闇月夜 −月下草シリーズ03−
ちょうど時がA.M.からP.M.に変わる頃、そろそろ昼飯だ、と皆がそわそわしだす頃に、突然僕の携帯が着信を告げた。
~メ〜ルがきたで〜 メ〜ルがきたで〜 メ〜ルが…~
ぷつり
「……」
昨夜カノジョがふざけてダウンロードしていた着メロだ。いや、「着ゴエ」だ。どこか間延びした関西弁の男声が、机の上でバイブしてびりびり音をたてる携帯のメールの着信を告げる。
……着信音を低音に設定しておいて正解だった。いや、本当は音自体切っておいたほうがよかったのかもしれない……
音を止めた携帯を手にしてこっそりと周囲に視線をやるが、幸いこちらを見ている者は誰もいない。仕事中だから…というよりも多分、皆、もう慣れっこになってしまっているんだ。いきなりの着メロに。それが多少突飛なものであっても皆、もう気にもとめないようになっているのかもしれない。
何はともあれほっとした僕は改めて携帯に視線を戻した。届いたメールの送信者は見慣れたもので。開いたメールの内容も半ば予想通りのものだった。
『今夜月見酒に付き合いなさい』
相も変わらずのマイペースぶり。
僕は不快に思ってもいいはずであったが、湧いてくる感情は苦笑い、であった。
「…はいはい、御付き合い致しますよ」
苦笑に口許を歪ませながら、僕の指は返答のメールを打ち始めていた。
***
月を見るのが好きだった。
日々刻々変わるその姿から、静かに瞬いて熱の無い光を放つその姿から、目が離せなかった。
それは今も変わらなくて。
変わったのは私の中に蓄積された観察記録と私が向ける眼差しの意味。
「どうして私、あんな人好きになったんだと思う?」
「これほど不毛な質問ってないわね。私に分かるわけないでしょ?」
いつか悪友に尋ねてみたらそんな答が返ってきた。
いつも頼もしいその漢らしさが、そのときはちょっとだけ憎らしかった。
月を見るのが好きだった。
正確に言えば月が好きだったからいつでも見ていた。
彼のことが好きだったから、見ていた。もっとずっとよく彼のことが知りたくて。
そう、ただ知りたかったんだ。もっとたくさん。
「…月は見えますか?」
静かな靴音とともに顔を見せたマスターが静かに微笑んだ。
「生憎とね。今日は新月だわ」
「あれ、そうでした」
振り返った私の答えにマスターが目を瞠って視線を上に向けた。
「…珍しい。ムーナーのオーナーが月齢を忘れるなんて」
私の笑みを含んだ声にマスターは照れたように笑った。
「…いやあ、確かに昨日までは覚えていたはずなのですが。どうしたんでしょう。そういえばサイさんが月見に来たのですっかり忘れてしまったような気がします」
そんなマスターの年齢不相応な照れ笑いの可愛らしさに私は更に笑いを誘われる。
くすくすと笑っている私に、マスターが一つ咳払いをして表情を整えると尋ねてきた。
「それで、お連れ様が見えたらそのままここへお通しすればいいんですよね?」
「うん、お通しして頂戴。どうやらこの様子じゃ残業でも押し付けられたみたいだけど」
妙に神妙な言葉遣いをするマスターだけど、その目には悪戯っぽい色がちらちら揺れている。答える私もくすくす笑いが止まらない。
「それでは…」
一礼して階段を下りていこうとするマスターの背中に、私は付け足す。
「あ、多分その後もう一人来ると思うから。それもよろしく」
「もう一人、ですか?」
振り向いたマスターに頷いてみせる。
「うん、……こっちはちょーっと遅くなると思うけど。…大丈夫?よね?」
少しだけ不安そうな視線を向けるとマスターは笑って軽く頷いた。
「大丈夫ですよ。ここは月に支配された空間ですから」
そう言うともう一度マスターは軽く頭を下げて今度こそ階下へ下りて行った。
その背中を見送ってから私はゆっくりと視線を上に向けて、そしてゆっくりと下ろしてゆく。
地上のネオンの照り返しが淡いもやのように中空に漂っていた。
***
すっかり夜の闇に包まれた町を、僕は急ぎ足で歩んでいた。
時間の指定された約束ではなかった。しかし普段よりも遅い時間になったのは確かで、なるべく早く目的地に着きたかった。
正規の終業時間は午後5時。それから片付けや身支度などをしていれば大抵会社を出るのは五時半を過ぎる。
それでも今日は約束があるからできるだけ早く帰ろう…と五時前からそろそろと机の上の整理などを始めていると、斜め後ろから満面の笑みを浮かべながら(見なくても分かる)分厚い書類の束を差し出された。
「えーと、これ、今日中ね。できたら課長に判もらっといて」
さわやかに(はっきりゆって顔に似合っていない)言ってのけると返事を返す暇も与えず颯爽と去って行く足音(はっきり言って体型に…<しつこい)。大体今日中って何だ?もう午後4時47分だぞ?この会社の終業時刻は何時だ?
…わかってはいるのだ。こんな正論、会社勤めのサラリーマンにとっては常識ではないことを。そしてこんな疑問を何度繰り返したって意味なんてないことも。
わかってはいても毎度のことながら高速で脳裏をよぎる文句をやり過ごして、僕は書類を一束取り上げた。
そんな数時間前のことを思い返しながら歩く僕のポケットの中で携帯が震え始めた。取り出して液晶画面を確かめて、耳に当てる。
「…どうしました?」
***
彼のいるところはすぐにわかる。彼はいつも夜の香をまとっているから。
彼のいるところはすぐにわかる。月は昼にも天にあるのだから。
それは見ていたから、知ったこと。
知っていったから、わかったこと。
町で見かけたあなたは笑っていた。
見たこともないほど、屈託のない表情で。
見上げた真昼の空に白い月。
わかってしまった。それはずっとあったのだということ。
ただ、私に見えなかっただけで。
だから。
「ああ、こういうんを振られたっていうんかなあ」
――何言ってんだか。
「ちゃんと告白すりゃ、よかったなあ」
それで何か変わってたかなんて分かんないけど。
少なくとも、後悔の量は少し少なかった、かな?
あなたが幸せに笑えることが、私には予想外に幸せだった。
……間違いなく心は痛んでいたけど。
「……なのに、何やってんの、あなたは」
愚痴ることぐらい許されようというものだ。
いじ虐められることだって、少しぐらいは覚悟してもらわなければ。
「おう、お疲れさーん」
靴音に振り返って、現れた顔にひらひらと手を振ってみせる。
「すいませーん、残業おしつけられちゃってー」
急いで来たのだろう。わずかに息が上がっている。謝る必要もないのにぺこぺこ頭を下げているから、こらえきれずに笑ってしまった。
***
ひとしきり馬鹿話などしてふと話題が途切れたとき、つい訊いてみた。
「ねえ、サイさん」
「んーー?」
「カンさん、誰か好きな人、いるんですか?」
思った以上に直球を投げてしまった。
「…彼女じゃないの?」
対するサイさんはちらりと視線を寄越しただけで、あっさり答えた。
「そういうことじゃなくて。他の人じゃないかって。他に好きな人、いるんじゃないかって」
元が僕自身の言葉じゃないから、キレの悪さは僕自身認めるところだった。
「って彼女が言ってたの?」
「って高野さんが言ってたんです」
あっさりとカノジョからの情報であることをばらす。というか、それ以外どうしろというのだ。
「全て推測ね」
くす、と笑うサイさんに少し食い下がってみる。……認めよう。少しは僕も興味があるのだ。
「でも疑うにはそれなりの理由があると思いませんか?しかもそれを理由に別れる、とかいうことになるんなら」
言ってから、少し説明が必要なことに気付き、慌てて付け足す。
「カンさんたち、別れたんだそうです。昨日とか言ってました。でもその少し前からどうやら高野さん、彼女の相談にのってたみたいで。…でもなんか、駄目だったみたいで。…そういえばサイさんは何も聞いてないんですか?」
「…と言われても。私は彼女とあんまり面識ないのよ?」
言ってサイさんは軽く肩を竦めた。そういえばそうだ。サイさんとカンさんの彼女は数回しか会ってないはずだった。それに普段のサイさんはとても忙しい人だ。相談にのってもらおうにも遠慮してしまうかもしれない。
「…それにしても。ばかねえ、あの人も……いっつも逃げられちゃって。ちゃんとつかまえとかなきゃ駄目じゃない」
かなり語弊があるような気がしたがとりあえず笑ってごまかす。
「…いいかげん、幸せになんなさいよねえ…」
「え?何か言いました?」
「んーん?あほやなあ、って」
「……」
カンさんこと菅田千尋さんは僕やサイさんの先輩で、僕のカノジョ、高野みづきと同年の人だ。しかしサイさんの口調ではどちらが年長なんだかわからない。
「それにしても、何で今夜だったんですか?」
「何が?」
「月見が、ですよ。今日は見事な新月じゃないですか」
至極もっともなはずの僕の言葉を、サイさんは笑った。
「月はあるわよ。ただ見えないだけ」
目を細めてサイさんは天を仰ぐ。とても柔らかな表情で。…何故だかとても愛おしげな表情で。
――まるで恋をしているもののような表情で。
「サイさんって絶対に振ることはあっても振られるってことのない人ですよね」
思わず洩れた僕の言葉に、サイさんが眉を顰めながら振り返った。
「…何よ?突然。どーゆー意味?」
訝しげな視線で見つめられて、僕はどきりとしながら慌てて弁明した。
「いや、スイマセン。ついさっきの会話の続きで」
なぜだかやたらとどぎまぎしている僕に、サイさんがふっと笑った。
「そーゆーあんたは尽くして尽くしてすっごい好きなのに相手から突然別れを告げられるタイプよね」
言って、にやりと口許を歪める。その表情はいじめっこのものだった。
「〜〜〜!!」
そして術中にはまっているとわかっていていつもかかってしまうのも、僕。
「がんばってみづきさんつかまえときなさいね」
「……まじで縁起でもないこと言わないでください…」
カウンターアタックでクリティカルヒット。敗北を認めて僕はがっくりと肩を落とした。
「…あの人もねえ、ばかな人なのよ」
ふいにサイさんの口調が変わったような気がした。僕が目を上げるとサイさんは片膝立てた上にグラスを持った腕を乗せて、僅かに視線を落としていた。
「強がって、かっこつけて。甘えるのもすがるのも下手な人。いつも自信がなくて。……本当はすごく優しいくせに」
「…はあ」
誰のことですか?とか。訊きたいことは山のようにあるのだけど。とりあえず今は何も訊けないと思った。
「突っ張っているくせに、ほんとは支えがほしくてしょうがないのよ」
「はあ…」
「おまけにロマンチストだしね」
「……」
「そのくせプライド高くって」
「…」
「癒されたいって思ってるくせに、そのせいでいつもうまくいかないのよね」
「ほんとに…ばかな人」
言って、サイさんはそっと目を伏せた。
「サイさん?」
「……」
「サイさん」
「…何?」
「サイさんは、どうなんですか?」
「………」
***
「んじゃ、そろそろよぼっか」
「は?」
「ほら、一人で淋しいだろうしさ、今」
言いながら既に携帯を操っている私に、しゅうちゃんは呆れ顔をする。
「…最初からそのつもりだったんですか?」
答えるつもりはない。きっと言ってもわからないし説明する気は更にない。
だって私の気持ちなんて、説明したってわからないものなのだから。
…何しろ私自身にも説明し難いのだから。
私は女だから。思うところは複雑なのだ。ひとことで言えば。
恋をしているなら。その人が好きなら。
疑うなら疑えばいい。そんな状況が嫌なら質せばいい。それが嫌なら受け入れるしかない。
結局他人同士分かり合うには限界がある。人それぞれ歴史も事情もあるし。でもそれを抱えて一緒にいるのがカップル、ってやつじゃないのだろうか。どんなに願ったって過去を書き換えるわけにはいかないのだから。
つまりは彼女には受け入れる心も必要だったんじゃない?と思うわけだ。少なくとも彼は彼女をその理由で拒みはしていなかったんだから。
まだ彼が受け入れている心があるのに自分からその関係を断った。それは彼女の度量だし決断だと思う。結局それまでの関係だったってことだろう。
もちろん彼にも配慮は足りなかったと思うけど。
もし本当に彼が他に好きな人を心に持っていたとして、でも他の人を愛そうと決めたのなら、その人を不安にさせちゃいけない。心を隠してでも。
そういう道を選んだのなら、ね。
本当、いいかげん、賢くなってほしいと思う――そういう道を選んだんだから。
***
「結局サイさんとカンさん、どういう関係なんですか?」
「不毛な関係よ。ひとことで言うとね」
その至極あっさりとした言葉にさすがに声をなくす僕の前で、唐突に軽快な着メロが響きだす。サイさんは予測済みの素早さで携帯を取り上げた。
「はい?……ん、そう。待ってる。じゃね」
あっさりと通話を終えたサイさんが僕を見て、そしてにっこりと笑ってみせた。
意外に子供っぽくて、だけど間違いなく大人の女性で、毒があって、それでいて限りなく純潔で。
そんな表情を見ていたら僕は何も言えなくなってしまった。
見上げた先には雲ひとつない漆黒の闇月夜。
都会の喧騒を遥か足下に見るビルの屋上。金網に囲まれた狭いその場所は「Mooner’s Bar」の臨時出張営業空間。
ふと視界の端を何かがよぎったような気がして振り向いた。そこには何もなくてただ薄靄がかった都会の夜景が広がっているだけ。漆黒に青や黄色のネオンが滲んで。ふと僕に揚羽蝶を連想させた。




