ベテラン警部
事件の資料とホワイトボードにマグネットで貼られた被害女性の写真を忙しなく交互に眺める新米刑事の綾瀬に、ベテランの風格をもった男は呆れたように聞いた。
「お前はどう思うね」
「なにがですか」綾瀬は口に出してから後悔した。この状況なら質問の意味を理解できないわけがない。
「事件だよ。それ以外に何があるんだ」
「そうですよね、すみません。
僕はやはり犯罪心理学者の言う通り次の殺人がおきるまでは犯人の特定はかなり難航すると思います。
これは連続殺人の序章にすぎず、いずれ自信過剰になった犯人はボロを出したり、我々警察に挑発的なメッセージを残す場合も考えられるのではないでしょうか。
左坤警部はどうお考えですか」
左坤と呼ばれた男は部下を叱責したい気持ちを静めようと俯いて眉間をつねった。おそらく綾瀬は週刊紙や犯罪心理学者の述べたことをそのまま口にしているだけなのだろう。
「なぁ、綾瀬。博識な学者さんがそうお考えなのはわかった。
もしかしたら学者さんの仰る意見は現実となるかもしれない。
しかし我々警察は次の事件など待ってはいられないし、証拠もなしに他人の意見に惑わされいては自分の目を曇らせるだけだ。
これだけ資料を眺めても、お前の頭の中で次の事件、次の手がかりを待っていては犯人に繋がる小さな糸口を見落とすことになる。
わかったら、他人の意見は忘れろ。自分の目で手がかりを探すんだ」
左坤はまた眉間を揉んでいる。
綾瀬はこれまでも多くの事件に関わってきた。その中でかなりの事件を解決へと導いた左坤の活躍を見てきている。彼の嗅覚や観察眼は、いくらベテランでも業界内で養えるものではない。天性ともいえる野性的な勘は綾瀬にはとても真似できるとは思えなかった。
「お前さっき殺人事件だと平然と口にしていたが、どうしてそう思う。学者先生がそう言っていたからか」
綾瀬は狼狽えた──というよりも理解ができなかった。
「では、左坤警部は意図的な犯行ではないかもしれないとおっしゃるのですか」
「当たり前だろう。何もわからないうちに、お前はなにを絞りこもうとしているんだ。小さな手がかりやヒントを結びつけて、そこで初めて推理でもしてみろ。
俺が腑に落ちないのは、被害者の死因と眼窩の損傷のほうだ」
全く理解できていないといった綾瀬の表情を見て、左坤は更に説明を続けた。
「俺が言いたいのは、これが殺人と決めつけるには証拠至上主義日本の警察である以上ゆるされないということだ。
まず死因だが、薬物の過剰接種とあるがこれは薬物中毒の人間ならセルフでオーバードーズする場合だってある」
綾瀬がなにかを言おうとしたが、左坤はそれを手で遮った。
「お前はわざわざ盗難車のトランクの中で自殺するやつなんかいないと言いたいのだろうが、現時点で殺人と立証することは出来ない。そもそも薬中の考えることなんて、俺たちには想像もつかないからな。案外、イカれた精神状態なら自殺もありえなくないんじゃないか。
次に眼窩の損傷だ。あそこから炎症が確認されている。いわゆる生活反応ってやつだ。
被害者は目を潰されたときは生きていたということだ。おまけに治癒が始まっていて、被害者が仏さんになる約一ヶ月前に負った損傷らしい。
他に目立った外傷がないということは、死ぬまでの一ヶ月間被害者が日常的に拷問や暴力をうけていないことがわかる。
目の損傷は犯人にとってなにか意味のある行為だったんだろう」