第十五話・二日酔いの朝
「頭が痛いわ……」
見て良かったような、見たくなかったような夢を見た。不幸ではないけれどままならない。今よりも少し幼かった頃の私達の夢。
あの頃思い描いていた自分に、私は近づけているのだろうか。
あの日、花ちゃんと二人で抱きしめあいながら泣いた日、私は両親に話をした。面倒だから従っているのよ、と賢しらなことを言っていた私が初めてした些細な反抗。私は親を面倒だと思っていたのではなくて、ただ、親を怖がっていて、期待に添える人間でなければならないと自分に強いていたのだと分かったあの日。
両親に言ったのは、もしかすると推薦じゃなく一般受験で、少し遠い大学に進学するかもしれない。それだけだった。それだけの事で両親は何を考えているのかと私を叱り、私の進路は推薦で大学に行くか、その大学よりも更に高い偏差値の大学に行くか、のどちらかしかないと言い切った。自分達の正義を疑う事の無い口調と主張に私は抗い切れず、最後には頷かされた。
「喉が渇いた……」
二日酔いの症状は脱水症状とあまり変わらないそうだ。頭が痛くて全身がだるい。嘔吐間はそれほど強くなかった。
コト、と小さな音を鳴らして、私の横にコップが置かれた。そこに胡座をかいて微笑みながら、私を見ている本間君がいた。
「ゆっくりしていていいよ」
「どうして本間君がいるの!?」
私にしては珍しく取り乱して顔を隠した。言ってから、泊めたのは私だと思い出して、直後、忘れちゃったの? と少し哀しそうな本間君の声。
「ううん、思い出した。ごめんなさい」
「謝る事無いけどさ、水。飲みなよ、昨日は随分飲んでたから」
記憶を探って、自分がした事を思い出す。覚えている。全部。本間君と待ち合わせてからこの部屋で意識を手放すまで。
「八時には起きたかったのだけれど、今何時かしら?」
「九時前、ご免。起こしたんだけど」
布団から頭を出して壁の時計を眺めた。確かに九時前。普段だったら既に一仕事終えている時間だ。
「いいわ、私のせいだし大した予定があった訳じゃないから」
「じゃあ、何か作るから寝てたらいいよ」
言いながら本間君が立ち上がった。布団は畳んで部屋の隅。私の部屋のキッチンは大体分かっている本間君だったのだけれど、私は立ち上がって自分が作ろうとして、
「う……」
頭の痛みに逆らえず、もう一度布団に寝そべった。
「初めての二日酔いでしょ? ゆっくりしてなよ」
本間君は笑う。冷蔵庫を開け、使っていいものがあるかどうかを聞かれた。
「どれを使っても構わないわ。好きにして」
格好悪い自分を見られて全てがどうでも良くなった。思えば昨日は人生で初めて羽目を外してみようと思ってお酒を飲んだのだ。こうなる事は分かっていたような気がするし、こうなる為にしたような気持ちすら湧いて来た。そうなると、本間君が作るものに少し興味が出た。高校生の頃、私がお弁当を作っていた頃はご飯だけ炊いて私が作ったおかずで食べたりしていた時期もあったけれど。
ゆっくり、頭が痛まないように立ち上がる。痛みはあった。それでもどうやら急がなければ立つことや歩く事は出来るみたいだ。
「どこに行くの?」
「シャワーを浴びるわ。トイレに行きたいなら先に行って」
折角なので本間君が作るものは途中で予想したりせず完成を見て驚きたかった。
「……ごゆっくり」
本間君に見えないように下着を取ってお風呂へ。本間君は目に見えて狼狽えていて少し面白い。
両親にねじ伏せられてからも、私は自分がしたい事を探した。相談も沢山した。三人に。
「推薦で良い大学行けるんだったら将来何するとしたって行って損する事って無いと思うけど」
高ノ宮君はそう言った。そうだね、と本間君が頷いて、詰まるところ本間君の近くに居たいだけな私の気持ちを知っている花ちゃんだけが、何でそんな風に言うのよ。と怒って高ノ宮君を困らせていた。
「皆で一緒に居たいのよ……私、友達いなかったから」
その頃は花ちゃんのお陰もあってそれなりに居心地の良い同性の友人も出来ていた私だったけれど、だからこそそれは本心からの言葉だった。本来小学校や中学校でするべき悲しい別れという体験をした事が無い私は本間君だけではなく、花ちゃんや高ノ宮君とお別れする事も怖かった。私は四人の中で一番大人びていたし、登るべき階段というものを登っていたけれど、そのせいで飛ばしてしまった段も沢山あった。
「私考えたのだけれど、皆、頑張って勉強してみない?」
私が三人に勉強を教えて、三人が受験する大学を私も受験する。皆一緒に楽しい大学生活。思い出すだけでも子供じみた提案だったけれど、三人とも笑ってくれた。
花ちゃんはすぐに頷いてくれて、本間君からは藤原さんを追いかけたいので勉強を教えて欲しいと逆に頼まれた。高ノ宮君だけが、大学にスポーツ推薦枠で進むのならどうなるのか分からない。と言っていたのだけれど三年生の春、肩を壊して野球部を早期引退、野球からは身を引いて一受験生となった。涙を流した彼を見たことはない。けれど、花ちゃんから一部始終は聞いていた。悔しがって弱音を吐いて、そうして全てを諦めてから、新しい道を見出した後の高ノ宮君の動きは迅速で、暗いところがまるでなかった。尊敬に値する人だ。惚れちゃいそうね。と言ったら花ちゃんに一言『ダメだよ』と言われた。
それからも幾つかの悶着はあったけれど、無事私達四人は同じ大学に進学する事が出来た。
「……酔うと、昔の事をこんなに思い出すものなのかしら?」
濡れた髪を手で搾りながら呟いた。急いで二十分ちょっとで体を洗って、それから洗濯物を纏めて洗濯機に放り込んだ。残り湯を溜めておいたのでそれを流し込んで節水。本間君がいるのでほんの少し、分からない程度に化粧をして、髪を乾かしながらリビングに戻ると良い香りがした。
「あら、美味しそうね」
机の上にはコップとミルク、サラダが置かれていて、キッチンではパスタとトーストが出来上がりつつあるところだった。
「ボラギノールね」
「それ座薬だよ」
私の冗談に、本間君が笑いながら答えた。少し前に何かでこの冗談を知って、面白いと思いながら言う相手がいなかった。ようやく使えて、それにウケて満足。
本間君が作ったカルボナーラとパンとサラダ。私は買い置きしておいたポタージュスープの袋を千切って二つ陶器のカップを取り出した。ポットからお湯を注いで、スープも出来上がった。二日酔いの身には贅沢すぎるくらいのごちそう。
「うん、美味しい」
「良かった」
出来上がったものを食べながら、自分でものを作れる人が作る味だと思った。ご飯を作るようになってすぐの頃は一品作って満足という事も多い。
「サラダとトースト付きというのがポイント高いわね」
なので、そう素直な褒め言葉を送った。時刻は、九時四十分に差し掛かろうという頃。
「そろそろ出掛けようかしらね」
着替えはシャワー上がりに済ませていたので、昨日持っていた筈のバッグを探す。本間君の足下にあったそれを取って、中身を確認した。普段通りのものが全てそのまま入っている。幾つかメールが届いていた携帯電話だけ、普段より充電が足りていなかったけれど心配する程の事でも無かった。
「駅まで?」
「そうね、少し遠出するから。本間君は?」
「僕も駅までは行くよ」
十時少し前、私は本間君と連れ立ってアパートを出た。空はよく晴れていたけれど、それだけにとても空気が冷えている。
「夏は晴れてると暑いのに、冬は曇りよりも晴れの方が寒い気がするよ」
歩きながらの本間君の言葉に、私は少し笑った。
「でも、あながち間違いでもないわね、冬場の夜は雲がない方が地面から熱が逃げてしまうから。昼間晴れていたのなら前日の夜も晴れていた可能性が高いでしょうし」
不思議そうな顔をして本間君が私の顔を見た。それから、すぐに質問に移らず考える顔。その表情を見て微笑んでから、携帯電話を確認した。一件のメール。単文で返事をして、それから視線を液晶から本間君の顔へと戻す。
「分かんないな、どうして晴れてる方が地面の熱が逃げるの?」
「授業で習わなかったかしら? 暖かい部屋があって、カーテンを閉めている方がその熱が逃げるのに時間がかかるでしょう?」
放射冷却。と、説明の後に現象の名前を教えてあげた。成る程、と感心顔の本間君。誰でもそうだけれど、単なる暗記よりも、理屈が分かって、結果がこう、と説明をした方が人はその情報をより記憶出来る。単語としてでなくて思い出として覚えることが出来るからだそうだ。確かエピソード記憶と言っただろうか。興味がある事であればあるほど記憶への定着は強い。そして本間君は割と何にでもすぐ感心して楽しそうな表情を作る。つまり、案外勉強向きの人なのだ。
放射冷却されて冷えた空気に包まれながら、歩く事とおしゃべりで体を内側から温めた私達は凍える事無く駅に着いた。
「どうも、お世話になりました」
乗る電車が逆で、ホームが両端に来る駅だったので、改札を通ったところでお別れ。本間君のお礼に、私は笑顔で答える。
「タクシーになってもらったし、朝ご飯も作ってもらったから却って私の方がお世話になった気がするけれどね」
「いやいや、お陰で寂しい夜を過ごさずに済んだよ」
「寂しい事を認めるのね」
「うん」
良い傾向よ。と答えた。抱え込む癖のある本間君はこれからもどんどん人に甘えた方が良いし、それが私であるのなら嬉しい。
「全力で構うわよ、って台詞は心強かったよ。それに嬉しかった」
寂しそうで照れ臭そうで、でもどこか嬉しそうな顔で本間君が笑う。
「やっぱり、タクシーと朝ご飯くらいじゃ足りないわね」
前言をあっさり撤回して私は言う。私が乗る電車の時間まで後二分あった。二分しかなかった。
「今日、両親に会う予定なのよ」
弱音を吐いた本間君を見習って、私も本音を吐く事にした。そうじゃないと、きっとフェアじゃない。
「ちゃんと私の考えを言おうと思っているのだけれど、二十年間怖いと思っていた相手だから、やっぱり怖いわ」
本間君、花ちゃん、高ノ宮君は私の両親を知っている。何度も親の話をしたし、会った事もある。どんな人なのかは正しく理解してくれている。
「挫けそうになった時の為に何か頂戴。次会った時に返すから」
右の掌を上にして、五本の指を開いた。私の目を真っ直ぐに見て、少しして頷いた本間君は、ポケットの中からえんじ色のハンカチを取り出した。
「花と高ノ宮が僕の誕生日に贈ってくれたものだから、三人分」
「最高じゃない」
音も無く置かれたハンカチの、あるかなしかの重さを、私はしっかり感じる事が出来た。
「頑張って」
「ええ」
エールも貰って、意気揚々と階段を登った。意気揚々だったのは最初の数段だけで、それから二日酔いの頭痛に襲われたけれど、電車を乗り過ごす事は無く、二時間程かけて私は実家に帰った。




