第十三話・よかったわね
「あんまり好きな詩ではないわね」
お昼すぎ、私が作ったお弁当を食べている本間君に言うと、モグモグと口を動かしている彼の瞳が少し曇った。
「どんなところが?」
動揺を隠そうとしているのがみえみえな、哀しそうな表情を見て私の心は軽く痛み、同時に好きな子を軽く虐めたい、と小学生の男の子が思うような嗜虐心が芽生え、思わず笑ってしまった。
「神様お願い、みたいなところが」
「あの部分が良いんじゃないかな?」
私の言葉に、珍しく本間君が反論して来た。自分で茹でて切ったゆで卵を半分頂戴と言ってお弁当箱から取り、口へ放り込む。食べながら何と言うべきか考えている間、本間君は口を開かず、私の言葉を待っていた。
「神様お願い、の後に僕の全てをかけて、永遠に愛し続けるよ。みたいな歌詞があったじゃない? そこで思っちゃったのよね、だったら早いところ告白してしまえば良いのにって。君が側にいてくれれば他に何も要らなくって、全てをかけて永遠に愛せる程の覚悟があれば神様にお願いするよりも先に彼女にお願いをするべきじゃないかしらね?」
私の話をうんうんと頷きつつ聞きながら、途中で食べた唐揚げを食べる手が止まらない本間君。ほっぺたがリスのようになって、急いで噛んで飲み込もうとしている。
「美味しい?」
頷かれた。ゆっくり噛んで飲み込んでからで良いわよ、というともう一度頷かれた。
「成る程、と思いました」
「あら、待たせた割に内容がゼロの返答ね、さっきみたいにそこが良いんじゃないかとか、それは違うとか、反論はないのかしら?」
相変わらず呆れるくらいに素直な本間君。話が終わってしまいそうだったし、消化不良だったので、続けた。
「あの歌詞に限らず、もう少し男の子にはガツガツと攻めて来て欲しいわね。神様にお願いっていうのは、例えば女の子がお星様、私の想いを届けて。って言うみたいなものでしょう? 高校生にもなった男の子がそれって、繊細を通り越して弱すぎる気がするわ」
「けど、相手の気持ちを無視してまで自分の気持ちを押し通すのもどうかと思うけど」
「自分の意見が出て来たじゃない。その通りよ、だから相手の都合も考えて、相手がどんな人となりなのか、どんな男の子が好きなのか、何を好ましく思って何を嫌がるのか、そういう事まで分かる努力をする方が、神様お願いよりも先なんじゃないかと思うわ」
「それってストーカーじゃない?」
私の嫌いな、ストーカーという言葉が出て来た。この言葉に込められた意味よりも、安易に使われ過ぎるのが嫌。
「セクハラでも同じことが言えると思うけれど、ストーカーってどこからがストーカーなのだと思う?」
考えた事すらなかったようで、それから本間君は暫く黙った。食べながら考えなさい、と言うと頷いて、考えながらなのに美味しそうに、リズムよくご飯とおかずを口に運んでいく。私はその横顔を眺めながらサンドイッチを食べていた。
「嫌がる事をしたら…………」
嫌がる事、という言葉があまりにもあやふやだった為か、言った直後には違うなあ、と首を傾げた本間君。私はその本間君に一言、正解。と言った。
「相手が嫌がった瞬間に、セクハラやストーカーになるのよ。何の悪意もなく、むしろよかれと思って、今日の仕事終わったら彼氏とデートかな? と質問をした上司はセクハラだと言われるし、住所やプロフィールを調べて相手の好みを知って、偶然の出会いを装いながらデートに誘って首尾よく付き合う事が出来た男はストーカーではなく彼氏になれるの。本当に好きな相手なら、相手が嫌がるだろう線だってある程度分かる筈だし、結果として相手が喜んでいるのなら、そこに被害者はいないでしょう?」
嫌だと思った人、つまり被害者がいるのかどうかが、基本的には罪になるかならないかの線引きだと私は思っている。この国は思っていないようだけれど。
「私としては、少女売春でお金をもらっている方が被害者になって、お金を払った方が加害者になるというのも納得がいかない事だわ」
公の場で言ったら大問題になりそうなことを私は言った。明言しておくけれど私に援助交際の経験はない。男女交際の経験だってない。キラッキラの生娘でござい。
「それは、女の子が可哀想だから仕方ないんじゃないかな?」
「自分でこの値段なら良いですよ、って言っているのに? そのお金で良いものを買って美味しいものを食べて、本人達が満足しているのだからどうして誰一人損をしていないところに罪や罰を用意するのかしらね。責任能力がない子供を、なんていう人がいるけれどそんな偉そうなことを言っているコメンテーターよりも私達の方が百倍は携帯電話やスマートフォンの機能を使いこなせているし、女の方が男の子よりも成長が早いのは誰だって分かっているでしょう。中学生、高校生の女に自己責任能力が無いなんて事はあり得ないのよ」
「お金がなくて仕方なくやっている人だっているんじゃないかな」
「その場合の罪は年端も行かない女の子がそんな事をしなければならないような状況にした国にあるのじゃないかしらね? むしろお金を払った人は仕事をさせているのだから何もしない人よりも女の子の為になっていると思うけれど」
まるで援助交際をする男性を守ろうとして発言しているようになってしまったけれど、私が言いたいことはそこではない。ようは何を言いたいのかというと、自分達は常に被害者で、保護されるべきだと勘違いしている女が私は嫌いだという事が言いたい。そんな風だからいまだに女の地位は中途半端なままで止まってしまっている。買った方の男に対しては何も思い入れはないし、どうなっても構わない。
「話がずれたわね、すぐしたい話にずらしてしまうのが私の悪い癖ね。戻しましょう。歌詞の話、よね」
「うん」
「神様に頼むよりも先に、彼は自分が出来る事を全て行ったのかしら? というのが私があの歌にいまいち乗り切れなかった理由ね。彼女の魅力を最初に歌って、他の男達も狙っている、神様お願い、じゃあ何だか情けないもの。女の子で強引な男が生理的に受け付けないとか、絶対に嫌とか、っていう子は殆どいないものよ」
「本当に?」
「相手のことを決定的に嫌ってでもいない限りね。好きでも嫌いでもない相手だったとしても、それなりの強引さだったら悪い気はしないわ。特に普段は草食系な男の子がそうなったりしたら嬉しいわね」
「どうして?」
「他の女の子には草食系なのに、自分にはガツガツ向かって来る。それって自分は特別、って事の証明でしょう?」
だからどんどん攻めてみたらいいのよと伝えると、うんと大きく頷いた彼の目に力が宿った。高校二年生十二月の頭、外で食事をするのはそろそろ寒過ぎる。そんな時期の事だった。
高校二年生の文化祭が終わってから変わった関係は二つ。一つは花ちゃんと高ノ宮君。友達から恋人へ。私達はなるべく二人にしてあげようと話をしたのだけれど花ちゃんも高ノ宮君も二人きりでは恥ずかしいと未だ頻繁に四人でお昼ご飯を食べている。ただ、私達は呼ばれない限り一緒には行かない事にしているので、四時間目の授業が終わって、高ノ宮君がコソコソと気恥ずかしそうに教室を出て行く時には遠慮なくニヤニヤと粘つく視線をぶつけていた。先程の理屈で言えば、高ノ宮君はもっと花ちゃんに強く出て、これをしろ、あれをやれ、と押してしまえば、いっそ押し倒してしまえばいいのにまだ手を繋ぐところで止まっているらしい。彼女はどう見たって尽くすタイプであることくらい、下世話な言い方をしてしまえばドMな事くらい見抜いて欲しいものだ。
もう一つ変わった関係がある。私と本間君ではない。私はお礼と称してお弁当を作って持って行ってあげるようになったけれど、それは距離が縮まったということであって関係が変わった訳じゃない。変わったのは本間君と藤原さんの関係。
『これまでと同じように友達で良いので、僕の事を男として見る努力をして下さい』
文化祭の日、二日しかない日程の二日目夜に、本間君はキャンプファイヤーを囲みながら隣の藤原さんにそう言った。藤原さんは少しも考える事なくうん。と言い、それから二人が廊下で仲良く話をしている様子を時々見かけるようになった。それは私にとって当然辛い事であり、嬉しい事でもあった。今日もこうしてアドバイスをしている自分の心理はもうよく分からない。
「僕は最近、自分がどうしたら良いのか、何をしたいのかが分からなくなる時があるよ」
クリスマスを目前に控えた日、放課後の教室で私は本間君からそう聞かれた。
「私だってそうよ」
私は本間君の事を、本間君は藤原さんの事を考えている時にきっとそうなっているのだろう。
「将来どうしたいとか、初瀬倉さんは考えた事がある?」
「大学を出て、就職をするつもりはあるわ」
内申で私よりも良い生徒は学年に一人もいなかったはず。大学へは推薦で進学し、四年間を過ごす。それから就職。希望ではなく予定。だった。
「私の場合お金や学力で困る事は無いと思うから、親にももう話はしてあるし、納得しているみたいね。見栄や対面が大切な人達だからネームバリューがあるところならどこでも構わないのよ」
定員は一学年に一人か二人ずつではあったけれど、推薦で行ける大学に親が納得出来る学校はあった。
「就職は、そうね、公務員とかになるのかしら」
医者や弁護士になるつもりもないし、女子アナやキャビンアテンダントみたいな華やかな仕事にも興味を惹かれた事は無い。そこまでの話はまだした事が無いけれど、公務員という職業は納得出来るところだろう。
「大変だね」
淡々と話をしたのだけれど、本間君はそんな風に答えた。何が大変なのかしらと目で質問する。
「自分がしたい事をするのに、お父さんとお母さんの事をしっかり考えてるんだね」
感心したように言った本間君は続けてこう質問した。
「それで、初瀬倉さんは大学行ったり就職したら何がしたいの?」
「え…………?」
質問に対しての答えを、私は持ち合わせていなかった。私が考えていたのはこうすれば親にとやかく言われずに済む。こうしているうちには回りからの余計な指示を受けずに済む。という事だけ。そこに積極的な私の意思は入っていない。
「本間君は?」
質問に答えず、話を投げ返した。申し訳なさそうに首が横に振られる。
「僕は分からないな、だから考えてるんだ。何もしたい事がないなら勉強して大学に行けって親が言ってくれてるし、浪人はさせないけど塾には通わせてやるって言ってた」
就職か、進学か、高校二年生や三年生が毎年抱える問題。大まかな二択を選択し、その中で皆自分が進みたい道を進んで行く。人によってはここが人生で一番の岐路になるし、人によっては拍子抜けする程あっさりと進路が決まったりもする。
後になって抱いた感想だけれど、ここでどういった選択をするのかに関わらず、この一年間余りを真剣に悩み、自分なりに答えを出す事が出来た人は、確実に一段、大人へと続く階段を登るのだと思う。受験に失敗したとか、就職した会社がブラックだったとか、結果的な失敗はもちろん重要だけれど、それ以上に過程で苦労することが、結果の更にその先にある未来に繋がっている。後になって抱いた感想だけれど。
本間君はこの時悩み、階段を登ろうとしていた。私はこのとき悩まず階段を素通りしようとしていた。中学校、高校への進学の時もそうだった。私はここへ進学すれば親が納得するだろうという考えはあったけれど自分がこうしたい、こうなりたいという意思は無かった。
「この高校には、どうして進学したの?」
「色々縁があったんだよね。僕は中学の三年になってから一気に偏差値を上げたんだけど、ギリギリで合格ラインに引っかかったのがここと他の幾つかの学校だったんだ。本当は全寮制の学校とかで三年間暮らしたかったんだけど見つからなくって、そうしたら親が、妹と二人暮らしならさせてやる。って言ってくれたから頑張ることにした。雄一が野球特待になったのは後になって花が教えてくれたことなんだけど、それも一つ理由になったかな」
私が選んで親が頷くくらいの高校だから、偏差値、進学率は高い高校だった。同程度の学力の生徒が集まるのが高校である筈なのにテストの成績に大きな差が出るのは本間君のように短期間で一気に成績を上げて引っかかったような生徒がいるからなのだろう。私は逆、まだ上はあったし、上の高校でも同じような成績を取れたとは思ったけれど、そこまで全力で勉強に打ち込むつもりが無かった。図書室が綺麗だったというのも一つの理由。今思えば、この高校に来て良かったと心の底から思う。
「自分の考えがあって今ここにいる、という事ね」
「初瀬倉さんみたいにちゃんとしてないけどね」
自嘲するでも私を褒めるでもなく、当たり前の事として言った本間君。その言葉の意味も意図も理解は出来たけれど、『ちゃんと』の定義がそもそも違うのだろうなと私は思った。私は本間君がちゃんと自分の意思を持って選択したと思うし、本間君は私がちゃんと将来を考えていると思っている。
本間君の意思、という事で思い出して私は質問をぶつけた。
「そういえば答えは貰えたの?」
聞いた直後、聞く意味も無かったと思った。満面の笑みが浮かび、本間君の瞳が輝く。少し考えてみれば分かる事だった。いきなり恋愛歌の話を振って来るような今日の本間君なのだから。
「うん! 一緒に出掛けようって。二十四日の夜に親戚が集まって二十五は昼くらいまで一緒に過ごすのが毎年の決まりだから、夕方に少し会うくらいならいいよ、ってさ」
この日の前日、私は本間君から相談を受けていた。一般受験の為、センター試験前の追い込みをかけている藤原さんをデートに誘っていいものかどうか。私は誘う事は罪ではないし、むしろ理由がはっきりしている分断られてもその後が気まずくならないしいいんじゃないかしら。と答えた。
『受験前だから駄目、と言われたら受験がいつ終わるのかを聞いて、終わったら遊びましょうと言うといいわ。向こうも断った引け目があるからそれ以上は断り辛い筈よ』と、予め一つ助言を授けてはいた。心理学と呼ぶのもおこがましいくらい簡単なテクニックではあったけれど、本間君は私に向かって策士、と呟いた。貴方が素直すぎるのよ。と言い返した。
「そう……よかったわね」
しかしそのテクニックは必要なく、色よい返事を貰えたようで、私は祝福の言葉を、本心から言った。本間君の成功を、良かったと思える私は本当の私で、それを哀しいと思う私も、辛いと心を痛めるのも、全て本当の私。何も矛盾はしていない。
「初瀬倉さんのお陰だよ!」
「そうね、私のお陰ね」
余計な謙遜はせずに、手を差し出して二千円で良いわ、と言った。勿論冗談で、本間君は少しうろたえてから笑った。
「何かお礼するよ、何かして欲しい事ある?」
「そうね、さしあたっていい加減さっきから手が止まりっぱなしの問題を解き終えてくれたらそれだけで随分助かるけれど」
いつにも増してハイテンションな本間君に、淡々とした口調で言い放つ。それだけで彼はしゅんと静まった。いつも通り素直でしつけ甲斐のある犬のような反応に私は満足を覚えつつ、少し考えた。
「でもそうね、文化祭が終わって、もう仕事を代わりにやってもらってもいないし、残っているのは私が本間君に勉強を教えているのと、お弁当を作ってあげているという事だけなのだからその分のお礼をしてもらってもバチは当たらなそうね」
回りくどいことを言ってみると、それをシンプルな意味ととらえた彼の表情がパッと明るくなった。相変わらず、眩しすぎるくらいの笑顔。愛おしく思いながら、切なくも感じながら話を続ける。
「面倒臭くなって来たから、明日からお弁当を作って持って来るのを止めにしようかしら……嘘よ、そんなに哀しい顔をしなくても良いじゃない。そんな野暮な事はしないから安心なさい」
何か考えておくわ。と答えるとありがとうと言われた。お礼に何をしてもらうかを考えるのにありがとうと言われるのも、何か違う気がしたけれど頷いておいた。




