第二十五話・それぞれの一年は
藤原時子さんが不慮の死を遂げてから一年が経過した。
季節は儚くも美しい桜の花を散らせ、後に生命力あふれる新緑の葉を茂らせた。三寒四温を繰り返した後気温は上昇を続け、もうじきやってくる梅雨を越せばそこはもう夏。
五月のある日、私は藤原時子さんの墓参りに来ていた。
遡ること三日前、藤原家の人達に招かれ、本間君が彼女の一周忌に立ち会った。『三回忌からは出席しないよ』と、本間君は一旦彼女に対しての気持ちに整理をつけるような事を言っていたけれど、律儀な彼の事だから墓参りは今後も継続してゆくだろう。
そんな本間君や、藤原さんのご家族と会ってしまうことを避けた平日の昼間。掃除されたばかりなのだろう墓は、水をかけたり落ち葉を払ったりという、ごく簡単な掃除以外にすべきことも無く、到着してから五分後には既に私がすべきことはなくなってしまった。
「貴女はもう、悩んだり疲れたりすることも無いのかしらね」
これ以上この場にいる必要もない。そもそもここに来る必要もなかった。それをわかっていながら、私はその場から離れがたい気持ちを拭えずにいた。相談相手として的確な相手だったとは思わない。寧ろ他人の悩みを解決するのは苦手な人だっただろう。けれど、私は出来ることなら藤原さんと話をし、自分がどうするべきなのか教えて貰いたかった。
「陽子ちゃんが羨ましいわ」
私が藤原さんに会った最後の日、そんな事を言われた。呼び出されて、喫茶店に入って、私はレモンティーを、藤原さんは暖かいハーブティーを注文したことを覚えている。
「どうしてですか?」
そう聞いて欲しい事が丸わかりの質問だったので、そうしてあげた。だって私にないものをいっぱい持っているもの。と答えられた。
「お互い様ですよ。私が持っていないもので、藤原さんが持っているものだってたくさんあります」
陳腐だけれど、間違いなく正しい一言。藤原さんはそうだねと一言呟いて、スプーンでハーブティーをひと回し混ぜた。
「陽子ちゃんは、ユーダイ君に、尊敬されてるじゃない」
暫く黙ってから、藤原さんがポツリと呟いた。ストローを摘まんでレモンティーを喉に通す。美味しいけれど、氷が沢山入ったレモンティーは少し冷たすぎて、量も多すぎた。
「よくお話してるわ。陽子ちゃんは凄いって」
「それはそれは」
本間君も随分と男子力の足りないことをするものだ。本間君からしてみれば私は性別の関係ない友人であるのかもしれないけれど、彼女と一緒にいる時に同世代の女を会話に登場させるだなんて。
何と言ってあげればよいのか分からなくて、私はすみませんと頭を下げた。私と一緒にいる時の本間君はしきりに藤原さんとどこにいったとか、今度何をするとか、隙があれば惚気て来る。なら、それを言ってあげれば藤原さんも安心するのではないだろうかと考えるのは浅薄だ。自分の話をしてくれているという点よりも、自分がいない時に別の女と頻繁に会っているということの方が気になるのが女というものだ。仮に彼氏から99点だと言われた時、99点貰えたことよりも、なぜ1点足りていないのかが気になる。そういうところが女にはある。全員共通とは言わないけれど、大半の女がそうだと言える。
「陽子ちゃんはユーダイ君と最近いつ会ったの?」
何か嫌なことでもあったのか、この日の藤原さんは少し卑屈だった。いつも影が無く、女特有のジメジメした様子とは無縁の藤原さんとしては非常に珍しいことだ。
「授業が重なっているので一昨日」
この私の答えの中で重要なのは一昨日会ったことではなく、授業が重なっていたということ。授業だから仕方なく顔を合わせてしまうだけであって、二人で会ったりどこかに出かけたりということはないという主張だ。それは本当の事だったし、この頃の私は自分から本間君に会いに行くことはなかった。プライベートで会う時の半分以上は藤原さんも一緒だった。
「ゴメンね、詮索したいわけじゃないんだけど、ちょっと」
「分かりますよ」
藤原さんの言葉を受けて、答えた。それまでも、私は藤原さんとこうして時々会って話をして、またねと言ってお別れをしていたのだ。本間君の悪口で盛り上がったこともあったし、一日二人で買い物をしたこともあった。本間君を介しての出会いではあったけれど、この頃の私達の間には確かに友情らしいものが芽生えていたのだ。それが変わってきた理由。
「好きになっちゃったんですよね?」
微笑みながら、私は言う。藤原さんは顔を真っ赤にして俯き、頷いた。女の私が見ても可愛いと思える仕草だった。
『こんなに人から好きになって貰えること、もう無いんじゃないかって思って』
その時から遡る事三ヶ月前、藤原さんからそう言われた。こんなにハッキリと、強く好きだと言われたならばきっと自分の事を大切にしてくれる。今の機会を逃すのは勿体ない。告白された回数はとうに数えられなくなっただろう藤原時子さんをして、尚そう思わせてしまうくらいに本間君は情熱的で、積極的だった。ただ、それは嫌な言い方をすれば一方通行の愛情でもあった。それが、この時はそうではなくなっていた。藤原さんもまた、本間君の人間性に長く触れ、その優しさや素直さを好きになったということだろう。
「私は、ユーダイ君にどうしてこんなに好かれているのか自分で良く分かっていないから。陽子ちゃんは分かり易いじゃない? 賢くって綺麗で、何でも出来て」
「どうして好かれているか……」
藤原さんの言葉に対して、私は答えるでもなく反論するでもなく、一緒に悩んだ。
私は確かに本間君から尊敬されている。いや、尊敬だけなら多くの人にされているしされてきた。綺麗はともかく、今言われた賢いや何でも出来るという理由で。確かに、客観的に見て私は賢いし何でも出来る。だから尊敬される。けれど私は同時に敬遠もされてきた。『何でも出来るから、逆に馬鹿にされていそう』という理由が多かったと思う。そしてその理由は間違っていない。私は確かに、何でも出来るが故に何にもできない周囲の人々を馬鹿にしていた。
「尊敬には理由があっても、好きには理由はないものなのかもしれませんね」
考えて、出てきた結論をそのまま口に出す。言ってみると随分使い古された言葉であるように思えた『人を好きになるのに理由は要らない』有史以来、どれだけの人がそう言い、ドラマや小説の中で繰り返されてきたことだろう。
「すごいなあ」
けれど、そんな使い古された言葉を聞いて藤原さんは何のてらいもなく目を輝かせた。私も、いつの間にか好きになっていたし、彼の全部好きだもの。と惚気られた。私は明確に隙になった瞬間を覚えている士、本間君の悪い所も沢山言える。ただ、私にとって彼の欠点は同時に、彼の『可愛いところ』でもあるのだ。
「やっぱり尊敬しちゃうわ。羨ましい」
「沢山悩んで下さい」
机の上に腕を組んで突っ伏した藤原さんは、それでもその日会った時よりは元気に見えた。私はあえて偉そうな口調で返し、二人でちょっとだけ笑った。本間君から一番好かれている彼女が、精々二番争いしか出来ない私に対して尊敬なんかする意味がないと思ったけれど、そうは言わなかった。私にだって嫉妬心くらいはある。悩みくらいは抱えてしかるべきだ。どうせ最後にはハッピーエンドに決まっているのだから。
そんなことを思って、本当に本心から本間君と藤原さんの幸せを願い、そうして別れた後、次私が藤原さんに会った時、彼女は既にその原型を留めてはいなかった。
人はどうして、今ある現状がいつまでも続くものではないという当たり前のことを、こんなにも簡単に忘れてしまう生き物なのだろう。卒業や入学といった、確実に訪れる出来事すらも、まだまだ自分には起こり得ない遥か先のことで、考える必要などないと思ってしまう。後になって思い返してみれば、終了までの時間などあっという間に過ぎ去ってしまったうたかたの出来事だ。ましてや、友達に家族や恋人など、このまま何の努力もしなかったところで永遠に今の状況が続いて当然だと、考えるまでも無く確信を持っている。いや、考えることもせず疑いもしない。と表現した方が正しいだろうか。
「ともあれ、私達は悩みます。これからも。生きていますから」
回想を終えた私は、藤原さんが眠るお墓の前でそう宣言し、頭を下げた。
「見守っていて下さい。私達が好きになった、彼の事を」
葬式なんて、法事なんて、そして墓参りなんて、死んだ人間がありがとうだなどと思える筈が無いのだから意味がない。生きている人間が自分の気持ちを楽にするために行なうだけの行事なのだから不必要だ。なんて考えたことはない。ないけれど、きっと昔の私だったらそんな小賢しいことを考えただろうという予想は容易につく。今だったら『生きている人間の気持ちを楽にする』ということがどれだけ大切なことなのかが分かる。『楽にする』ということは具体的には『整理をつける』ということであって、心の整理の為にはこういった儀式的な行いは極めて効果的なのだ。だから私は、こういった行事が不必要だという人に対しては『貴方は行わなくていい。ただ、必要な人もいて、その人達の心の平穏を乱すような真似はしないであげて欲しい』と言うだろう。
「又そのうちに来ますね」
そう言って私はお墓の前から去った。
「暫く来ない。って言ったよ」
墓参りをした翌日、本間君の言葉を聞いて、私はふうんと答えた。
「時子の御両親とも話をさせて頂いて、来年僕は呼ばれないことになった。僕も納得しているし、向こうの御両親も、その方が良いって」
「三回忌ね」
一周忌は、お亡くなりになって一年だけれど、三回忌は二年。ちょっとわかり辛い日本の法事システムである。
「良いこととも悪いこととも、私の立場では言えたことではないけれど……大人だと思うわ。勿論良い意味でね」
大学の授業終わりに、私と本間君は学園祭で配るパンフレット作りをしていた。頁1から18まで、両面刷りの紙を一枚ずつ重ねて一部にし、それをホチキスで二ヶ所留め、冊子にする。古くは小学生の頃の『移動教室のしおり』から、やり慣れた作業である。本間君も又、私の手伝いで同じことは何度となくしてきた。
「ちょっと、冷たい人間なのかなと思いもしたんだけどね」
「それも分かるわ。けれど、英断だとも思うわ」
言葉足らずな言い方だったけれど、私は本間君が何を言いたいのか分かった。まだその死から一年しか経っていないのに、来年からは来ないと宣言する。あんなに好きだったのに、もう忘れてしまうのかと、自問自答もするだろう。けれど、藤原さんと違い、本間君には今後の人生がある。順当に、日本人の男性平均寿命で計算すれば六十年もの時がある。どこかで見切りは付けなければならないとは思っていた。そこに関しては恐らく本間君本人以上に藤原さんの御両親が心を砕いたことだろう。
「忘れないであげてくれれば、それで良いよって」
予想をたてていると、その予想を裏付けてくれるようなことを言われた。ほんの束の間、作業の手を止めて本間君を見る。以前よりはまだ痩せているけれど、それでも何か一つ心に整理をつけた表情に見えた。
「文化祭実行委員の仕事が出来たのが良かったよ。忙しかったし、沢山友達も出来た」
「そうでしょう?」
本間君にお礼を言われ、微笑む。本来の本間君であれば例えアルバイトであっても、授業であっても、勝手に友達は出来ただろうけれど、それでも大学での知り合いを増やしておいて悪いことはない。最近では私の手から離れて木口先輩などから仕事を言い付けられている様子もよく見る。香月先輩とも仲が良いみたいだ。
「私は、文化祭が終ってしまったら暇だから、今からちょっとだけ憂鬱だけれど」
まだ社会に出てもいないくせに言うのは変というか、生意気かもしれないけれどワーカホリック気味の私だ。小学生の頃から、授業を終えてから学校の為に何か仕事をし、それから自分の勉強をするという生活を行って来たから。
「資格試験とか、勉強をすればいいんじゃないの?」
「私、勉強をしていない時期ってないもの。逆に勉強漬けだった時期もないわ」
強いて言えば、本間君達三人に勉強を教えていた時期がそうだけれど、あれは勉強を教える時間と自分が勉強をする時間が別にあったから、感覚としては学校の仕事をしていたのとあまり変わらない。
「最近気が付いたのだけれど、私、あんまり集中力がある方ではないみたい」
私が言うと、本間君がまたまたと笑った。そう言われるだろうなとは思ったけれど冗談で言ったつもりもない。二時間区切りで勉強をする癖がついているから、二時間の勉強を毎日することは苦ではないけれど一日休んで次の日に四時間はとても辛い。午前中に二時間、間を挟んで、夕方と寝る前に一時間ずつ、後は電車移動などの隙間時間を利用する。といった工夫をすれば何とかなるだろうけれど、十時間毎日勉強漬けというのは私には出来ないと思う。
「本を読むことは好きだから、最近読みたくても読めずにいた本を纏めて買おうかしら」
言いながら、それもちょっと違うような気がした。本の一気読みは何度かしたことがある。速読にも挑戦したことがある。どちらも、純文学好きな私には合わなかった。純文学は結果、結末といった知識よりも過程を、とりわけ一文の妙味を楽しむものだから。ビジネス書や自己啓発本を読む際にはとても良いとおもう。
「頭を休めて出来ることがしたいわね。これからの時期は散歩も、ちょっと難しくなるわね」
「もうじき梅雨だもんね」
本間君が窓の外を見た。今日は良い天気だ。ふわっと丸い雲が二つ三つと空に浮かび、日に照らされて輝くような白さを見せている。
「後は何があるかしらね…………私が突然占いに凝り出したら、本間君はどう思う?」
これまでの人生で興味をもたずにいたもの、それを探してふと行き当たったので、思ったことを質問してみた。本間君は少し笑ったようだ。作業の手を止めず、視線も動かさずに返事を待つ。
「初瀬倉さんに凝らせることが出来る占いだったら相当凄いんだろうなと思うけど、想像が付かないな」
「何よ。私だって女の子なんだから、別に良いじゃない。占いに凝ってみたって」
「悪いとは言ってないけど、想像が出来ないんだよ。占いを否定してる映像は幾らでも浮かんでくるんだけど」
「例えばどんな感じ?」
「例えば血液型占いだったら、人間のタイプが四種類になることを否定しそう」
私の質問に、本間君が殆ど時間をかけずに答える。確かにしそうだと自分でも思う。
「星座占いだったら何だろう、そんなに大雑把な分け方をして共通項で括るな。みたいな感じかなあ? ちょっと違うかもな。もっと簡単な理由で否定しそうだなあ」
「あの星の並びのどこが『かに』なのよ。とか、私は言いそうだわ」
自分が良いそうな言葉を自分で予想するというのも変な話だけれど、私が言うと本間君が笑った。
「ちゃんと裏付けがあって、データとかが出来上がってる占いを持ってきそうだよね。初瀬倉さんは」
それから暫く『私が占いに言いそうな文句』を考え、ひとしきり盛り上がった後、本間君がそう結論付けた。
「そうね。でもそれだと『占い』ではなくて『性格診断』とか『職業適性検査』に近いものになる気がするわね」
占星術や人相学といった一種の学問がそれに近いと聞いたことがある。アジア人とヨーロッパ人では基準が変わって来るのでは? とその時に及んで尚小賢しいことを考えていた私ではあったけれど、確かに、そこに一定以上の説得力を感じはした。
「やっぱり私は、占いに嵌まる素質はなさそうね。根拠や説得力なんて考えずに楽しめなければ駄目なんだわ、きっと」
けれど、昔だったらもっと考える前に切り捨てていた気がするから、昔よりは良くなったのではないだろうか。
「花に聞いたらいいよ。あいつは何の占いでも信じて一喜一憂してるから」
それは私も見たことがある。別々の占いで一位と最下位を取った日には、『きっと今日の私は波乱万丈』と、何かに怯えていた。とても可愛かった。
「本間君はこれから先、色んな人と知り合って、きっとまた誰かと恋をして、いつか結婚したりもするんでしょうけれど」
「それは、お互い様だと思うけど」
本間君が苦笑しているのが分かった。そうねと答える。
「けれど、きっと誰の事を好きになっても、藤原時子さんという人の事はずっと大切に思い続けるのでしょうね」
いつか本間君と結ばれる誰かが私でなかったとしても、それは信じられる。私が好きになった日とはそういう人だから。
勿論。と言われ、私達はそれからもう三十分ほど二人で作業を続けた。




