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傷むは雨

作者: 手未詞

 森羅万象を不安で包み込むかのような闇が広がっている。

 窓の外からは、地を打つ雨音が、その不安を掻き立てるかのように絶え間なく響いてくる。この空間において生命を感じさせる物体は、懐中電灯の明かりと、一定のリズムを刻む俺の足音のみだ。

 俺は懐中電灯を腕に巻かれたデジタルウォッチに向け、時刻を確かめる。午後六時ちょうど。冬のこの時刻、ましてや今日のような悪天候ならば、丑三つ時と比べ闇の深さにさしたる違いなどない。

 俺は沈黙の中の周囲を見渡す。それにしても、闇夜の中の校舎ほど不気味なものが、他にあるだろうか。不気味を通り越して、滑稽ですらある。それはきっと、数え切れないほど多くの人間たちが、この空間で時を過ごしてきたからであろう。壮健な者も、死した者も。

 外から、何か良くない知らせを告げるかのような光が届いてきた。俺は刹那、目を伏せる。それに続いて、一呼吸するか否かの間を挟み、耳をつんざくような雷鳴が俺の鼓膜を震わせる。不愉快な音は数秒続き、消えていった。しかしそれとは対照的に、光は、一瞬でどこかへと去って行く。すぐいなくなるくらいなら、最初から姿を見せないでほしい。君は、全てを照らし、あの恍惚を垣間見せた責任をとってくれるのか? ふと、俺はそんな事を考える。

 便所から戻り職員室に入った俺は、おやと思った。中庭を挟んだ向かいにある教室の電灯が付いている。二年C組の教室だ。もうとっくに放課の時刻だし、今日は天候が天候だからどこの部活も活動していない。こんな時間まで生徒が居残っているとしたらそれは不自然というものだ。俺の机は中庭に背を向ける形で置かれているので、そのことに今の今まで気付かなかった。雨は一層強さを増している。放っておくわけにもいかない。やれやれと思いつつ、俺は再び職員室を出た。

 つい先ほど帰路に就いた同僚の教師も、見落としていたのだろうか。はたまた、気付かないふりをしていたのだろうか。人間は見て見ぬふりが上手い。それは、俺が高校教師になって最初に学んだことだ。

 俺は件の教室の前に立った。暗闇の中に光があるのは、かえって不気味だ。そこ以外、何も見えていないという事を思い知らされるからだ。

 一瞬躊躇したが、俺はその扉に手をかけ、横に引いた。ガラガラという単調な音が、俺の心の奥底を激しく刺激する。否、その刺激の正体は、視界に入ってきた少女の怯えたような表情だ。窓際最前列には、女子生徒の北村葉月が座っていた。


「……びっくりしたあ。曾根田先生か。静かだな、って思ってたらいきなり足音がしたから驚いちゃったよ。……え? もうこんな時間! そりゃあ見に来るよね、教室の電気付いてたら。……ねえ、先生は何してたの?」

 先ほどとは打って変わって快活とした表情を俺に向けた北村は一気にしゃべり始めた。そのことが俺を安堵と、恍惚とした緊張が入り混じったかのような、複雑な心境に追いやる。

「ああ、先生は書類整理をしててな。ところで、こんな時間まで北村は何をやっていたんだ?」

「あ……。ちょっとこれを……」

 俺は北村が指差した、机の上に置かれた便箋に目をやる。内容を流し読みしたところ、どうやら手紙のようだ。稚拙な文章が、延々と紙の上に続いている。本当なら国語教師として文章指導でもしてやりたいところだが、手紙の相手が誰であるか、また、その意図せざるところを容易に想像できるので、それをすることはしなかった。

「金井への、手紙か」

「……うん」

 金井真奈美は北村にとって、同じ二年C組のクラスメイトであり、それ以上に親友だった。

 共に吹奏楽部に所属し、クラスのムードメーカ的存在であり、成績も優秀で教師からの評価も高かった二人組。しかし、ここ一カ月ほど、金井は学校を欠席している。

 母親からの報告によると、しばらく前から、金井はストーカー被害に遭っていたそうだ。

 初めのうちは、部活帰りの夜道を誰かにつけられていたそうだ。それを恐ろしく思い、帰りが遅い日は母親が送迎することになった。すると今度は、郵便受けに言葉にもできないほど酷い内容の中傷ビラや、精子の入ったコンドームが入れられるようになった。初め金井はそれに耐えていたようだが、ある日を境に、パタリと学校に来なくなってしまった。自分の中にある大切な糸が、些細な拍子に、プツリと切れてしまったのであろうか。

 さらに悪いことに金井がストーカーに遭っていたという噂はすぐさま広まり、しかも金井の味方をする生徒は、皆無であった。元々目立つ存在だった彼女の事を快く思っていなかったグループが、ここぞとばかりに不満を爆発させ、多くの無害な生徒を巻き込んだからだ。

 また、そのグループは、金井がストーカーに遭っていたなんていうのはただの虚言なのではないか、と言い始めた。しかしこれに対しても、金井を擁護しようという声は上がらなかった。それはその話が全く信憑性のないものでもなかったからだ。何故か。それは、金井が、誰かに理不尽な恋心をもたれるほど容姿がいいとは、お世辞にも言えなかったからである。


「ずっと、その手紙の文章、考えていたのか?」

「……うん。そうしたらね、知らない間にこんな遅い時間になっちゃったの。雨もすごいことになってるし。ああ、どうやって帰ろうかな……」

 きっとこうして金井のことを思いやっている生徒は、北村ただ一人だ。正義とは常に多数決で決まるものである。誰かが誹謗の対象となることを善とするかどうかは、倫理や道徳心で決まらない。善意なんてこの世に存在しない。もしあるならば、人間の心がこれほどまでに揺蕩うはずなどない。

 俺は北村の、芯の通った、精悍な瞳を見つめる。その眼に一切の恐れや迷いはない。北村は、外出に着ていく服も決められないようなそこらの小娘とは違う。彼女は人の生死を、朝食の卵をどのように調理するか程度の気軽さで決めてしまうだろう。そんな強さが、彼女の肝には備わっている。


「北村。もしよかったら、先生の車に乗っていくか? ちょうど先生も帰ろうと思っていたとこだったんだ」

 俺は無意識のうちに言葉を紡いでいた。今夜の仕事はまだ残っている。しかし北村を送った後、また学校に戻ってくれば問題はない。

「えー、いいよ先生。へーきへーき。サイアク、走って帰ればいいし、だって、私の家、学校から徒歩五分だよ。まあ、先生は知らないと思うけど」

 知っている。しかし、それを口に出してはいけないことも、俺は知っている。

「そうは言っても、今日は人通りも少ないだろ。一人は危ない。それに、近いからこそ、先生にも迷惑はかからないというものじゃないか」

「……うん」

 北村は釈然としない態度を向けてきた。何事かを思案しているようだ。と、彼女は立ち上がり、窓に顔を近づけ、外を覗き込むような体勢をとった。天気は相変わらず荒れている。俺の眼は、窓に映った北村の表情を捉えている。彼女は憂いを帯びた子猫のような、あどけない表情をしている。あどけない、という言葉は便利だと、つくづく思う。単なる餓鬼の馬鹿面との、明確な違いを表現できるからだ。


 北村は、体を外に向けたまま、言った。

「ねえ、先生。恋って、しなくちゃだめなの?」

 俺は一瞬、言葉に詰まる。が、問い返した。

「……どうして、そんな事を聞くんだ?」

「私ね、今は真奈美と親友だし、世界一大切な人だと思ってる。でもね、もしだれか男の人を好きになったとして、その人に夢中になって、周りが見えなくなっちゃったとして、そうしたら、真奈美の事を大切だと思えなくなっちゃうかもしれない。私、真奈美と心が離れるなんてゼッタイに嫌。だからそう考えると、恋ってあんまりいいことないんじゃないかって思っちゃうの。……ねえ、先生はどう思う? 恋っていい?」

 おれは心の底から咆哮したいのを懸命にこらえた。なんということだ。もし「正常」と「異常」の間に明確な線引きがあるとしたら、俺と北村の間にその境界線があることは、もう疑いようのない真実ではないか。「正常」の側にいるのが俺なのか、北村なのか。「異常」の側にいるのが北村なのか、俺なのか。それは分からないし、分かりたいとも思わない。重要なのは、隔たりがあること、そして、その隔たりが不確かな割に強固であるということ、その二点のみだ。

 俺は平静を装い、北村の問いに答える。

「恋はな、自らを賢くする」

「ふーん。どんなふうに?」

「大切だと思っていたものが、ただの虚像だったということに気付くんだ。友情なんて、見栄が寄り集まっただけのものだと気付く。地位は欺瞞を積み重ねた集大成に過ぎないということを知る。時間は消費するためだけにあるのだと学ぶ。……どうだ。どうせ一度きりの人生だ。楽しく生きたいとは、思わないか?」

「……よく分かんないけど、先生の言ってること、変な気がする」

「分かるさ、俺の言っていることが、どういう意味なのか。近いうちに、必ず」

 北村は不安そうな、困惑した表情を浮かべている。そうだ、強いだけでは駄目なんだ。もっと、もっと、もっと悩め。この世は、美しいものと汚らわしいものの二つがあるから成り立っているのだということを、悩み、自ら体感せよ。そうやって、さらにお前は美しくなる。


「あ、雨、止んでる」

「……え?」

 北村の言葉に反応し、俺は彼女の隣に立ち外を見やる。確かに、神の恋水が如き雨は収まり、辺りは静寂に包まれている。

「じゃあ、私もう帰るね。先生、バイバイ。また明日。」

「あ、ああ。じゃあな……」

 俺は颯爽とした彼女の背中を茫然と見つめる。ふと彼女は何かに気付いたかのように教室の扉の前で立ち止まり、こちらを振り返り、言った。

「先生、辛いからって、あんまり抱え込んじゃ駄目だよ」

 そう言うと、彼女は扉に向き直り、それを静かに開け、廊下を駆けて行った。校舎中に、その足音が響き渡った。


 どうして、伝わらないのだろう。俺は抱え込んでなどいない。授業中、熱心にノートを取るお前を見ては発情しているし、毎晩お前を想い、涙している。俺はお前のために生きている。

 俺は毎晩、小さな椀に俺の恋水を溜めている。そして、俺の頭の中では、北村がそれを尊ぶように飲み干しているのだ。それを飲み干した北村の舌は痙攣を起こし、彼女は味覚を狂わせる。彼女の味覚は、生涯、元に戻ることはない。だから彼女は、いつまでも忘れずにいるのだ。自分のことを確かに愛していた男が、確かにいたということを。

 何が、俺と北村を隔てるのだろう。教師と、生徒という、ただそれだけの違いだろうか。両者は同じ人間で、同じように空腹を感じ、同じように呼吸をし、同じように笑い同じように泣き、同じように他者を愛す。これだけ同じだというのに、どこに不備があるというのだ。

 俺は同じ人間を愛した。それなのに、俺と北村の住む世界が違う。俺は不埒な思いを一切もたず北村を愛している。俺にとって北村は特別だ。だから、北村にとっても俺が特別な存在であってほしいと思う。そのために俺は親友を酷い目に遭わせた男という立場に立とうとしたのだ。北村から見た、ただ一つの立ち位置を俺が独占するために。

 最近では、いっそストーカーの犯人が俺であるということを北村に打ち明けてしまおうかと思っている。そうすればきっと、俺にとって北村がそうであるように、北村にとっても俺が一生忘れられない存在となるのだろう。俺の存在が北村の心の中で印となって刻まれる。それも悪くはなさそうだ。


 俺は窓から、雨の上がった夜空を見上げた。この漆黒は、俺の心を蔑んでいるのだろうか。はたまた、俺の心そのものなのだろうか。

 きっと俺は、今までと変わらぬ悶々とした日々の中で、その答えを見つけるのだろう。

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