浦島の太郎兵衛
土佐の国は田野の浦に住む漁師の太郎兵衛。二年前に二親を漁で亡くしてから一人寂しく暮しております。
太郎兵衛は、二親を奪った海が恐ろしくて、いくら網本が誘ってくれても沖へ出ることができません。せいぜいが向かいの小島に渡って磯魚を釣るか、貝や海老を掴んでくることしかできませんでした。ですが、勘がよいのか、日常を不便なく暮して余るほどの銭を海から得ていました。
その日も獲物を網本に買い取ってもらい、浜をぶらぶら帰り道でした。
浜に何人もの子供がたかって棒を振り下ろしています。その近くには若い海女が立っていました。
一匹の大きな亀めがけて子供たちが矢継ぎ早に棒を叩きつけています。
「おいおい、やめろやめろ。相手は亀だろう? 石を叩くようなもんだ。可哀そうだし、馬鹿らしいからやめろ」
太郎兵衛は、次々に振り上げられる棒を掴んで取り上げてしまいました。
「可哀そうだろ? なんでこんなことするんだ?」
太郎兵衛はしゃがみこんで子供たち一人ひとりの目を覗き込みました。
「だって、亀を叩いたらお金くれるっていうから」
子供は悪びれることなく正直に話します。
「誰がお金をくれるって?」
太郎兵衛が訊ねると、子供たちは一斉に海女を指差しました。
「何があったか知らないけど、銭を払って他人をけしかけるってのは感心しないなぁ。しかも相手は子供じゃないか。いったいどういうことなんだ?」
太郎兵衛は海女に訊ねました。
「その亀、私が小屋で体を温めていたのをじっと覗いていたんだよ! 憎たらしいったら。これでもまだ嫁入り前のピチピチなんだよ!」
「……覗かれた? 亀だぞ、亀。いいじゃないかよ」
「冗談じゃないよ! 磯着を乾かしていたんだよ、何もかも全部見られたの!」
「……そうか、全部なぁ……」
太郎兵衛は、あらためて海女をしげしげと見てみました。
キッと吊り上った目尻は癇症を思わせますが、富士額といい、通った鼻筋といい、なかなかの器量よしです。そして、ふと視線を下げたとたんに口走りました。
「許してやってくれよ、絶対に後悔してるって。見たりするんじゃなかったって。そうだろ?」
太郎兵衛が言うまでなく、亀は大粒の涙をボロボロこぼしていました。
「それじゃあ私の気が治まらないよ! 半殺しにしてやらなきゃ、今夜眠れないよ!」
なかなか女という生き物はズルイものでして、さながら女豹のように牙を剥いています。かといって、スッポンならともかく、海亀の肉を食べたところで精がつくわけではありません。どうせ使い道があるわけではないので、太郎兵衛は亀を買い取ることでこの場をおさめようと考えました。
「わかったよ、……じゃあ、俺が買おう。今日の稼ぎから飯代だけとって、これで売ってくれ。なっ、そうしてくれ、たのむからよ」
「おや、あんた気風がいいね。ふぅん、男らしい身体してるし、よく見りゃなかなかじゃないか。きまった女でもいるのかい?」
海女は、太郎兵衛は気前よく差し出した銭に気をよくして色目を使いだしました。
「いや、親が死んだばかりでな、色っぽい話は遠ざけてるんだ」
未練がましく付き纏おうとする海女をふりきって、太郎兵衛は亀を抱えて小屋へ戻りました。
太郎兵衛の小屋はまことに質素です。板張りの小屋には水瓶が一つ。真ん中に囲炉裏がきってありまして、竹でスノコが編んであります。そこに干した藁が敷き詰めてありました。
他には、煮炊きの道具を除けば掻巻くらいしかありません。
ざざっと雑炊をすすりこんだ太郎兵衛は、亀に語りかけていました。
「お前、ほんとうに趣味の悪い奴だなぁ。あんな女、見るだけ損だろ? もっと、こう……ムチムチしてるならともかく、鶏ガラじゃないか。覗くならもっと人の多いところへ行けよ。まぁ、こんなこと言っても通じないだろうがな」
腹が空いていたのか、懸命に若布をパクついていた亀が、口をモグモグさせながら応えました。
「おかげで助かりやした。つい顔立ちに惹かれちまいまして、仰るとおり、見ねぇほうが良かったと後悔してまさぁ。助けていただいて、ありがとうございやした」
「これに懲りたら、二度とするなよ。……待て、おい、言葉を話せるのか?」
「知らねぇのは人間だけですぜ。んなことより、兄ィもムチムチがお好きなようでやすね。遠慮なく帰らせてもらいやすが、礼のひとつもしねぇってのは義理欠くってもんだ。……じゃあ、こうしやしょう! ひとつ竜宮へ繰り出しやせんか? 海の底だろう? 心配ぇするこたぁござんせんよ。ちゃあんと息ができやすからねぇ。吉原といっしょでさぁ。吉原を知らねぇ? お気の毒に……。太夫から上臈、顔見世なんざうるさいくらい袖引きやす。有象無象なんざ、それこそ掃いて捨てるほどですぜ。なにね、オイラの背中で一眠りする間に着きまさぁ」
亀のやつ、巻き舌のうえに早口でまくしたてます。まんざら嫌いでないのが太郎兵衛の弱みですね。理性と欲望が喧嘩している間に、気がつけば亀の背中に掴まっていました。
「兄ぃ、着きやしたぜ!」
亀が太郎兵衛を振り返りました。これまで、あるのかさえ見えぬほど速く動かしていた足が、ゆるやかに水を掻いています。そして、いくらもたたないうちに足を翼のようにピンと突っ張りました。
足先をチョイチョイと上げ下げして、見えたきた宮殿の大きな門にピタリと狙いを定めました。
白亜の殿堂。いえ、色とりどりのネオン瞬く宮殿に違いありません。
キィーッ、キッツキッ……。
門に近づくにつれ、耳障りな音がしだしました。
キョキョッ、キョーッ、キョキョ。
亀の口から気味の悪い叫びがあがりました。
「どうかしたのか? 具合が悪くなったのか?」
「いえ、ご心配にゃあおよびやせん。門番に合図してたんでさぁ」
「合図? どうして?」
「どうしてって……、出てくる奴と鉢合わせしちゃあいけねぇでがしょう? ちょいと待てって言いやがったからね、こっちは恩人をお連れしたんだって返ぇしてやったんでさぁ。そしたらね、そのまま入ぇれって返事がありやした」
亀は、説明しながらも門にむかって滑るように進んでいます。
「ハンドレット、フィフティ……」
「何言ってるんだ?」
「だから、あと五十フィートで底につく……」
言っているまにゴツゴツとした振動が伝わってきました。
「へい! 長旅お疲れ様でございやした。まずは足をすすいで、お茶でも飲んでくだせぇ。まずは俺っちの元締めに会っていただいて、明日にでも竜王様にお会いいただきやすよ」
すっくと立ち上がった亀は、べらぼうに広い廊下を奥に進みました。
異常なほど広い廊下ですが、横幅の広い亀がすれ違うに必要な幅だったのです。
とりあえずお茶をいただきますと、亀がニヤニヤしながら膝を詰めてきました。
「兄ィ、早速だが面白ぇもの見せにご案内しやしょう」
下碑タた笑いを浮かべて隠し扉を開けました。
「どういうのがお好みで? いえね、兄ィはきっと素人同士の絡みがご執心じゃねぇかと思いやしてね、学生同士がいいか、若者同士。当たり前の夫婦者もいりゃあ、間男、間女もおりやして……。そうそう、素人ってぇのは妙に敏感でやす。音の出ない奴を使ってくだせぇ」
亀は甲羅に隠したカメラを二台渡してよこしました。
「くれぐれも用心しておくんなさいよ、素人ってなぁ諦めが悪い。そのくせビックリしたら身動きできねぇ。そこがつけ目でやすがね」
亀は、そっと腹這いになると薮の中へ分け入り、首だけヌゥッともたげてみせました。
「兄ィ、大ぇ変だ! 手が廻った!」
乙姫のトイレシーンや入浴シーン。更には独り寝のシーンなど、撮りためた写真や動画を整理していた太郎兵衛は、大慌てでとびこんできた亀の言うがまま逃げ出す準備を始めました。ただ、乙姫と約束した逢瀬はすぐ間近になっています。それが気掛かりでした。
「どうしたんだ? いったい何があった?」
「呑気なこと言ってちゃいけやせんぜ。兄ィ、あれでがしょう? 乙姫様を盗撮したでしょう? それが竜王にバレたんですよ。早くしねぇと追っ手がかかりやすからねぇ」
事の次第がわからなかった太郎兵衛は、それでも乙姫との約束を反故にできかねていました。
「あーもうっ! 一目だけですよ、あとはなんとかして乙姫様を連れ出すことを考えればいいんだから」
そうなのです。亀は覗きこそ気持を高ぶらせてくれるかわりに、相手としっぽりなどとは考えないのです。
「父上に知られたからには、太郎兵衛さまのお命はありません。どうかご無事にお逃げくだされ。これをワラワと思い、大切に……」
乙姫様から真珠色した玉手箱を持たされました。
「フィーッシュ!」
とうとう竜王が近くまでやってきました。
「兄ィ早く!」
亀はすでに背を向けて太郎兵衛が掴まるのをジリジリしながら待っています。
「早くしておくんなせぇ! いくらロリばかり食ったせいで全身トロだといっても、元は黒マグロでやす。案外力が残っているかもしやせん」
黒い巨体が現れました。が、無音潜航している潜水艦のように、動きはいたって緩慢です。おまけに、目の前に初々しい娘が近づくと、そっちへ反れてパクリ。
「いやーん」「ああぁーん」
声がするたびに頬が弛ませています。
痙攣としかいいようのない無残なキックは、すんでのところで亀を取り逃がしてしまいました。
「フィィーーーーーーーーーーーッシュ……」
はるか後方での咆哮に、イカが群れをなして追ってきます。
「いかんよー。逃げたらいかんよー」
渦巻く喧騒の中、太郎兵衛は田野の浦へ帰ってきました。
必死に這って上がってきた亀を小屋に匿います。
海が真っ赤になりました。懸命に泳いだから火照っているのか、それとも怒っているのか、真っ赤になったイカが浜を埋め尽くしました。
あとからあとから押し寄せる大群のため、イカは太郎兵衛の小屋に迫りました。
「いいか、裏山に逃げろ。身体を隠せるところまで逃げたら首を伸ばしてベロを出せ。そうすりゃ蛇と間違うにちがいない」
太郎兵衛は亀に言い含めると裏口から逃がしました。
ブチューッ、ピューッ……
イカ墨攻撃が一斉に始まりました。
もはやこれまで
太郎兵衛は、せめて乙姫の匂いを嗅いで死のうと玉手箱を開けました。
太郎兵衛が気付いた時、浜はすっかり様子が変わっていました。
裸の男が板を抱えて沖へ繰り出し、波に乗って遊んでいるのです。
太郎兵衛は今が気に入っています。
働かなくても、生活保護とやらで食うに困りません。それに、乙姫様の盗撮データが高値をよびました。
定期的に銀行が秘密の売上金を預かりにきます。
その時、太郎兵衛はいつも言うのです。
「裏へ仕舞ったろう?」
びば! 玉手箱!