第十八話・失恋の味がした
「水族館に行ってみたいわ」
本間君と藤原さんが付き合い始めた後の年明け、私は本間君にそう言った。『本間君と』とは、言わずもがなの事なので言わなかったけれど呆気にとられたような表情を作った本間君は、水族館? と私の言葉をそのまま繰り返した。
「子供の頃に一度だけ行ったっきりで、気になっている事があるのよ。一人で行くのには少し勇気が要るし、かといって一緒に行ける程仲が良い人も出来なかったから後回しにし続けて来たのだけれど、本間君となら丁度いいわ」
子供の頃、両親と三人で行った記憶がある。まだ幼稚園児の頃の話。
「デートの約束をしている人がいるのに、他の女と出掛けるのは不誠実だと思う?」
どうしようか、と小首を傾げた本間君。その心情を汲み取って言うと、何とも言い難い複雑そうな表情を作った。どうやら正解だったようだ。
「そうね、私が藤原さんでも、自分にさんざんモーションをかけて来た男が別の女と水族館に出掛けていたと知ったら、少なくとも良い気持ちはしないでしょうね。向こうの女に頼まれたんだ、と言い訳して理解してくれるかどうかも分からないわね、私だったらそれでも嫌だもの」
お弁当の時よりも、或は不誠実かもしれない。それを否定する事無く、それでも良いわと私は続ける。
「無理なら無理と言ってくれて構わないわ。どうしても今行かなければならないという訳ではないし、差し当たってそれ以外本間君に頼みたい事も無いし、お礼をしたいと言ってくれたから試しに話をしてみただけ。断られたとしても他に何かしなさいとは言わないから気にしないで。いつかまた、親しくなれた誰かと行くわ。花ちゃんあたりを誘ってみようかしら」
開いていた教科書を閉じた。丁度勉強を終える時間になった。普段通り教科書ノート筆箱をまとめ、鞄にしまう。私がそうしているのを見ても本間君は微動だにせず、難しい顔をしながら暫く何かを考え、そして最後に、分かったと大きく頷いた。
「行こう、お礼はしたいし、僕が藤原先輩と良い仲になれたのは初瀬倉さんのお陰なんだから、そのせいで藤原先輩に振られたとしても、しょうがない事だと思う」
「真面目ねえ」
断るとか、遠くの水族館に行くとか、他にも沢山選択肢はありそうなものなのに、それでも本間君はそれを選ばなかった。
「じゃ、行きましょうか」
先に立ち上がった私が本間君の手を引っ張り立たせると、本間君がえ? と言いながら小首を傾げた。
「だから行きましょう、水族館」
「水族館って、今から?」
「そう、今からよ、一緒に行ってくれるんでしょう?」
「今日?」
「それが一番藤原さんに見つかりにくいわよ。大丈夫、今丁度七時でしょう、八時半最終入場で九時までやっている水族館を知っているから」
「そりゃ僕も知ってるけど」
この街に住んでいる誰もが一番馴染みの深い水族館。学校からだと、自転車で30分程かかる場所にある。
「私は駅まで歩きだけど、本間君は自転車よね。乗せて行ってくれる? お金がないなら入館料は私が出すわ、私のリクエストだし」
「いやいや、お金を払わせたりはしないけどさ、土曜日とかの方が、一日回れるんじゃないかな?」
「嫌よ。私魚にそんなに興味が無いし、勉強したり本を読んだり色々やる事があるの。こういう事はね、可能な限り早めに予定を立てて動いてしまうのが正解なのよ、予定外の事が無いようにきっちり計画を練っている時間があるのなら行き当たりばったりに終わらせてしまった方が結果として早く良い結果が出る事だってあるの」
「いつも計画的な初瀬倉さんが言っても説得力が無いよ」
「そうでしょうね、今思いつきで言っていることだから。でも、言いながら本当にそんな気がしてきたわ」
そんな会話を交わしながら、私は本間君の手を引っぱりながら校舎を出て、彼を自転車に乗せた。自分の分の鞄を前の鞄に乗せて、横向きに座り本間君の背中にしがみつく。
「しょうがないな、急ごう」
「別に急ぐ必要は無いわよ」
「一時間半くらいは、見て回る時間があった方が良いと思うよ、捕まってて」
そう言って漕ぎ出した本間君の体は思っていたよりも逞しかった。私が自転車で30分と思っていた道を、彼は私を乗せたまま、半分の15分で走破し、チケットを2枚買って入場し、入り口付近にある最初の水槽、沢山のヒトデが見える青く透き通った筒状の水槽を見始めた時、時刻は丁度七時半だった。
「ああ怖かった、意外と無茶するのね」
性格に似合わず、車通りが無いと見たら平気で赤信号を直進し、車道の左端を進み、そのまま坂を立ち漕ぎで登り切った本間君。多少息が上がって、脚が震えていたけれど、何が面白いのかヒトデをまじまじと見ている時には既に疲労など微塵も感じさせない状態に戻っていた。
「折角なんだから見ようよ。こっちのヒトデは触れるみたいだよ」
「何それ気持ちが悪い」
自分で連れて行けと言った癖に、何とも反応の悪い私だった。
少し奥へと進むと、周囲一面青く塗られた通路の進行方向右手に水槽が見え、その大きな水槽一つ一つに大型の海老や蟹が動いていた。その一つ一つをまじまじと眺める本間君。私はその本間君を眺めながら、時々説明文を読んだり水槽に目を奪われている振りをしたりしていた。
「何を探しているの」
私が自分の事を見ているとは気が付かなかったらしい本間君だけれど、心ここにあらずなのは伝わったようで、足早に水槽の隙間を踏破していく私に対して質問をした。
「ペンギンよ」
多分、メインとなる場所にいるのではないかと思っていたので前半で会えるとは思っていなかった。パンフレットを見ても、一日に二回あるペンギンの散歩や餌やり体験も、後半の半屋外のホールであったり、水族館の敷地にある外の通路を使ったりしているようだ。
「ペンギンって、あのペンギン?」
「他にペンギンが思い当たらないから、多分そのペンギンで合っていると思うわ」
「ペンギンの何が気になってるの?」
後ろからついて来る本間君。振り返って、鼻の辺りに指を指した。
「ペンギンって聞いて最初に何を思う?」
なぞなぞでも、とんちでもなくて単純にどう感じるか、それだけの質問。
「か、かわいい、かな?」
本当に可愛いと思っているのかどうかは微妙だったけれど、大体日本全国の意見を集約してくれた感じの答えをくれた。そう、ペンギンは可愛らしい生き物だ。老若男女、誰もがそう答えると思う、のだけれど。
「私は怖いのよ」
初めてその姿を見た時、泣いて逃げ出し暫く眠るのが怖くなってしまった程、私にとってはペンギンの外見は怖い。お陰で私の中ではペンギンはワニやトラと対して変わらない立場に位置している。
「だから、子供の頃ペンギンの話になって回りが皆ペンギンを可愛い生き物だと認識している事を知った日には、それはもう驚いたものよ」
本当に。私以外の日本人は一体どういうセンスをしているのだろうかと、疑問は無くならない。
「僕も、あんまり可愛いとは思わないけど、怖いかなぁ?」
「それを確かめにいくのよ」
テレビで見た時は、直接見た時よりは怖くなかった。家族で見て以降、私は極力水族館を避けて来たから、体も大きくなり、見え方も変わった今なら或は。
「因みにどんな風に怖かったの?」
「大きくて、くちばしが鋭くて、光沢がくっきりしていたのよ」
言いながら少し震えた。やっぱり見に行くのをやめようかしらと怖じ気づいてしまい、無意識に隣に近づいて来た本間君の顔を見上げる。
「そのペンギンを見たのって、この水族館?」
聞かれて、首を横に振った。珍しい家族旅行でのことだったと思う。ペンギンがやけにフューチャリングされていて、さあ見ろと親に押し出され、そして怯えた幼少時の記憶。
パンフレットを読んでいる本間君はふんふんと頷き、それから私の前をゆっくりと歩き出した。
「多分大丈夫だから、行こう」
「あ、ちょっ」
急に怖くなってしまって立ち止まっていた私の手首を掴み、引っ張る本間君。大丈夫、ともう一度言われて、掴まれていた手首を離された。
「本当に大丈夫なんでしょうね」
「確信はないけど、きっと平気だよ」
何か、謎が溶けたようなことを言う本間君は優々と下足取りで進みやがて私達は目指していたペンギンのプールへと到着した。
「あれ…………?」
そのプールは陸地と水面が半分ずつ程度に別れていて、室内にいる私達は丁度水面辺りに目の高さが来て、夜だからかもう活発に動き回りはせず、集団になって固まっているペンギンが奥の方に多く見えた。
「こんなだったかしら…………?」
それは確かにペンギンで、光沢も以前見たものと同じだし色合いもテレビで見る白黒のそれだったのだけれど、全く違う風に見えた。一言で言って、怖くない。
「多分、大きさが違うんだと思うよ」
釈然としないままその様子を見ているとそう言われた。
「大きさ? 確かにあの時私はまだ小さかったけど、でも」
「そうじゃなくて、ペンギンの大きさ」
私達は、水面の高さからペンギン達を見上げていた。そこから一つ登った二階は水槽ではなく檻になっていて、もう少し近くから、同じ高さに立ってみる事が出来る。その二階部分からペンギンを見る為、本間君は私を急かして螺旋階段を登った。
「昔見たペンギンって、初瀬倉さんよりも大きかったでしょ?」
「そうね……私よりも遥かに大きく見えたわね。でもそれは子供の頃の記憶だから大袈裟になっているんじゃないかと思うけれど」
「でも、子供の頃って、記憶があるんだから早くても小学校低学年くらいの事でしょ? その年齢の女の子が自分より大きいって感じてしまうくらいには大きかった訳だから、多分」
階段を登り、水槽に近づく、そこにいたのは私の膝上くらい、大きく見ても50cmには届いていない事が分かる小さな小さな白黒の鳥の群れ。
「初瀬倉さんが子供の頃に見たペンギンは、皇帝ペンギンだったんじゃないかな?」
言いながら壁の説明を見ている本間君の視線の後を追った。そこにはコガタペンギンと上部に書かれた説明書きがあった。
「僕は、フェアリーペンギンとか、コビトペンギンっていう言い方の方が好きだけどなあ」
言ってから、手すりの上側に両腕を乗せ、端で固まっているペンギンを見下ろす本間君。それから簡単に皇帝ペンギンの説明をしてもらった。とはいえ本間君も別に詳しい訳ではなくて、分かったのは、皇帝ペンギンは一mを超す大型のペンギンだということ。
「も、盲点だったわ」
説明を受けて、少し調べれば分かる簡単な事を見逃していた自分の迂闊さを恥じていると、楽しそうに笑われた。私のミスが面白いみたいだ。
「いやごめんね、馬鹿にしてるんじゃなくてさ、初瀬倉さんでもこういう事あるんだなーって安心したんだ。今度花にこの話していい?」
駄目、と私は言ったけれど、多分自分でするだろうなと思った。それから私達は、格子の僅かな隙間から手を伸ばして、手を入れないで下さいと書いてある檻の中にいるフェアリーペンギンを触ろうと暫く悪戦苦闘した。眠たそうに動こうとしないペンギン達は愛想も何もあったものじゃなかったけれど、唯一近くにいた一匹に指を伸ばし、そして肩口の、黒い翼のような部分に、僅かに触れる事が出来た。
「どう?」
「ぬめぬめして、ざらっとして、冷たくて……生臭いわ」
最後は匂いを嗅いでみての感想。魚ばかり食べているだけあって魚みたいな匂いがした。
「でも」
「でも?」
「ちょっと、可愛かったわね」
そりゃあ良かった、と本間君が笑って、私達は水族館を後にした。出口付近で私は手を洗いたかったのでトイレに入り、手を洗ってから洗面台に向き合う。清潔で広くて、嫌いではないトイレ。私一人しか人がいなかったので、自分の顔を見ながら少し、何も考えずにそこに佇んでいた。
さすがにこれ以上待たせるのは良くないと思い、トイレを後にすると、本間君はトイレの前に設置されていた木製の長椅子に深く腰掛け、背と頭を壁に預けて、眠っていた。
全く、と、溜息が漏れた。疲れていたのだろうけれど、女の子と二人でいる時に眠ってしまう。こういうところを藤原さんが許容してくれるかどうかは分からないのだから気をつけるべきだと何故か私が心配してしまう。
「…………」
目の前に立ってみた、起きない。寝顔は口が半分開いていて、お世辞にも格好良くは見えない。その間抜けな感じが何とも、本間君だ。
「本間君」
名前を呼んでみても、起きない。続けて何度か呼んでみた。口にしっかりと馴染む。呼ぶ度に、どこからか安心感が沸き上がってくるようだった。
「ありがとう、私の我が侭に付き合ってくれて」
お礼を言って、頭を下げた。ゆっくりと頭を上げても、まだ眠ったままだった。今日だけの事じゃなく、今日までの、色々な我が侭や助けに向けて一言伝えたかったありがとう。
「本間君、好きよ」
告白してみた。言葉は水族館の通路を流れて消えて、届いて欲しい人の耳には届かなかった。
「もう、誘ったりはしないから安心して。今日が最後、最初で最後の、私と本間君のデート」
意図的に避けて来た、デートという言葉を使ってみた。口にしてみただけで、頬が暖かくなる気がした。ゆっくりと近づいて、寝顔を近くから覗き込んだ。会わないとすぐに忘れてしまい、会えば絶対に間違えない、大好きな人の唇に、私は自分の唇をほんの一瞬だけそっと重ねた。本間君は、それでも起きなかった。
「起きなさい!」
結局、肩を強く押して、揺さぶって、無理矢理腕を引っ張る事でようやく起きた本間君は、今何時? と寝ぼけながら言って、もう十一時になったわよ、という私の嘘に驚いていた。
「そんな訳がないでしょう? そろそろ九時よ」
外に出て、解いていたマフラーを巻いて、近くの駅まで私は歩いて、本間君は自転車を押して進んだ。
初めてのキスは、失恋の味がした。




