いペンキが付いていて、ジャージは前衛芸術のようにカラフルだ。その様子を見てプッと噴き出す。
「私が風邪をひいた訳でもないのに、もうちょっと気が利いたこと言えないの?」
「じゃあ、頑張って、とか?」
「それも何だかおかしいと思うけれど、そうね、ありがとう。頑張るわ」
握手を、出来ればハグでもして勇気づけて貰いたいところだったけれど、ペンキだらけの本間君を見てそれは遠慮し、一方的に頭をグシャグシャとしてやった。酷いなあと言って笑う本間君、自分の指で髪を梳いて、頭髪までカラフルにしている。
大学を出た時、非常に簡潔で、情報だけを纏めた分かり易い父からのメールが届いた。一時間かからずに到着する場所にある病院だった。
大急ぎで走って、病室に駆け込みながら『お母さん!』等と叫ぶような真似はしなかった。普通に電車に乗り、普通に受付で名を名乗り、普通に歩いて病室に入った。時刻は五時を回った頃合い。六月の五時はまだまだ明るく、夕方という感じもしなかった。
「……もしもし?」
六人部屋の病室、更にその一番奥のベッドが、母が使用しているベッドだということだった。私は、控えめに部屋に入り、そして控えめに、その扉を開いた。
「……ああ」
そこに、新聞を開き読んでいる父の姿があった。まるで、いつも父が家でそうしているかのように、椅子に座ったまま泰然と、当たり前のように。
「あ……」
ああ、と、意味のない言葉を吐いた父と同じように、私もまさかそこに父がいるとは思わず絶句してしまった。父の横に、椅子が一脚、座れば肩が触れ合ってしまうような距離に、一脚、そこに座る気持ちにはとてもなれなかった。
「こん……ばんわ、か? 最近日が長くなって来て、どこからが夜なのかよくわからないな」
黙っている私に、新聞紙を折りたたみながら父が言い、そうして椅子を手で押した。
「久しぶりだな。元気だったか?」
そっと、なるべく大きくならないよう、周囲に気を使いつつの、私に向けての言葉。そんな態度が父には余りに似合わなくて、思わず私は何それ? と呟いてしまった。
「お前が言ったんじゃなかったか? 親が最初に娘に言うべき言葉は『お帰り』だ」
フッと微笑みながら父が言ったのを聞いて、私は首を横に振った。そんなことを父に言った覚えはない。
「そうだったな。お前に言われたのは、『こちらの質問に答えないくせに、偉そうに待てだなんて言うな』だったか?」
それは、言った覚えがある。昔の父だったらそのまま手が出てくるだろう言葉だ。けれど、父は自嘲気味に笑い、さっきのは誰に言われたんだったかな、と呟いた。
「お前が出て行ってから、母さんにも同僚にも、同級生にも、新人の女子社員にまで、説教を受けまくってなあ。誰に何と言われたのか、良く覚えていない」
言ってから、父が顎をしゃくってベッドを示した。母が眠っていた。
「暇だからと、さっきまで二人でその辺を歩いていたんだ。ずっと寝ているというのは随分腰にくるらしいな」
「さっきまでって、お父さん電話したのは」
「ここからだ」
てっきり、自分は会いに行けないのでお前が行け、という話なのだと思っていたけれど、どうやら違ったようだ。今更気が付いたけれど、今日の父はスーツですらない。あまり見たことの無いシャツにチノパン姿だ。
「お父さん、仕事は?」
「有休を取った。二十年使っていなかったんだ。若い頃は風邪をひいても休むなんてことは許されずに消えていった有休が沢山ある。今から半年休んだところで文句は言わさんよ。言われたらその場で労基に電話だ」
それは、父形の冗談だったのだろう。昔は『有休を使い切ることが社員の権利だなどと言う奴は大抵仕事の出来ない無能だ』と言っていた。皮肉に笑いながらの言葉だったけれど、私はその冗談に笑ってはあげられなかった。
自身のブラックジョークを無反応でかわされた父は、別段それを気にする様子も無く、母を起こしたくないと言って立ち上がった。何か、ジュースでも飲もうと言われ、後に続く。
「何が飲みたい?」
「別に……なんでも」
何でもいいという答えが、これから何か食べさせよう、飲ませようという人間にとって最も面倒な答えであることはもちろん知っていたけれど、その時の私はそう答えることしか出来なかった。何だか私が知っている人と様子が違う父に、戸惑っていた。
「お前は、飲み物は何が好きなんだ?」
「……紅茶、とか?」
「普段は何を飲むんだ?」
「自分で淹れて、冬はあったかいミルクティーを持って行ったり」
「紅茶の中では何が好きだ?」
「普段はレモンティーを飲むことが多いかしら。今日はピーチティーをのんだけれど」
「そうか……」
私との会話の後、父は自分にジャスミン茶を、私にレモンティーを買った。
「ジャスミン茶なんて飲むの?」
「コーヒーが余り良くないと言われて、ここのところはこれにしているな。トイレが近くなってしまうが、それもそれで良いことらしい」
ペットボトルのキャップを開けて、レモンティーを一口飲んだ。飲みなれた味だ。ちょっと酸っぱくて、甘い。
「お互いの事、何にも知らないのね、私達」
私が言うと、父が小さく『そうだな』と言うのが聞こえた。




