3.駄犬との再会
私の問いかけに、殿下は目をぱちくりと瞬かせた。
そして何を言われたのかをようやく理解したのか、みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げる。
「……今、何と申した? まさか貴様、フィオナの従者の立場でありながら、この私を犬呼ばわりしたのか!」
「ああ、そうだ。忘れたとは言わさんぞ。貴様の尻拭いは数知れずといえど、まさかこんなとち狂った真似を仕出かすとはな。……やはり躾が足りなかったようだな、この馬鹿犬が」
額をペチンと叩く。
王子相手に不敬も甚だしい所業だが、呆気にとられたアインはしばらく黙り込み――やがて、ぽん、と手を打った。
「……その嫌味ったらしい物言い……お前、まさかあのツヴァイか? 魔王様に共にお仕えした……"理を断ち切る邪眼のツヴァイ"?」
「そうだ、やっと思い出したか。……それはそれとして、二度とその二つ名で呼ぶな」
あれは人間どもが勝手につけた呼び名である。そもそも邪眼なんてものは持っていないし、あまりのセンスのなさに当時から辟易していた。あいつらにだって何度こうしてからかわれたことか……!
やり場のない羞恥を噛み殺しつつも、互いの正体を確認した途端、アインを纏う空気が変わった。
四天王のひとりにして、魔王様の忠実なる犬・アイン。
ご覧の通り頭の出来はお察しであるが、獣人の中でも群を抜く怪力を誇り、その腕力にかなう者は魔国広しといえどほとんどいなかった。
魔王様の理不尽な命令に振り回され、しょっちゅう飯抜きの刑に処されていた――いわば、"可愛がり被害者"の筆頭でもある。
それにしても、まさか同じ世に転生していたとは。しかも氷の王子にだと? 私は一介の従者にすぎんのに、アインのくせに生意気すぎやしないか?
「……フィオナから魔王様と同じ匂いがした。まさか、もしかしてフィオナは……」
「そのまさかだ。……フィオナ様は、魔王様の生まれ変わりだ」
明快な回答に、アインの顔がみるみる青ざめる。
「なんてことを……俺はなんてことをしてしまったんだ! あんなにたくさんの人間の前で魔王様に恥をかかせたなんて……殺される……!」
「ようやく自分の所業を理解したか。だが命拾いしたな。フィオナ様には魔王様としての記憶は残っていないご様子だ」
「つまりそれは……俺の命はまだ大丈夫ってことか? ……飯も食えるのか?」
氷の王子が飯の心配をしている……。
諸国からも一目置かれる存在だったはずなのに、前世の記憶に引っ張られすぎて、思考も言動も完全にアホ犬のそれになってしまっている。これはこれでこの国の未来が心配になるが、優秀な第一王子がいるから……まあ、多分大丈夫だろう。
「飯の心配よりこの世界の心配をしろ。魔王様としての記憶が甦ったらどんな混沌に陥るか分からんのだからな。……いいか。お前も平穏を望むのなら、協力するんだ」
魔王様がこの世界を蹂躙する光景でも想像したのか、アインはぶるりと身体を震わせ、ぶんぶんと何度も頷いた。
「わ、分かった! でも、俺は何をすればいいんだ?」
「フィオナ様の機嫌を損ねるな。そして婚約解消も撤回することだ。今すぐにな」
「それは嫌だぁ……! なんでフィオナのことがあんなに怖く感じたのかは分かったけどさ! 俺はただ、心の安寧が欲しかっただけなのに!」
「諦めろ。安寧など、魔王様に仕えると決めた時点で有り得ん話だ。私たちが前世の記憶を持つのもなんらかの影響に違いないのだろうが……貴様も仮にも今は王子だろう。この世界の平和を守るためにも、責務を果たせ」
そもそも、あんな恥をかかせたままではフィオナ様の将来に傷がついてしまう。
強く言い聞かせると、駄犬は頬を引きつらせながらも力なく頷いた。
そして再びアインを引っ立てて大広間に戻ると、彼は集まった生徒たちの前に堂々と立ち、フィオナ様へと深々と頭を下げた。
「先ほどの件は、俺……いや、私の未熟さゆえの――その……マリッジブルーだった! 婚約解消は撤回させてほしい!」
会場が一瞬にしてざわめきに包まれる。
生徒らが混乱する中で、フィオナ様だけは穏やかに微笑み、柔らかな声で告げた。
「ええ、もちろんですわ。……ふふ、アイン様の人間らしい一面が垣間見えた気がして、少し安心いたしました」
その声はまさしく女神のように慈悲深く、つられるように周囲の空気もふわりと和らいでいく。
……そう。前世が傲慢の権化であったとは思えぬほど、今の彼女は慈愛に満ち溢れているのだ。
だからこそ守らねばならない。
この世界と、あの清らかな笑顔を――。
……一方のアインはといえば。
「次は許しませんよ」と言いたげな圧でも感じ取ったのか、涼しい顔を装いながらもその身を小刻みに震わせていた。




