第二十三話・悪いところ
「お願い陽子、お父さんに謝って頂戴」
「どうして?」
充電させたままのスマートフォンをスピーカーにして、私は部屋の掃除をしつつ母と話をしていた。
「陽子が一言謝れば、お父さんも陽子のことを許してあげられるのよ」
母の言葉を聞いて苦笑した。母の気持ちも父の気持ちも、とてもよく分かってしまったから。苦笑してあげられるだけの余裕が生まれたことが、私にとっては僅かながらの、それでもかけがえのない成長の結果だと思う。
「私が謝る理由がないじゃない。だって私は時間通り、約束通りに帰ったのよ。それなのに一方的に怒られて言い返すことも許されずに頬をぶたれて、被害者は私で、加害者があなた達でしょう?」
私はあえて意地悪に、お母さん達などとは言わずあなた達と言った。母は一瞬言葉を詰まらせる。こうやって、相手の心情を知った上で小さくいたぶるような真似をする小賢しさが、全く成長していない私の欠点。
「お父さんに謝らせることなんて、出来ないじゃない」
そうかもしれないけれど、と歯切れの悪い言葉の後、母はそんな事を言った。そうでしょうねと思う。お互いに五分五分の理がある話をした場合、ともかく自分の理だけを押し通すことを人生としてきたような人だ。例え一分九分の不利であったとしても、最後まで自分が正しいと言い続けなければならない。そんな人が隣にいて味方ならば頼もしいのかもしれないけれど、そんな父親は嫌だ。ましてそんな人を夫にして一生を過ごすだなんて、息苦しくてしょうがない。
「あなた達は私が子供の頃に『悪いことをしたらごめんなさいと言いなさい』という教育をしなかったの?」
因みに私はそんな事を言われた記憶はない。悪いことなんてしない子供だったから。
「今回の話誰かに話してみた? 誰が聞いたってその対応はおかしいと言うに決まっているわ。あなたの夫の周りにいる人達はいつも御機嫌伺をしているような人しかいないから『気持ちは分かります』とか『相手は子供だから』なんて言ってくれるでしょうけれどね。そうじゃない、電車の隣に座ったような人とか、趣味で偶々知り合った人とか、利害関係がない人に聞いてみて。心ある人であれば、おかしいって言うわよ。あなた達の事を、絶対に」
いつの間にか掃除の手が止まっていた。掃除機をかけてしまうと音で会話が出来なくなってしまうので先に洗濯物を畳むことにする。
「今御免なさいって言ってくれれば、陽子への仕送りもこれまで通り続くのよ。一度謝るだけで得すると思って」
「冗談じゃないわよ!」
冷静に話を聞こうと思っていたのに一瞬で頭に血が上ってしまった。手に握っていた下着がクシャリと歪み、慌てて手を離した。
「謝ったら金をやる。謝らなかったらやらない。そんなの脅しでしょう!? 私は自分を脅してくるような人間を親だなんて思わないし、そんな人間に頼るくらいなら一生一人で生きていくわ!」
もしも受話器を手にしていたならその場でガチャンと切ってやりたかったけれど、手に持っているのはこれからしまう衣類であるからしてそれも出来ず、私は暫く人様には聞かれたくない罵倒の言葉を述べた。
「私はあなた達からの仕送りなんか一円だって使いません! 脅しの材料に使われるお金に手を付けるくらいだったら身体を売ってでも生活費を稼ぎます!」
立ち上がってスマートフォンを手に取った。母はそんなことしちゃ駄目よ。などと、慌てた様子で私に話しかけていた。
「そんなことするわけないじゃない! バカ!」
言いながら私は通話を切った。そのまま電源も切り、スマートフォンを投げつけようとしてそれを何とか堪え、ベッドに身体を投げ出した。
「……我が家の悪い所が全部出ている会話だったわね」
自分は矢面に立つことはなく、それでいて自分が主導権を握ることは譲ろうとしない父。それに唯々諾々と従う母。それらの状況を分かっていながら意地の悪い言い方をしてしまう私。そうやって、父と私の板挟みにされて慌てた母はあのような不用意な発言をする。お金を稼ぐという経験が極端に少ない母は自分が怖いと思っていることを、娘である私も同様であると思っているのだろう。冗談じゃない。『貴女なんかと一緒にしないで』と、自分の母親に対して本気で思ってしまうのも、私の悪い所だ。性格が、悪い所だ。
多分、あの会話は、母の口から父へと伝えられるのだろう。母は母なりに事実を伝えようとするのだろうけれど、私の事を悪く言わず、父の事も責めず、誰も傷つかないような、結局何も言っていないのと変わらないような言い方しか、母は出来ない。そんな言い方では話は進まないだろうし、父も私が言いたいことが何であったのか理解することは出来ないだろう。つまり、話はこれ以上、更にこじれてゆくということだ。
「お母さんは、あのお父さんのどこを好きになったのかしら」
出来れば今日聞いておきたかったことを、結局聞けなかった。前回は言いたかったことが言えなかった。状況はどんどんと悪くなっている。花ちゃんはまだ終わりじゃないと言ってくれたけれど、本当にまだ終わりじゃないのだろうか。私は、まだやり直せるのだろうか。あの両親と。
暫くゴロゴロと部屋の中で約体もないことを考え、夜になって妙に静かだなと思っていたら、まだスマートフォンの電源を切りっぱなしであったことに気が付いた。
電源を点けると、各種SNSの最新情報がバッと押し寄せてきて、あまり深く知っていない人間の、全く興味がない情報などを仕入れる羽目になった。こんな物しかないのであれば思い切ってスマートフォンを解約し、連絡は専らパソコンのメールとスカイプで行う事にしようかと考えた。スマートフォンに残っている大切な情報は本間君や花ちゃん、高ノ宮君達と撮った写真やメールのやり取り。細かいやり方は知らないけれど、全てパソコンに移動可能な気がした。
「あら?」
そんなことを考えながら液晶画面を見ていると、花ちゃんから電話がかかって来た。今日はイライラして、そしてゴロゴロして一日を過ごしたので、もう夕食前、六時を少し回った頃だ。
「もしもし?」
「あ、陽子ちゃん良かった、電話繋がった」
私が通話に出ると、花ちゃんは露骨にホッとした声を出し、大丈夫? と聞いてきた。どうしてと聞くと、お父さん達と喧嘩したの? と言われた。
「何で分かったの?」
本当の事を当てられた時、特に理由も無く嘘を吐く癖がある私が、この時ばかりは得意の嘘も吐くことが出来ず本当にどうしてかを聞いてしまった。花ちゃんは最初に、何となくと言って、それじゃあ駄目と私に言われて、それからうーんと悩みながら話し始めた。
「えっとねえ、さっき電話したの。その時通話にならなかったから、出れないのかな? でも留守番にもならないな。電源切っちゃったのかな? 嫌なことあったのかな? 喧嘩したのかな? って」
「……本当にそんな風に思ったの?」
何だか一生懸命理由を考えている風だったので疑ってきいてみると、全然思っていないという答えが返された。
「頑張って考えたの。私にしては、ちゃんと考えられたでしょう?」
「そうね」
でもその答えは、却って花ちゃんの分からなさを助長しているだけのような気がする。理由も無く答えを言い当ててしまうだなんて、ある意味誰よりも探偵向きではない。
「それで、私の事はどうだっていいけど、大丈夫? 花ちゃん辛くない?」
電話越しにへへへと笑っていた花ちゃんが、そうではないと思い出して心配そうな声で聴いてきた。大丈夫よと答える。
「この間の二の舞になってしまったけれど、でも、この間程は落ち込んでいないわ」
この間の十倍は怒りが湧いてしまった事は伏せた。親との喧嘩で泥のように落ち込むのと、烈火の如く怒るのとでは、どちらの方がより健康的と言えるのだろうか。
「駄目だよー、そんな風に言ってちゃ。お父さんお母さんと喧嘩したんだから、大丈夫じゃないよ。ご飯食べよう?」
最近、今までにもまして花ちゃんが私にとって母親のようになってきた。昔は、年の違う異性を『兄妹みたいなものだから』なんて言って気取っている人達を見て『本当は好き合っている癖に一歩踏み出す勇気がない人たちね』だなんて、嫌なことを考えていた私だけれど、こうして、疑似的に家族のような関係を作ることが最近は楽しい。いや、楽しい、という言葉は違うかもしれない。とても安らぐのだ。少し前までは、私達の中心には本間君がいて、どちらかと言えばしっかり者の私が長女のようだったけれど、最近では皆で本間君の手を取って、花ちゃんが私の事を抱きしめてくれて、頼りになる高ノ宮君が戦闘を歩く。そんな感じだ。
「もう陽子ちゃんの家の近くに来てるの。さっきはねえ、一緒にご飯食べない? っていうお誘いだったんだけど、多分陽子ちゃんが落ち込んでるだろうなって思ったから、材料買って来たの。ロコモコ丼とホワイトシチュー」
「それ、万が一私がただスマートフォンを落としていたり、うっかり電池を切らしてしまっただけだったらどうしたの?」
「陽子ちゃんの家ピンポンして、いなかったらター君呼んで警察かなあ?」
「私がいないことは、異常事態である事で決定なのね」
お出かけとか、ちょっとした買い物とかという可能性は全くないのかしら。
「ピンポーン」
そうして、会話をしている間に我が家の玄関まで到着した花ちゃんが、口で言いつつロビーで私の部屋番号を打ち込んだ。直ちに開錠し、部屋の鍵も開けた。それから間もなく、丸々と着ぶくれした花ちゃんが現れ、私達は並んで料理をする。
「大変だったねえ」
今日あったばかりの話をした時、花ちゃんの感想は端的な一言だった。私はそうよ、大変だったのよと言い、それから暫く親の悪口を言って一人で盛り上がった。花ちゃんは駄目だよそんなこと言っちゃ。等とは言わず、うんうんうんと頷きながらずっと私の話を聞いてくれていた。
「又、仲良くなれると良いねえ」
料理を作り、並べ、一緒にご飯を食べ、その間ずっと私の悪口は止まらず、花ちゃんが買って来た雪見だいふく一パックを二人で食べきったところで、漸く私のお腹の中から悪口がいなくなってくれた。その丁度空になった瞬間を見計らっての一言に、私の気持ちは一気に消沈してしまう。
「そうね……」
本当に、私はただただ仲良くしたいだけであるのに、どうしてこんなに不器用なのかと嫌になってしまう。
「でももし、来月になって生活費の仕送りが無くなっていたら、それはきっと父親からの絶縁状よね」
流石にそんなはずはないと思いながら、私は自分の口から出てきた言葉に身震いがした。お金がないことを恐れているわけではない。本当の意味で、親から見捨てられてしまうということがとても怖かった。
「そんなはずないじゃない」
花ちゃんは、私が言って欲しい言葉を即座に言ってくれて、そうよね? と問う私に当たり前じゃないと答えてくれた。
その日、結局花ちゃんは泊っていった。一緒にお皿洗いをして、狭いお風呂に無理やり二人で入って、それから同じ布団で眠るまで、『大学が始まったら忙しくなるね』とか『ユーダイが元気になると良いね』とか『学園祭楽しみだね』とか、未来に希望が持てるような話をしてくれた。
その月も、又その翌月も、私の銀行口座には変わらず入金があり、私は心密かに安心しつつ、季節は春を迎えた。




