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第十六話・そんな訳ないじゃない。

 閑静な住宅街。と呼ぶのに相応しい私の地元。坂道と裏道が多いのだけれど、この近辺で最も早い時期にバリアフリーが成されて、緩やかな坂でも階段、坂、手すりがセットになっている。近所の公園にあったブランコは私が五歳の時子供が怪我をするかもしれない、という理由で撤去された。公園のオブジェは全て一年に一度変えられて、だから私はこの公園を思い出す時にいつも漠然としたイメージしか作り出せない。


 そんな立地条件にある三階建ての一軒家が私の実家。駅もスーパーも図書館も近く、広くて清潔。素晴らしくて最悪な私の実家。


 「十一時五十七分、中途半端な時間になったわね」

 もう一時間、十分でも遅ければ開き直る事も出来たのに、などと考えながら私は家の扉を開けた。メールを打ってから携帯電話の電源を切る。話の途中で誰かから連絡がくる事は避けたかった。


 「おじゃまします」


 開けた扉を閉じながら言った。玄関にある靴の数は私のアパートよりも多いけれどそれよりも玄関自体が大きいせいで閑散としている。靴を並べて、スリッパに履き替えた。左手にある階段を素通りして真っ直ぐリビングへ。見慣れた顔が一つ、後ろ姿が一つある。


 「今何時なのか分かっているのか?」


 リビングの中央に置かれている机に手を置き、椅子に座っている私の父親。久しぶりに会った実の父親から最初にかけられた言葉は、お帰りではなかった。私も只今とは言わなかったけれど、こういう反応である事は分かっていたけれど、それでもうんざりした。


 「十一時、五十八分ね、私の時計が正しければ」

 「午前中には家に帰る約束でしょう?」

 「今は午前中よお母さん」


 私が一人暮らしを許されるのに出された条件の中の一つ。月に一度は必ず家に帰る事。日にちは全て母が決め、日にちを言われたら午前中に帰るのがルールで、暗黙の了解のうちにそれは十時頃であると決まった。全て二人が私に断り無く決めたルール。


 「屁理屈を言うな」

 「屁理屈は言っていないわ。十一時五十八分は午前、子供でも知っている事よ。それを言う事がどうして屁理屈になるのか、理由を」


 ドン、と机を叩かれて心臓がビクンと震えた。びっくりして、それから単純に怖くなって少し震えた。私はまだ椅子に座る事すら許可されていなかった。コートのポケットにしまったハンカチを探った。ある、確かにある。気が付かれないように大きく深呼吸をして、父の行動など何の効果もなかったのだと示す為に、


 「理由を教えて欲しいわね」


 中断された言葉を終えて、父の正面に座った。一瞬、父が怪訝そうな表情を作った。この状態で私が御免なさいとも言わず、しおらしい態度を作らなかったことに訝しさを覚えたのだろう。勿論それは一瞬のことで、すぐに怒りや憤りに取って代わられたけれど。


 「お前は失礼という言葉を知らないのか?」


 父の横に、母が座った。迷いの無い目だ。思えば私は迷いの無い目というのが嫌いだ。迷い無く人を傷つける人はいつでも、迷いの無い目をして清々しく自分の正義を押し付けて来る。そういう人というのは皆一様に、どこか人間味が無い。悪い意味で神様みたいに見える。


 「知っているから来たんじゃない。それに少し遅くなるってメールは送ったわ、返信が無いけれど、読んでいないの?」


 返事をしない方が余程失礼だ。とまでは言えなかった。同級生が相手なら躊躇無く言える言葉を、私は両親に向かっては言えない。敬意や愛情からではなくて、単純な恐怖と嫌悪のせいで。


 「大事な用件をメールで済ませるというその甘ったれた根性が気に食わん」

 「大事?」


 笑ってみせた。この人は、何の商談についての話をしているのだろう。


 「一月に一度実家に行く、いつもより少し遅れるから親に連絡をする。それだけの事にどうしてそこまでの事をしなければならないの? 遅れるわよ、分かった。それだけで済む話じゃない」

 「さっきから、お父さんに対してその口の聞き方は何?」


 話が変わった。私がすぐに話を脇にそらしてしまうのは残念な事に血筋のようだ。最初は私が来た時間についての話をしていたというのに。


 「お父さんに言われたらはいと言いなさい」

 「はいと言え、と言われたらはいと言うかもしれないけれど、私は質問に答えただけよ。今、十二時二分になりました」


 父の目が私を睨みつけていた。怖い。それ以上にそんな目で見られるのが嫌だ。


 「お前が頼むから遠い街で一人暮らしをさせ、三流の大学に通わせてやっている俺達の親心を、お前は全く理解していないようだな」


 お腹の中で、何か気分の悪いものがぐるぐると回っている。ハンカチを取り出して、お腹に当てた。黙って二人を見返す。


 「今大学で何を学んでいるのか、成績、単位、所属する研究室。それらを母さんに報告し、大学生としてまともであると判断出来なければ一人暮らしは許さないと俺は言った」


 私の態度は、二人にとって不合格で、悪のようだ。私はこのテストに合格する事が出来たし、正義になる事も出来た。その、圧倒的な自信や自尊心が、私は反吐が出る程に嫌いだ。


 「今すぐ、済んでいるアパートを引き払って家に戻れ」

 私の意見を聞くつもりは無いようだった。言いおいて父は立ち上がり、真後ろにあるシンクに立って煙草を吸い始めた。話はもうないと言わんばかりだ。


 「返事をしなさい」


 母が、父の言葉を後押しする。私は、どうして遅くなったのかくらいの質問を母がしてくれるのではないかと考えていた。私が甘かった事を思い知らされた。再確認と言うべきだろうか、父も母も、私に私の意見など求めていない。



 「嫌よ」



 父が煙草を吸う手が止まった。一瞬遅れて、母が金切り声をあげる。酷く無様な仕草だった。


 「大きな声を上げないで、二日酔いで頭が痛いんだから」

 「陽子! 貴女お酒を飲んだの!?」

 「それの何がいけないのかしら?」

 「いい加減にしろ」


 まだ殆ど吸っていない煙草をねじり消し、父が近づいて来た。一度立ち上がった椅子には座らず、その椅子の背もたれを両手で掴み、私を見下ろす。


 「お前があの程度の大学に行っている事だけでも、俺達がどれだけ恥ずかしい思いをしていると思っているんだ。親に恥をかかせるな」

 「私は今の大学に通っている事を誇らしく思っているわ。私の母校を三流だのあの程度だのと言うのは失礼じゃないのかしら?」


 見下す眼力に負けないように見上げた。皆に勉強を教えて、家を出るのに最適な距離の大学を探して、受験をして、皆で入学した。図書館には毎日のように行くしこの間の懇親会にいた先輩方も皆悪くないと思えた。そう思えるようになったのは私の成長かもしれないけれど、偶然があって縁があって、今私は大学生をやっている。


 「私が誇りに思っている大学を侮辱した事を謝って頂戴」


 気が付いたらそう言っていた。今までの私なら、昨日までの私でも、たった今までの私ですらそんな事は言わない。そんな一言。偏差値が特別高い訳でもなく、著名人を続々排出しているという事も無い。そんな自分の母校を好きでいる自分の存在を知った。

 言葉に対しての返事は、平手打ちだった。右手で頬を張られ、一瞬遅れて左頬にジンジンと痛みが走る。


 「出て行け、もうお前と話す事は何も無い」

 「そう……」


 言われた通り立ち上がり、出て行く事にした。左の頬が痛くて、それ以上に屈辱的だったけれど、痛い様子も、気にした素振りも見せなかった。私には最初から話す事なんて無かったわ。とか、私らしく減らず口を返してやれば良かったと、少しして思った。


 「何? もう話す事は無いのでしょう?」


 扉を開け、締めようとした時母に腕を掴まれた。本当に出て行くとは思っていなかったのか、腕を掴む母にも、テーブルの向こうで立ったままの父にも、僅かな戸惑いが見て取れた。


 「もういい加減に意地を張るのは止めなさい」

 「今なら、まだ許してやっても良いんだ」


 この期に及んで私が悪い事をしていて、それを認められずにいる。という風にしか思う事が出来ない私の両親。どういう生活をして来たらそこまで自分を疑わずにいられるのか少しだけ羨ましくもなり、心の底から気味が悪いと思う。


 「意地を張っているつもりは無いわ。許されなければならない事をしたつもりも無い。どうしてそう思うのか聞きたいくらいね」

 腕を強く振って、母の手を払った。早く帰って、二時間くらいかけて体を洗いたい。


 「子供の癖に、生意気なことを言うんじゃありません」

 「不正解です。私は二十歳なので、子供じゃないわ」

 「一人で生活する事も出来ない人間が何を偉そうな事を」

 「一人で生活出来ない? 私が?」

 「出来ないだろう、アパートの家賃も親に出させて、働いてもいないくせにどうやって暮らして行くつもりだ」

 「アルバイトをすれば良いだけでしょう? 私が今までアルバイトをした事が無いのは貴方達が許さなかったからよ。大学に入る前に、私は自分でお金を稼ぐから放っておいてと言ったでしょう。それを許さず働かせなかったのがそっちだというのに、今更働いてもいないくせにとは語るに落ちているんじゃないかしら?」


 私に言わせれば、父は料理も洗濯も、家事一切が出来ない。家にいれば新聞か本を読んでいるだけだ。一人暮らしをすれば部屋にカビが生えるのは目に見えている。母は生活に必要なお金を全て父に依存している。今更一人で生きることなど絶対に不可能だろう。二人で生きて行くのならそれで結構。ただ、一人で生きて行けない等と、自分が出来ない事を押し付けるような真似は止めて欲しかった。


 「大学の学費はどうするつもりだ、たかが大学生のバイトで賄えると思っているのか」

 「お父さん、奨学金という単語を知らないの?」


 見下すような言い方に、バカにするような言い方で返した。自分が学費を支払っている以上、絶対的に優位に立っていられると思っていたのだろう表情が曇った。


 「学費を払うよりも先に入学して、卒業後に仕事をしながら返す事が出来る制度よ。私は一般受験の成績優秀者だったから入学金は支払っていないわ。大学全体での成績優秀者で去年は現金二十万円を頂いているし、卒業までこの成績を保つつもりよ。院に進めば学費自体を免除して貰える可能性もあるわ。貴方達は大学のネームバリューを気にして大学院は違うところに行かせようとしているようだけれど、その下らない拘りが無ければ私は一切のお金を使わずに、むしろお金を頂いて六年間勉強が出来るのよ」


 貴方達がいない方が楽に暮らしてゆける。そう言ってやったつもりだった。伝わったようだった。


 「もう良いでしょう? 今月から家賃を自分で払わないとならないから、これから物件を探しに行かないとならないし、バイトも始める必要があるから暇じゃないの。帰るわよ」


 ドアノブを掴んだ時、今度は待て! という命令口調の言葉が飛んで来た。振り返り、初めてこちらから敵意を向け、父を睨みつけた。


 「私の質問に何一つ答えないでいる癖に偉そうに『待て』だなんて言うのは止めなさい。たった今私に出て行けと言ったのはお父さんなのよ」


 母は唖然とし、父は口を噛み締めた。一瞬でも早くこの家を出たくて、急いで靴を履き、玄関を後にした。


 「……案外こんなものかもしれないわね」


 後ろから追いかけて来られたらどうしようと思わないでもなかった。無理矢理力づくでもう一度家に押し込まれたら今度は逆に出してもらえなくなるような気もした。

 捨て台詞や最後の反撃があれば受けて立ってやろうと、ほんの束の間家の前で立ち止まった。その間に携帯電話を取り出し、電源を入れる。


 「……あら?」


 着信が四件も入っていた。全て花ちゃんからだ。ラインにも数字あり。これは花ちゃんからだけではない。それら全てに返事をして、作業を終えてから歩き出した。これ以上待っても追って来る事はないだろう。


 「拍子抜けね」


 昔、頑張ってレベル上げをしたゲームのボスが意外と弱くてがっかりした。と本間君と高ノ宮君が言っていたのを思い出した。ずっと怯えていた相手は、縛られたくなくてもがいていた相手は、いざ戦ってみると簡単に撃破出来た。肩書きや過去に捕われてその本質を見抜けていなかったのかもしれない。両親が私の事をいつまでも従順であると決めつけていた盲目さに比べれば幾らかはマシだとも思うけれど。


 早くも用事が終了してしまって、二日酔いの鈍痛だけが残った。来る途中に前を通った公園を思い出し、そこで少し時間をつぶす事にした。途中で暖かい飲み物を買ってベンチに座り、空を眺める。今年のオブジェはパンダなようで、四角い公園の四隅にそれぞれ違うポーズのデフォルメされた白黒が立っている。


 「みっともない顔をしていたわね」


 ほんの少し前にあった出来事を思い出して、私は実の両親の事を嘲笑った。誰かを嘲笑うのは得意だ。両親譲りだから。学歴や収入や容姿や肩書きで、事ある毎に誰かを嘲笑していた記憶がある。私も確かに、その輪の中にいたのだ。世の中の殆どの人間は負け組で、私はそうじゃない。そんなことを自然に思っていた時期の自分もいた。今思い出せば、寒気がするくらい愚かなのは自分だと分かる。


 「私はあの人達のどこを恐れていたのか、今となっては馬鹿らしいくらいだわ」

 両方の掌に包まれている缶コーヒーは暖かかった。左の頬に当てる。切れてはいないようだったけれどまだ少しヒリヒリした。


 「スッキリはしたけれど、まだ言い足りなかったわね。やりすぎたらどうなるのか見てみたかった気もするけれど、まああの辺りがちょうど良かったのかしら?」


 乾いた笑いが漏れた。昼間の公園には親子連れが何組かいて、子供は子供らしく駆け回り、親は親らしくその様子を見ながら寒そうに佇んでいる。私だけが異質だった。けれどその異質さに気が付く人もいない。気にする人もいない。私の笑い声もやがて乾いた空気と混ざって消えた。


 厚着をし、缶コーヒーを持っているお陰で寒さを感じはしなかったけれど洟が垂れた。みっともない事になる前にティッシュで洟をかむ。スンスンと、鼻の通りを確認しているところで着信があった。花ちゃんからだ。


 ここに来るまでの間に、今日これからあるだろう話は全てメールでしていた。私は花ちゃんに小さな隠し事は沢山あるけれど、大きな隠し事は一つもない。だから花ちゃんは私と両親の関係についてよく知っている。


 「陽子ちゃん、大丈夫?」


 大丈夫も何も、チョロいったらなかったわ。そんな事よりも何度も電話させてしまってご免なさい、何か急ぎの用事でもあったの?

 そんなことを言おうと思って携帯を握り締めた。けれど、言っておくべき言葉は幾つもあったのに、出て来なかった。代わりに小さく嗚咽が漏れた。


 「何で私は、何をやっても上手くいかないのかしらね」


 声は涙声だった。携帯電話が手元から滑り膝の上に落ちた。本間君から貸してもらったハンカチを目元に当て、俯く。髪が頬から滑り落ち、周囲から見たら随分ホラーな映像に移っているだろう。けれどそのお陰で私の無様な泣き顔を見られる事もない。


 「…………全く、馬鹿なんだから」

 両親にありがとうと言う。それが今日の私の目的だった。そのはずだったのに。


 「心配した、って言ってくれたら、私はご免なさいって言えたのに」

 最初の一言は、今何時だと思っているんだ。だった。お帰り、と言って欲しかった。


 「大学の授業とか成績とかじゃなくて、今楽しくやれているのか、困った事は無いか、と聞いてくれたら、話したい事がいっぱいあったのに」


 ポタポタと、涙が手に落ちた。まだ蓋を開けてもいない缶コーヒーが涙に濡れる。


 「私は本を読むのが好きで、将来は司書になりたい。そうすると地方に配属される事になるかもしれないから、卒業までの間は一緒に暮らさない? って……言いた、かったのに……」


 私はお父さんともお母さんとも、ただ仲良くしたかった。花ちゃんの家のように。休日には一緒に買い物に行く、そんな家族が欲しかった。素直な自分の本心に、いつだって私は気が付くのが少しだけ、だけど決定的に遅い。


 「両親の事がただ嫌いだなんて、そんな訳ないじゃない、馬鹿」


 本間君に恋人が出来る事を喜ぶ自分と悲しむ自分。どちらも本当である事を知っていた筈なのに、両親を嫌う自分と好きでいる自分のうち、嫌う自分だけを自分にして来た。皆と一緒にいたい。家に居たくない。だから家を出る。そんなに綺麗に自分の気持ちが全て纏まる事なんて、本来あり得ないのに。どうしてこんなに、私はかたくなだったのだろう。


 お父さんもお母さんも、一生懸命に働いて私の事を育ててくれて、私の勉強を邪魔しないように小さな頃から一人部屋を用意してくれた。小さな頃には休みの日に一緒に出掛けた事もあったし、自慢出来る両親でもあった。


 成人して、曲がりなりにも私も大人になった。その感謝を伝えてから、私から両親に言ってあげられる事を伝えようと思っていた。二人の価値観は少し偏っている。人の価値はもっと沢山のバリエーションがあるのだと。学歴が全てじゃない。なんてまるで熱血先生が出て来るドラマのようで、使い古され過ぎていて冷静になれば恥ずかしい言葉だけれど、実の娘が実の親に、感謝の言葉と共に伝える事に意味がある。そう思っていた。


 そんな自分の存在に、気が付かない振りをし続けていた私。


 私がそうだったように両親も、私が一言ご免なさいと言えば違う話をしようと思っていたのかもしれない。たった一歩の歩み寄りが出来ず、私は、私達は。

 空は晴れていた。太陽の明かりが真っ直ぐに地面に降りて、とてもいい天気だったけれど、放射冷却のせいではなく、私は寒かった。


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