大人のコンテンツとしての夏目漱石
漱石の「門」を再読している。何度読んだかわからないが、「門」は漱石作品の中でも特に好きな作品だ。
「門」を読んでいる途中で、私は思わず(漱石は大人だな)と嘆息してしまった。
現代の日本において、「大人」向けのコンテンツは皆無だ。「いい大人が漫画なんか読むな」などと言えば「老害!」と怒られるのが目に見えている。日本が世界に誇るトップ企業が任天堂というのが象徴的だが、この国には子供向けのコンテンツしか存在していない。四十になっても五十になってもガンプラをいじっているのが理想とされている。
それでは大人というのは何だろうか。
…さて、ここまでの段階だと、私が「大人」を持ち上げ「子供」を批判しているかのように思われるだろうが、実際には「子供」が悪いわけではない。私も未だにゲームばかりして遊んでいる。
私は「子供」が悪いと本気で思っているわけではない。ただ「大人」向けのコンテンツというのがどこを見渡しても見当たらないのは異常事態だとは思っている。これは本当に今の日本にほとんどない。
私が漱石の「門」を読んで(大人だな)と感じたのは、「門」という小説において、主人公夫婦が自分達の宿命を生きているからだ。自分達の暗い運命を受け入れて生きているからだ。
これは諦念とも取れるが、大人の知恵とも言える。まあ、どちらの言葉で言っても同じだが。
「門」は不倫の末に結ばれた夫婦の話だ。主人公の宗助は親友・安井の妻の御米を奪い、結婚する。二人は不倫の烙印を押され、社会から追放される。二人はつつましく、日陰で幸福に生きるはずだったが、些細な偶然をきっかけに安井の影が差す…というのがストーリーとなっている。
誰でも気づく事だろうが、「門」の夫婦は、崖の下の日当たりの悪いところに住んでいる。これは二人が不倫行為をして罪を背負っている事の象徴となっている。
「門」という小説はあらゆるところにこの宿命の影が差している。なんでもない描写、例えば、宗助がぐらついた歯を歯科医に抜いてもらうシーンがある。この時、歯科医が歯を抜かなければならないと宗助に宣告するのだが、これに対して
【宗助はこの宣告を淋しい秋の光のように感じた。】
という行が続く。これもまた漱石の象徴的な技法であり、単なる抜歯の話でも、宗助夫婦の暗い運命を暗示するものとなっている。
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私が(大人だな)と思うのは、このような暗い運命を宗助夫婦が自覚しながらも受け入れて生きる姿が克明に描かれているからだ。
運命とか宿命とかいった言葉は現代では死語となっている。何故だろうか。
私が思い出すのは、広瀬すずというタレントが昔に炎上したある件だ。なかなかに面白いので引用させてもらおう。
【MCのとんねるず・石橋貴明から「テレビ局で働いている照明さんなんか見るとどう思うの?」と聞かれると、「どうして生まれてから大人になった時に照明さんになろうと思ったんだろう?」と回答。続けて、音声スタッフについても「なんで自分の人生を女優さんの声を録ることに懸けてるんだろう?と考えちゃう」「大人になって年齢を重ねると共に、本当に…声を録るだけでいいの?」と語った。】
(2015-06-19 22:42オリコンニュース 広瀬すず、“スタッフ軽視”発言を謝罪「軽率な発言がありました」より)
この発言は広瀬すずという女性タレントが17歳の時の発言だ。
私はこの件が報道された時(まあ、17歳だったらそう思うよな)と思った。いかにも十代が考えそうな事なので、私は少しも変と思わなかった。
広瀬すずの件は十代の若者が考える事としては極めて真っ当というか、普通の思考回路だと私は思う。しかし、こうした人物は本来、大人になるにつれて自分の過ちを知らなければならない。そしてその過ちを知る事が、「大人になる」という事なのだ。
しかし私の予想では広瀬すずは大人になれないだろう。というのは彼女は人気タレントという立ち位置であり、周囲からはちやほやされるだろうし、そういう人間に自己を反省するのは難しいからだ。
こうした事は広瀬すずに限っているわけではない。私達の周りには「可能性」が満ち溢れている。
我々は「夢・可能性・将来」という考えを当たり前のように受け入れている。若い女がパパ活するのは何故だろうか。金を得て幸福になりたいからだ。中年の男から金を得て幸せになりたいからだ。
十代の若者が殺されてしまうと、テレビは決まって、「若い子が殺されて夢や希望が絶たれた」という報道を行う。卒業文集を引っ張り出してきて、「将来はパティシエを目指している若者でした」といった報道をする。あたかも、全ての若者が夢を持っていなければならないかのように。
我々の可能性というのは何かといえば、欲望の成就の可能性である。それはいつか必ず叶えられる、という暗示、そうした幻想が我々を支配している。成就が無理であるとなると絶望し、社会的にも不満分子となり、危険なので、大衆には夢という餌を与え続けなければならない。
このようなシステムが資本主義社会の根底にあるのは言うまでもない。我々は可能性の海の中に生きている。可能性が消えた途端、絶望に陥る。この絶望に対してはどんなフォローもなされない。こうした人々にはまた新たな可能性を供給するだけだ。
このような社会においては、タイトルに置いたような「大人の為のコンテンツ」が皆無なのはごく簡単に納得できるだろう。
私の考える大人とは、この世界の中で自分は神でもなく、ただの人間であり、限定された存在であると知り、しかしその限定の中で自らを精一杯生きる、そのような存在の事だ。
しかしこのような「大人」は、可能性という夢を断念している。それ故に、この社会には必要とされていないのである。
誰しも「大人」になれば、自らが限界づけられた存在と知らざるを得ない。我々はあるところで可能性を断念する。そうして世界の中での自分の立ち位置を受け入れる。
大人になった「私」は、若い頃夢見ていたスターになれなかった。私は大人になり、ただの「私」になった。「私」とは実在の私である。
大人になるとは、若い頃見ていた理想の姿と違って、世界のほんの一部分でしかない存在になるという事だ。我々の意識は絶えず我々を絶対的な存在へ導こうとするが、それによって実現するのは世界の一部分としての我であり、相対的な存在としての「私」でしかない。
この事は、今で言うと大谷翔平のようなスターにおいても、例外ではない。
原理的にはたとえ大人になって「夢を叶えた」としても、若い頃に見ていた「夢の中の私」と「実在の私」には大きな開きがある。これは根源的な違いであり、それを乗り越える事は不可能である。
しかし現代においては、こうした夢や理想を打ち砕く事は、人々の「可能性という宗教」を毀損する行為なので、禁忌とされるのである。大谷翔平を批判すると叩かれるのは、過去の社会でキリスト教を批判して牢獄に入れられるのと大差ない。いつの時代でも人々の信仰を挫くのは罪とされる。
こうした社会で大人になるとは、自らの可能性を断念し、夢を放棄し、現実の自己を受け入れる事だ。
「門」の夫婦もまた、自分達の行為によって現れた宿命を引き受けようとしている。
漱石は自分を水陸の両棲生物にたとえている。これは漱石が明治維新以前の江戸時代の倫理観と、明治維新以降の近代的な価値観の両方を自分の中に持っている事を意味している。
江戸時代、封建社会の倫理とは、それぞれが自らの固定的な身分を生きる事を運命として捉えなければならないという事であり、また明治維新以降の近代的価値観とは現代の我々にも通じる、主体の欲望の主張に他ならない。
「それから」以降の漱石の作品はこの二つの矛盾した価値観が統一されたものとなっている。
「門」で言えば、夫婦は自分達の恋愛という欲望を主張したのだが、それ故に一人の人間を犠牲にした。夫婦はそこから発生した自分達の暗い運命を自分達のものとして受容しなければならない。恋愛という形の欲望の主張に近代的な価値観があり、運命の受容に封建社会の価値観が現れている。
このような漱石の作品は、現代においては真の「大人」が読む為の作品として辛うじて無数のコンテンツの中に保存されている。
それと比べると、村上春樹の小説は最初から欲望の成就が成される事が「運命」として決定されているという構成を取っている。
「ダンス・ダンス・ダンス」に象徴的だが、村上は最初から欲望は成就される事を決定しており、そこから逆にその欲望の成就をドラマチックに見せるために、中途の過程にいくつかの障害物を置く。
この人工的な障害物が村上やその読者にとっての「冒険」なのだが、これは言ってみれば本物の自然の厳しさに向き合うのではなく、達成される事が前もって予定されている人工のアスレチックのようなものだ。
しかし、現代の我々は、自らの欲望は成就可能だという夢を与えられて生きているので、村上の作品は魅力的に見える。
そうした観点から見ると、我々が理解できるのは漱石の作品においてはその半面でしかない、という事になる。残りは半月のように闇の中に隠れている。隠れた半面は、我々が人生を生きる中で、人々との価値観の共通性を破棄して、それぞれの孤独の中で掴むしかないものだろう。
幸いにも(不幸にも、と言うべきか)、現代の日本は村上春樹がベースとしていたような総中流、経済成長していくたくましい日本ではなく、経済格差によってそれぞれの運命がはっきり照らされるような社会状況となっている。
このような状況では各人が自らの人生の限界を認識し、その宿命をはっきり理解する事も不可能ではないかもしれない。そのような場合に、漱石の「門」のような作品を読むとおそらく、しみじみと愉しく読む事ができるだろう。
この愉しみは、はしゃいで喜ぶ子供の喜びとは違い、人生の苦味を十分に味わった大人だけが可能な、深く染み入るような喜びであるはずだ。




