第二十話・怯え
「私の塾講師生活はそんな感じよ」
グラスいっぱいに入れたチャイをストローで啜りながら、私は花ちゃんにそう話した。ホイップを盛ってチョコチップをまぶし、きっととんこつラーメンくらいのカロリーになっているだろうと推測されるバニララテを美味しそうに飲んでいる花ちゃんはふんふんふんと、首を縦に振った。気持ち胸を強調させているカフェの制服が縦に揺れるたび、花ちゃんの胸元もふるんふるんと揺れる。眼福だわ。と思いつつその胸元を指でちょんちょんと突いた。
「陽子ちゃんは木口先輩のこと好きなの?」
「全然好きじゃないわ」
私が、真面目な話をしながらも花ちゃんにちょっかいを出すことは日常茶飯事なので、手をペシンとしながらの質問。私は即答した。
「でも、そうね。今の好きなの? は男の子として好きかという質問だったから全然好きじゃないわと答えたけれど、私にとってはとても都合が良くてありがたい存在なので、感謝はしているわ」
この賢しらな言い回し、まるで高校の頃に戻ったようであまり好きではない。けれど、本当にそう思っている。
「男女としては相性が悪いと思うし、むしろ付き合いたくない部類だと思うわ。木口先輩も同じように思っている筈」
「何でそんなことが分かっちゃうの?」
「同類だからよ」
そう言ってから私は花ちゃんに木口先輩とのエピソードを一つ披露した。あれは、木口先輩の勉強方針について質問をした時のことだ。木口先輩は現実的で、自分の労力を最小に、効果を最大にする為にはどうしたら良いのかを常に考えている。そんな中でこんな発言があった。
『学力を上げるのは大変だから、試験日までにその範囲を覚えさせる。試験日の翌日に全部忘れてたって構わないからね』
それは学問の本来の意味から大いに逸脱した言葉だったけれど、私は同感だった。ともかく、試験で一点でも高い点数を取らせてあげられる先生が良い先生だ。学校の先生ならばともかくとして、私たちは塾教師をやっているのだから人生について道を説いたりなどする必要は全く無い。
「花ちゃん今の話を聞いてどう思った?」
「頭良い人ってたまに怖いなあって思う」
「どうして?」
たまに怖い。という感覚は、正直私にはよくわからなかった。その辺りは、勉強不得手代表の花ちゃんから聞くに限る。
「だって、自分がしていること全部理由があるんでしょ? 何だか怖くない?」
「私はむしろそうでないと落ち着かないわ。多分木口先輩もそう」
勉強をする理由、良い成績を取る。良い成績を取る理由、親からの干渉を避ける。というように、ゴールが見えているからこそ、ゴールまで走るということが出来る。
「でもその考えって何だか、そうじゃない私はバカでダメな人だって言われているみたいで怖い。君はどうしてこのカフェでバイトしているの? って聞かれたら、私ちゃんと答えられないもの」
「……ごめんなさい」
「どうして陽子ちゃんが謝るの?」
不思議そうに、花ちゃんに聞かれた。私はかつてたしかにそういう風に思っていた。プロになるという目的もなくスポーツに打ち込んでいる人間を見て、どうせどこかで挫折するのだからもう少し意味のあることをすればいいのに。と思っていたことすらある。今は反省しています。
「花ちゃんは、楽しいからやっているっていう立派な理由があるし、理由なんかなくっても飛び込んでみたら分かることだっていっぱいあるわよね。本間君みたいに、考えてではなくて感じたことをすぐに行動に移して、自分がどうしてそうしたのかについて後から真摯に向き合う人だっているもの。それはそういう人のタイプ。という事で別に良いと思うの」
慰めるように、時分はもう回りをバカになんてしていないとアピールするように、やや早口でまくし立てた。うんうん。と花ちゃんが納得してくれたところで、でも、私みたいなタイプは目的であったり、この行動をするにあたって得られるであろう結果をなるべく具体的にしておきたいという意識が強い。という話をした。
「だから、同じ目標に向かって協力する。っていうことについては相性が良いのよ。賢い人だから行動とその理由について一々納得が出来るし、仕事についてどう考えているのかについては大体わかるしね。普段何を考えているのかなんて分からないし興味もないけれど、一緒に仕事をするにあたっては必要になることもあるわ。理解をし合える人って、一緒にいて不安にならないじゃない?」
「木口先輩とは理解がし合えるんだね?」
「仕事についてはね」
プライベートについては、常に色々企んでいそうな人なので結構な距離を開けて接している。
「じゃあそこまで理解しているのに、どうして全然好きじゃないの?」
「だって全然可愛くないじゃない。本間君は可愛いもの」
後半に、付ける必要のない告白をくっつけてしまった。ホイップをひょいぱくと食べる花ちゃんの顔がにやりと歪む。何か言われる前に、先に言ってやることにした。
「花ちゃんだって、ター君を可愛いと思うでしょう?」
「思う」
ホイップの甘みのせいではなく、何か夢を見るような表情となる花ちゃん。そう、可愛くないのだ。木口先輩と付き合うことになどなったら、一々全ての行動について相手はどう考えているのか、今この行動はどういう狙いがあるのか、男女交際という甘い時間がいつの間にか相手の心理を読み解くための勝負の場となってしまう。いつでも考えなしに、しかし覚悟を持って一生懸命な本間君が相手なら、私が話し相手になってあげることで本間君をより良い方向に導いてあげることが出来る。たまには私が積極的に振り回されてあげてもいいし、そうして失敗して反省する本間君を慰めてあげられる。実に可愛い。
「結局は相性ということよね。木口先輩もその辺りはよく分かっているようだから私に色目を使ったりはしないわ。多分彼、好きな女の子いるし」
多分あの子だろうなという女の子にも目星が付いている。相談されたなら、その恋路を手伝わないでもない。
「好みはあるよね。私、世界中の女の子がター君を好きにならない理由がわからないし、チャイ苦手だし」
超弩級の惚気と、私が飲んでいるチャイについてのダメ出しが同時に来た。しかし言っていることは分かる。高ノ宮君は花ちゃんからしてみれば世界一位の男の子だけれど、私にとっては好印象な男子のうちの一人に過ぎない。そこは好みの差だし、私の言葉で言えば相性が良かったということ。私はチャイがもつ紅茶にはない独特の香りが大好きだけれど、同じ味や風味をを同じように感じていながら、花ちゃんはチャイが苦手だ。私の舌とチャイは相性が良く、花ちゃんとは悪かった。有り体に言えば、好みが違う。
「でも、うん。男の人とのアルバイトだっていうから心配してたけど、楽しそうでよかった」
「心配してくれていたの?」
問うと、勿論と言われた。花ちゃんは私が何をしていても心配してくれる。それが時々煩わしいと思うこともあるけれど、殆どの場合は嬉しい。どんな時も、自分の事を心配して、応援してくれている友人の存在が、私の心にどれだけの平穏を与えてくれているのか、伝えようとしても伝えきれない位だ。
「陽子ちゃん、惚れっぽい人だからね、悪い人に捕まったりしないかって思うよ」
嬉しそうにそう言った花ちゃんは、でも良かった、良い人そうで。と、再びストローを咥える私はその花ちゃんに対してちょっと待ってと手を伸ばした。
「私が何て?」
「惚れっぽい人だから、悪い人に捕まらないかって」
「私、惚れっぽいかしら?」
今までの人生の中で、自分と惚れっぽいという言葉が結びついたことは一度としてなかった。そんなはずはないでしょう、という強い意志を込めての質問であったけれど、花ちゃんは当たり前のことを言うように、惚れっぽいよともう一度言った。
「ユーダイのことも、すぐ好きになっちゃったでしょう?」
「あれは、私にとってはとっても珍しいことだったわ」
「こっそりチューしちゃうくらいだもんね」
ちょっと慌てて言うと、ニヤッと笑った花ちゃんに言われた。頬が熱くなる。
「昔の、ちょっと拗ねてたころの陽子ちゃんにとっては珍しいことだったかもしれないけど、今の陽子ちゃんはきっとどんな人の事も好きになれるよ」
「そ……んなことは」
無いんじゃないかしら、と言うと、そんなことあるよとの答え。こうやって、やたらと断定的にものを言う時、花ちゃんの言葉はほぼ間違いなく真実を言い当てている。根拠はあったりなかったり、まちまちだ。
「さっきだって、木口先輩の良いところ見つけてたでしょう? それで、男女としては合わないと思うから、一歩引いて見てる、っていうことでしょう? じゃあ、もう一歩だけ踏み込んで、ちゃんと男の子としての木口先輩の事を見てあげたら、きっともっと良いところ見つけられるよ踏み込めてないから、確認してないから、勝手に想像して怖くなってるだけだよ。ペンギンみたいに」
ペンギンみたいに。という言葉が、その時私の胸の奥にズンと落ちて来た。本間君と二人で水族館に言って以来、私はペンギンが好きになった。小さいものだけでなく、大きな皇帝ペンギンも含めて。
「ちゃんと、人の事を見れば、陽子ちゃんは器がおっきいから色んな人のこと好きになると思うよ」
そう言って、花ちゃんは自分の言葉を纏めた。それを一言で『惚れっぽい』と表現するのは果たして正しいことなのかどうか分からないけれど、言っていることは分かった。
「だからね、陽子ちゃん」
花ちゃんの言葉を受けて、感慨に耽っていると、その間に飲み物を空にした花ちゃんがこちらを見ていた。先程までよりもほんの少しだけ、表情を真剣なものにしている。
「ユーダイだけの事を見ていないで、他の人の事を好きになったって良いんだよ。誰も、それを浮気だなんて思わないし、陽子ちゃんはもっともっと、自分の事だけ考えたって良いんだよ」
呆れてものが言えなくなった経験ならば何度となくあった。相手にプレッシャーを与える為にだんまりを決め込んだことも数多い。けれどこの時、私は珍しく、何を言えば良いのか分からず、文字通り黙らされてしまった。
「ユーダイにはね、私もいるしター君もいるよ。友達だって多いし、家族仲も良いんだよ。別に、陽子ちゃんが縛られる必要はないんだよ」
黙っていると花ちゃんが更に言葉を重ねた。それでも私は、何と言えばいいのか分からず黙り続けていた。
「私は……でも、私は……」
暫く黙っていた私が口にした言葉はまるで意味を伴ったものではなくて、うわ言のように私は私はと繰り返してしまった。その様子を見た花ちゃんはそっと私の手を取って、怖い? と聞いてきた。怖い? 私が? どうして?
「ごめんね、いきなりいっぱい言いすぎちゃったね。ゆっくりで良いよ。ゆっくりで良いから考えてみて。分からなかったら私とお喋りしよう。ね?」
母親が娘にするような柔らかな言葉で諭されて、私は漸く小さな声で運ということが出来た。それからすぐ、私達は文化祭実行委員会の仕事に向かい、私は早くも実行委員会の主力として動くようになる。まるで決められたルーチンを事務的に、機械的に進めているかのような私の動きは周囲から賞賛され、木口先輩は気味を誘って良かったと言われた。けれど私にとってそんなことはどうでも良かった。
惚れっぽいと言われた、縛られる必要はないと言われた、もっと自由に、気ままに、勝手に、そういう意味で言われているのはよく分かる。もっと私らしく。陳腐化された言葉であらわすのならば、そんな事を花ちゃんは私に伝えてくれたのだろう。
『怖い?』
そう聞かれた。客観的に見て、あの会話の中で私が怯えなければならないようなことなど何一つなかった筈だ。けれど、花ちゃんは確かにそう私に質問した。そして、私はあの時確かに怯えていた。怖かった。
「どうして、私は怯えているの?」
その日、帰宅した私はベッドに横になり、目を瞑る前にそう呟いた。




