意識と無意識の境界線 〜 sin reciproke sentoj
「・・・・」
「・・・・」
(ん? 何? 誰かが話をしているのかしら?)
ぼんやりと遠くで誰かが話す声が聞こえてくる。淡い暗がりの中で声のする方に自然と意識が向かう。遠くなのか近くなのか分からないが、声のする方向に色の違う場所が見える。
(あそこ?)
意識を凝らしてみればいつの間にか“わたし”は空間に出ていた。
淡い色の花々の中に眠る一人の女性が見える。年の頃は十代後半か行って二十代半ばのように見える。彼女は白いふんわりとしたワンピースを身にまとい、心地よい眠りの中に居るようだ。緩く波うつふんわりとした長い髪が風にそよいでいる。彼女の顔は横を向いていて良くは見えないが、眠る表情は柔らかい。“わたし”は眠る女性を見て心が温かくなる。と、左目の端で違う何かを感じ思わず左側へ顔を向ければ今度は暗がりの中に男性が横たわっている。
(ここは・・・? この男性の部屋かしら?)
暗がりなのでよくは見えないが、男性はパジャマを着てベッドに寝ているようだ。恐らく彼の部屋なのだろう。だが、その顔はいささか機嫌が悪そうだ。無意識に眉間に皺が寄っているのが見える。この男性、どこかで見た事があるような気がするが・・・思い出せない。
突然何かが頭の中に流れ入って来た。
(これはこの男性の夢?)
眠る男性に被さるようにして別の情景が見える。天気の良い公園で男性が微笑みながらこちらに手を差し出している。
「元気になったらまたお弁当を持って公園へ行こう。きっと楽しいよ」
「ごめんなさい、私はもう行かなきゃ・・・」
(ん? 女の人の声?)
男性の声と女性の声が聞こえてくる。
右側を見れば女性はまだ眠っている。時折、ふっと頬が緩んで見えるーーー微笑んでいるようだ。
「僕はいつまでも待っているからね」
「・・・あなたは大丈夫。きっと、乗り越えられるわ」
(男性の声は左から、女性の声は右から聞こえるみたい。ひょっとして、これはこの二人の夢?)
“わたし”はどうやら男性の見る夢と、女性の見る夢を同時に渡っているようだ。
双方から聞こえる声に“わたし”は訳が分からずにただ佇むしか出来ない。その間にも声は聞こえている。
(どうしてこうなったのかしら?)
不思議に思うも自分の力では何ともしようがなく、ただひたすら目の前の情景を見つめる。
「あなたはこれから幸せになるのよ、きっと大丈夫だから・・・あなたなら・・・きっと」
「いっぱい楽しい事をしよう。海にも行こう。買い物もいくらでもつきあうよ」
(会話が噛み合っていないわ。どういうことかしら?)
「君の笑顔が見たい。もう一度・・・お願いだ・・・戻ってきて・・・」
つぅっと男性の眦から涙が零れ落ちるのが見えた。“わたし”は、心臓を鷲掴みにされたように苦しくなる。思わず自分で両肩を抱きしめた。
「あなた・・・。大切なあなた。どうか、幸せになって。あなたは笑顔がとても素敵なんだから、笑っていて」
眠る男性の上にフワフワと女性が舞っているのが見える。思わず右を見れば女性は眠ったままだ。
(どういうことかしら?)
眠る男性の上に舞う女性の視点から、“わたし”は男性を見ているのに気がついた。
(この女性は“わたし”?)
ほろほろと男性の眦から涙が零れ落ちる。それを見て“わたし”の心は悲しみでいっぱいになった。
「悲しまないであなた。これは運命なの。仕方のない事なの。誰にも変えられないのよ」
「君の場所は夫である僕の所だよ、早く目を覚まして」
“わたし”は、ようやく理解した。女性はもうこの世には居られないと。彼女は今、正にこの世から消え去ろうとしている。だから夫である男性の所へ来たのだ。男性の悲しむ姿を見て心を痛め、だから少しでも勇気づけようとしているのだ。
そして男性は女性を想って悲しみに打ちひしがれている。少しでも希望を持ちたくて男性は一縷の望みを捨て切れないのだろう。妻を想う切実な気持ちが“わたし”の中に流れ込んで来る。
(二人ともこんなにお互いを想いやっているのに・・・)
女性がそっと手を伸ばし男性の頬に触れる。涙の筋を指で辿る。まるで涙を拭って上げているようだが、もう彼女の指ではそれは不可能な事だ。だが、彼女は何度も何度も男性の涙に手を沿わせている。その顔は慈愛に満ち、優しい眼差しを男性に向けている。
「あなた・・・。大切なあなた。私はあなたの事が大好き。出会えて・・・本当に良かった。だからどうか私の事で悲しまないで。ああ、もう行かなきゃ・・・愛しているわ、いつまでも」
女性の影が少しずつ薄くなって行く。それを負うかのように男性の手が宙に伸ばされる。
「行くな! 行くんじゃない! 戻って来い!」
突然大声を上げて男性が起き上がった。一瞬、呆然とした表情をしていたが、すぐに目の焦点が合う。するとどういうわけか突如、暗がりに優しい笑みを浮かべた女性の姿が現れた。男性は信じられないものを見たように目を瞠く。そして妻の名前を必死に呼ぶと女性がふわっと笑ったように見えた。男性は慌ててスマホを手に取りどこかへ電話をかける。
「あ、もしもし、妻の、妻の容態は!?」
暫く何か話をしていたが、男性は呆然とした表情でスマホを落としてしまった。
「あああああああああああああああ!」
暗闇の中、男性の慟哭がこだまする。
(どうしてこんな場面を私に見せるの?!)
先ほどまでのチグハグな二人の会話を聞いていた“わたし”は、この夫婦の相手への想いを直接感じていた。ふたりの想いとは裏腹に、現実は二人を永遠に引き裂いた・・・。
(やだ。こんなの、こんなのって無い・・・。どうして、どうしてよ!)
“わたし”は、全身で強い悲しみに囚われた。
(あの奥さんに私の命を上げるわ! だからこの二人を引き裂かないで!)
思わずそう叫んでいた。独り身の“わたし”には悲しむ相手はいない。だから・・・
「駄目だ!」
周りの風景が一瞬で粉々に砕け、同時に背後から強い力で抱きしめられる。その苦しさで“わたし”は、はっと我に返った。
「駄目だ!」
耳元で大声がする。
「青、蓮・・・? わたし・・・なにを・・・」
背中に暖かさを感じる。その暖かさはじんわりと私の中に浸透して来る。
「暖かい・・・」
私を抱きしめる腕にぎゅっと力が加わった。
(震えているの?)
触れているところから小刻みに震えているのを感じる。
「青蓮。もう、大丈夫だから・・・」
「『大丈夫』じゃない! 全く大丈夫じゃない!」
喉の奥から絞り出したような声だ。その声を聞いて青蓮の気持ちが伝わって来る。そして、どれ程、私が危険な事を口走ったのかも理解した。私を捉えている青蓮の腕にそっと手を這わすとゆっくりと体をねじり青蓮へと向き直った。
「心配かけてごめんなさい青蓮」
頭一つ分はゆうに高い位置にある青蓮へ向けて顔をあげた。そこには、ぎゅっと眉根を寄せ口を真一文に結んで、不安と怒り出す寸前といった感じの、沈痛な面持ちをした顔が私を見下ろしている。
(ああ、こんなに心配をかけてしまったのね)
めったにこのような顔を見せる事のない青蓮の顔を見て、改めて自分の言葉が彼を傷つけた事を知った。
「君は・・・、君に取っては単なる“夢”かもしれないけど、もう違うんだよ。君の言葉は、理となり、実現可能なものとなってしまう」
「ごめんなさい・・・」
青蓮の言葉にさっき思いのままに叫んだ自分の言葉を考える。
(命を軽々しく扱うなんて、なんて烏滸がましいことを・・・。彼女だってきちんと運命を受け入れていたのに、それを尊重しない言動をするなんて・・・)
自分の言動が恥ずかしくなり、そっと青蓮の胸に顔を埋める。青蓮は優しく私を包み込んだ。
「瑠璃は優しすぎる。でもその優しさは時として危険なんだ。さっきも、あの二人への思いに囚われて自分の命を軽々しく扱ったね。私はそれが許せない。あの時の瑠璃には、私の存在は一片たりとも無かったのかと思うと・・・心が痛む」
優しい物言いだが青蓮の言葉は、私の心に深く鋭く入り込んで来た。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい。『独り身の“わたし”が』なんて思ったの、ごめんなさい!・・・あなたを傷つけて・・・ごめんなさい」
(この前の紅蓮の時にも青蓮の名前を思い出せなくて凄く嫌だったのに、どうして独り身なんて・・・。もう、自分が信じられない。どうして最近の自分は青蓮の事を、こうもちょくちょく忘れてしまうのか、この世で一番大切で大好きな人なのに。もう許してもらえないわ・・・)
この先に告げられるかもしれない言葉を想像し、顔を上げられないでいると、頭に何か柔らかいものが押し付けられた。それは直ぐに離されたが、ふと視線を上に向けると今度は額に口づけをされた。今度は長く押し付けられ、その心地よさに私はうっとりと目を閉じた。すると顎に手を添えられ顔を上に向けられる。なされるがままに上を向けば、唇を塞がれた。
優しく何度も私の唇をはむように口づけが繰り返される。
「泣かなくていい。瑠璃を泣かせたくて言った訳じゃない」
「でも。私は青蓮に酷い事ばかりしているわ。愛想を尽かされても仕方の無い位に」
「違うよ。瑠璃の気持ちは直接感じているから本物だと分かっている。愛想を尽かすなんてあり得ない」
私は何も言えずにただ首を横に振るしかできない。
「“夢”の中ではね、色んな事が起きるんだ。紅蓮の時のように無理矢理介入してくるやつもいる。最近の瑠璃の夢渡りには色んな思惑が絡んで来ているようなんだ」
青蓮の言葉に私は言葉を失った。
「つまり、えっと、今回も誰かが介入したってこと?」
青蓮は悲しそうな目をして軽く頷いた。
「そんな・・・」
「大丈夫。見当はついているし、さっき私が介入したせいで相手も相当な痛手を被っているはずだ。今頃七転八倒しているだろう」
私を安心させる為か、青蓮は口の端をクイッと上げ不敵な笑みを浮かべた。
「青蓮、わたし、もしかしてみんなに迷惑をかけているの?」
「違う。それは絶対にない。強いて言うなら君の相手が私だからって事だ。・・・嫌いになった?」
不安そうに青蓮の瞳が揺れている。
「まさか。そんな事で嫌いになる訳ないわ」
思わず、というより、青蓮からそういう風に言われるとは思わず驚いて本心を口にした。私の言葉を聞いた青蓮はほっとしたように相好を崩した。
「安心した。迷惑をかけているのは私の方だ。すまない」
そう言うと、優しく、だけど力強く私を抱きしめてくれた。
「私は何か対策をした方がいいのかしら?」
顔を上げて見上げれば、優しい色の瞳が見下ろしている。
「そうだね。私の事をしっかりココに刻み付けておいてくれればいいよ」
青蓮の指が私の胸元をピタリと指す。
「うん。それは大丈夫。でも・・・あ・・・」
私の腕にブレスレットが現れた。
「これは絶対に外れない。例え瑠璃が私の事を忘れたとしてもね」
青蓮は悪戯っ子のように目をくるりと見せる。それがなんだか悔しくて、思わずくってかかるような声を出してしまった。
「忘れないわ! 絶対に。嫌なの、例え全ての記憶が消えたとしてもあなたの事だけは忘れたくないもの。・・・ありがとう青蓮。大切にするわ」
「瑠璃・・・。私にも同じものをくれないか? ここに念じるだけでいい」
私は青蓮に促されるように私の腕についているブレスレットと同じものを青蓮の腕にイメージをした。するとお揃いのものが彼の腕にも現れた。
「うん、最強だ。ありがとう瑠璃」
「最強?」
「この二つのブレスレットに織り込まれている想いが最強の結界になった。ちょっとやそっとじゃ、もう瑠璃にも私にも手を出せない」
「そうなの?」
青蓮には見えているのだろうか。私の目にはそれらしいものは見えない。だけれども、何となく柔らかい“想い”がこのブレスレットから伝わって来るのを感じている。
そっとブレスレットに指を沿わせる。お揃いのものを身につけているというだけなのに、何となく心強い。
「これって私が起きている時もつけていられるの?」
「それは目覚めてからのお楽しみだ。今は、目覚めている時との乖離が大きいから、目覚めている時にはこのやり取りは思い出せないだろうけど、徐々に重なり合うだろう。その時には、ずっと・・・」
(青蓮、何て言ったの?)
「もう少し一緒に居たいけれど、そろそろ時間のようだよ。さぁ、目を閉じて。力を抜いて私に身を任せて・・・」
自然と体から力が抜ける。青蓮の声が心地いい。いつまでも聞いていたい。
(私だってずっと一緒に居たいのに、いつかずっと一緒に居られるようになるのかしら)
「愛しているよ、瑠璃。さぁ、行っておいで。私はいつでも待っているから」
そっと目蓋に口づけをされる。急激に意識が深く深く落ち込んで行くのを感じ、そこで私は意識を手放した。
YYYY年 MM月 DD日 木曜日