第二十一話・辞めちまえよと
『私が積極的に好きな自分は、本間君のことを好きになれた自分だけだから』
そんなことを、花ちゃんに対して言った。頭の中で考えて出てきた言葉ではなくて、いつの間にか当たり前に自分の中にあった言葉だった。
『ほかの人の事を好きになったって良いんだよ』
花ちゃんから言われた。私の為に、私の事を気遣って言ってくれた優しい一言。
「他の誰かを好きになった私の事を、私は好きでいられるのかしら……?」
呟いた。部屋の中、ただ一人、出かける準備を済ませて、普段通り間違いのない格好で、今から出ればいつも通り予定の十五分前に到着することが出来る。考えるまでも無く行う事が出来るルーチンを、今日はどうやって行ったのかよく覚えていない。ずっと、考え事をしてきたから。
「私は……結局自分の為に、自分の為だけに本間君の事を好きなのかしら?」
本間君の事を見ている間は、小賢しい私ではなかった。自分の中にいる、驚くくらいに純真で初心な自分でいられた。そんな本間君に対しては小賢しい自分の本心をぶつけることが出来た。彼はどこまでも素直で、私の小賢しさや性格の悪さを見識の深さや知識量の多さとして、良いように捉えてくれたから。私が持つ表も裏も、外側も内側も、全て纏めて肯定してくれる本間君は、あらゆる意味で私の救いだった。そんな本間君を助けてあげるということに、私はどこか優越感を覚えていた。
「初めて見たものを親鳥と思ってしまう鳥のヒナみたいね」
そうして私は姿見の前で呟く。客観的に見ると、私は自分の事を受け入れてくれるだけの度量がある人であれば誰であれ好きになるような尻の軽い女だ。その、私の尻の軽さを見切った花ちゃんの表現が『惚れっぽい』という言葉なのだろう。
「……怖いわね」
本間君から振られるという想像は何度もした。実際に私は一度振られたようなものであるし、今も想いが成就したわけではない。けれど、彼から拒絶することよりも、私が彼から離れてしまうことの方が怖く感じた。そうなった自分の事を、私は又、嫌いになってしまうような気がして。
「自分の事を嫌いになるということは、とっても辛いことなのよ。本間君には、きっと分からないと思うけれど」
そして、花ちゃんや高ノ宮君にも分からないだろう。自分の無力に打ちひしがれるようなことはあったかもしれないけれど、自分の本質を嫌になるというタイプにはとても見えない。
「……行かなきゃ」
考えるまいとしても考えてしまうことは止められなかったけれど、それでも私は家を出た。塾講師のアルバイト。嫌なアルバイトではない。最近は仕事にも慣れ、何となくコツも掴めて来た。喫茶店のアルバイトも同様に、考えるよりも先に体を動かすということが出来るようになってきたように思える。
成長しているかどうかで言えば、私は確実に成長していると思う。数字にあらわすことが出来るような能力値においてもきっとまだまだ伸びしろがあるだろうし、以前の自分が如何に未熟で独りよがりであったのかという点についても見えて来たもの、これから見えてくるだろうものは沢山ある。だけれど、成長や前進とは違う『自己肯定感』という点において私は情けないくらいに本間君に依存している。
「昔は、もっと割り切れていた気がするわ」
単純に周囲を馬鹿にしていた頃、単純に世界を嫌っていた頃、思えばあの時はちっとも楽しくはなかったけれど楽ではあった。今は沢山楽しいことはある。けれど楽ではない。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか私は仕事場に到着し、いつの間にか女の子達に勉強を教えていた。
「勉強ってマジで無意味じゃないですか?」
その日は珍しく温かい空気が流れ、子供ならずしても勉強や仕事などせず、公園のベンチでお日様の光を浴びていたいと思うような日だった。だからなのかどうかは分からないけれど、普段ならば木口先輩に対して素直な皆も集中力が途切れがちで、健介君と呼ばれている一人の男の子がそんなことを言い出した。
「関数とか因数分解が社会でどんな役に立つんだよって思いません?」
それは、学生であれば誰もが一度は考えたことがあるだろうことで、言っていることは私にも勿論分かった。私も数学をセンスで解いてしまうような天才型ではなかったし、数学をパズルの一種として楽しめるような性格でもなかったので苦痛を感じたことは多々ある。
「野球とかスポーツはプロになれば何億円ももらえたりするけど、数学ってそうじゃないじゃん」
その呟きに対しては私は違うということが出来た。数学の難問には懸賞がかけられているものが数多くあって、それを解くことが出来れば賞金金がもらえる。それこそ何億円と稼いでいる人もいるそうだ。昔読んだ小説の受け売りなので、細かい額は分からないけれど、少なくとも数学が得意だという理由でお金を稼げる人はいる。
けれど、私は健介君の質問に対して答えることなく、静かにしてねと小さくお願いした。今彼は、そんな知識間違いを指摘されたいわけではないし、指摘したところで勉強時間が削られるだけだから。
健介君が本当に知りたいであろう『関数や因数分解が社会でどんな役に立つのか』という質問に対して私は『役に立つことはない』という言葉しか返せないし、そう返したら余計に健介君が勉強をしなくなってしまう。現代文や英語と異なり、数学は学年を重ねてゆけばゆく程『殆どの人間が卒業と共に使わなくなるもの』になってゆく。ただその中で極一部の数学エリートの人達のみが、高校数学の数段数十段高次元の数学を学び、そしてそこで学んだことを社会に還元してゆく。大半の人間にとっては受験を突破するためのツールでしかない。大学受験以降の人生では使用しない物事を年単位かけて学ぶことが馬鹿らしい。という考えについては私だってそう思っている。けれど、だからといって勉強させることでお金を頂戴している私は彼に対して『そうだね数学なんて意味がないよね』とは言えないのだ。
「良い大学に行った方が、将来の選択肢が広がるよ」
結局、そういう言葉で誤魔化す以外の解決法が私にはない。尚もブツブツと集中できずに不満を述べている健介君に対して言うと、彼はそれはそうだけど、と呟き少しだけ静かになった。そんなことは、誰だって分かっている。健介君だってそんなことすらわからないような馬鹿ではない。ただ今日は偶々集中力が無くて、偶々嫌いな数学で、いつも思っていた不満を身近な大人にぶつけてみただけだ。
「健介、お前まだ野球やってるのか?」
四月になれば中学三年生になる健介君に、木口先輩が質問した。小柄だけれどよく日焼けした坊主頭の彼は、地域の野球チームに所属していて、いつも野球用のバッグでやって来る。時々、ユニフォーム姿のまま勉強をしている姿も見られた。
木口先輩が話し相手になってくれたことが嬉しかったのか、健介君はそれまで辛うじて動かしていたシャーペンを持つ手を止め、まあ、と呟いた。
「レギュラー取れそうか?」
質問をしながら、木口先輩が勉強の時にだけかけている眼鏡を指でついっと持ち上げながら質問した。ただそれだけでスマートに見える姿を横眼で眺めつつ、私は口出しせずに黙っていた。健介君からの答えは、うちは強いから難しい。だった。
「プロにはなれそうか?」
続いての質問には、健介君は答えることなく笑った。そんなに甘いものじゃなですいよ。という健介君の言葉に合わせて、他の生徒達も笑っていた。健介君の野球の知識は素人の私から見ても確かで、今年はプロ野球で誰がどういう活躍をしたとか、甲子園ではこういうことが起こったとか、昔、彼も私も産まれていない時代にあった野球の名場面などについても、まるで見て来たかのように詳しい。そんな健介君が言うのだから、プロになるのは本当に大変なのだろう。高ノ宮君も、もし怪我が無くずっと野球をやれていたとして、それでもプロになれたかどうかは分からないと言っていた。
「じゃあ野球辞めちまえよ」
その一言は、まるで何ら大した話をしてはいないかのように、当然そうだろうと言わんばかりに、当たり前の口調で木口先輩の口から発せられた。
「え?」
「プロになれないのに、野球やる意味ないだろ」
その時私は、木口先輩が今何を言っているのかよく理解出来なかった。言葉そのものの意味がではなく、何故この話の流れでそんな言葉が出て来るのかが理解出来なかったから。それは私以外の誰もにとってそうであったらしく、思わず私が手を止めて木口先輩の表情を見てしまった時、その場の全員が木口先輩を注目していた。
「将来何の役に立つんだよ? 月謝とられて帰ってくるものが無くて、馬鹿みてえだろ」
それは、惨酷な程に本当の話だと、私は思う。それまで笑顔だった健介君の表情が消えてゆき、周囲の生徒達の表情がひきつる。
「う、運動は健康に良いから」
あまりに可哀想だったせいか、女子生徒が一人、健介君を助けるような事を言った。その瞬間に、固まった場の空気が確かに緩んだ。けれど
「野球って怪我率滅茶苦茶高いぞ。水泳とかマラソンとかの方がよっぽど健康的だろ」
殆どノータイムで木口先輩が言った。言い放ったとか、言い捨てたという表現が正しく聞こえる、キッパリとした反撃を許さない声だった。
「け、怪我しても、スポーツトレーナーとかになれるかもしれないし」
「じゃあ最初からそっちの勉強しろよ。わざわざ下手な野球にしがみついて怪我する意味って何だよ? 金にならないんならやる意味がないんだろ? とっととやめちまえ」
別の生徒が言ったフォローの言葉も、木口先輩は言下に切り捨て、そうして健介君の事をジッと見据えた。私は、見据える木口先輩とその視線を怯えた様子で受け止める健介君の様子を傍から眺める。
「なーんつって言われたら、お前野球辞めるか?」
そうして十秒ほど沈黙の時間が続いた後、不意に木口先輩が悪戯っぽく笑い健介君に聞いた。健介君は『え?』と言いながら首を傾げ、何が起こっているのか分からない様子で周囲を見回した。
「ごめんごめん、嘘だよ。プロになれないなら部活なんか辞めちまえ、だなんて思ってない。ちょっと意地悪しただけだ」
そんな風に言った木口先輩は軽く伸びをしてから立ち上がり、生徒一人一人のノートと教科書を見た。それぞれの進度を確認し、頷き、全員に問いかけるように『こんないい天気の日に勉強なんて馬鹿らしいよな』と一言、その言葉を聞いて、漸くその場の全員が表情を緩め、笑った。
「で、健介はそんな風に言われて野球辞めるか? プロになんかそりゃあなれないだろうけど、社会人野球とか、高校大学の野球推薦とか、野球をやってるってことで金銭的に、将来的に直接得することはないとして。だから野球辞めようって思うか?」
椅子ではなく、机の上に軽くおしりを乗せるような形で座った木口先輩は、改めて健介君に質問した。健介君は少し考えた後、神妙な表情で辞めたくないと一言。
「だよなあ!? 普通そうだと思うよ。でも、何で辞めないんだと思う? 辞めたら時間も出来るし、辛い思いもしないで済むのに」
「そりゃあ……」
と言ってから、健介君は言葉を見つけられず口籠った。木口先輩はいつもの兄貴分的な笑顔を浮かべ、考えろよ。と言い、部屋を出て行った。出て行ってからすぐ、部屋の前に設置されている自動販売機からガコン、という音が鳴り、木口先輩が『お前ら何飲みたい?』と質問した。私と、健介君を除く全員が歓声をあげ、木口先輩の元へと走ってゆく。
「オレンジジュース好きだったろ?」
五分程、木口先輩が皆の分の飲み物を買う時間があり、それから戻って来た木口先輩は健介君にペットボトルのオレンジジュースを手渡した。私は暖かい缶のミルクティーを頂いた。ありがとうございますとお礼を言って蓋を開ける。
「礼儀作法……とか、上下関係、とかを学ぶのに、野球やってた方が良いんじゃないかな?」
控えめにオレンジジュースを一口飲んだ健介君が、五分前の質問に答える。温かいミルクティーを口に含みながら、私は小さく頷く。確かに、集団競技ならば集団内でのコミュニケーション能力が磨かれる。野球が全く関係のない生活を送るようになっても、それはきっと役立つだろう。
「野球である必要は?」
一生懸命考えたんだろうなと思える答えはしかし、再び木口先輩に否定された。
「コミュ力付ける、ってならサッカーでもバスケでも何でもいいだろ。バイトでも良い。生まれて初めてのバイトって経験値高いぜ。しかも金も貰える。自己責任で働くから責任感も身に付くし、バイト代で親にプレゼントでもしてやったら滅茶苦茶喜ばれる。野球よりも学べることいっぱいあるぞ」
「そうですね」
思わず、そう呟いてしまった。ここ最近の私が強く実感してきたことだったから。口に出してからしまったと思い、『健介君が言ってることも良くわかるよ』と如才のない言葉を繋げる。それからほんの少しの間、高校生組の女子生徒達がアルバイトが楽しいとか楽しくないとかの話をし、私も一言、勉強になることは沢山あるわと当たり障りのない私見を述べた。
「それでも、健介が野球にこだわる理由ってなんだ?」
盛り上がり始めた話題が盛り上がり過ぎないうちに、木口先輩が再び健介君に水を向ける。眉に皺を寄せ考える健介君は、言い訳するかのような声音で一言、『俺、野球好きだから』と呟いた。
「それで良い」
自信なさげな一言に、けれど木口先輩は笑顔で答え、頷いた。
「好きでやってることなんだったら、お前が誰かに迷惑かけているのでない限り好きなだけ満足するまでやった方が良い。やりたくもないことをやらされてる時間よりよっぽど有意義だ。つまらん勉強なんか辞めて、毎日バッティングセンターに通わせてくれって親に頼め」
木口先輩が言った極端から極端への考えは、それからすぐ健介君に否定された。そんなに、好きなことばっかりやって生きてはいけないですよと。子供っぽい事を言う大人な木口先輩と、大人じみた事を言う子供の健介君の対比が面白かったのか、周囲の皆がどっと笑う。
「何だよ。野球以外にもプロの人は全員好きなことだけやって生きてるだろ。芸能人とか歌手とか、自分がやりたいことやる職業を目指せよ」
「そんなこと出来る天才な人ちょっとしかいないし。それにプロの人達だって好きなことだけやってるわけじゃなくていっぱい苦労してますよ」
木口先輩が更に子供のような言葉を繰り返すと、健介君がもう一度大人びた事を言った。その言葉にそうかと頷いた木口先輩が、先程まで座っていた席に座って一言
「じゃあ、勉強しないとな」
その締めを見て、私は拍手したくなった。勉強の手が止まってから木口先輩の締めまでにかかった時間は大体五分。丁度休憩時間と同じ程度だ。その間に、木口先輩は生徒の子達とコミュニケーションを行い、言いたい事を言わせ、そして勉強するという方向に話を戻した。丸め込まれた感は拭えないけれど、丸め込まれた健介君は丸め込まれたことに気が付いてもいない。
「ちゃんと物事を見ないといけないわね。遠くからも、近くからも」
分かったような分からないようなことを私は言った。何をもって正面で、何をもって横からなのかは自分でも判然としないけれど、物事を様々な角度から見て考えなさい。とは私が本間君に言った言葉だ。私は遠くから客観的に人を見ることは出来ていると思う。もっと近づいて主観的に、悪い言い方をすれば偏った好みで判断してみることも、たまには必要なのかもしれない。
木口先輩に限らず、もう一歩でも半歩でも、人に近付いてみようと、その時私は思った。『それが後にあんな悲劇になるだなんて』とか、そんなドラマチックなことは起こらなかったけれど、それはやっぱりエネルギーが必要な、とても疲れる行為ではあった。




