2.恋心が塗り替えられた日
フィオナ・ランスター。十八歳。
高位貴族ランスター家の長女にして、麗しき美貌と卓越した才を併せ持つ御方。成績優秀、舞踏も一流――まさしく稀代の才媛と謳われている。
されど驕ることなく、誰に対しても分け隔てのない心を持ち、ひとたび笑みを浮かべれば庭の花々が咲き誇り、どこからともなく小鳥や小動物までもが群れ集う。
まさに地上に舞い降りた女神。
卒業後は、この国の第二王子アインの妃として迎えられることがすでに定められていた。
だが私は知っている。彼女の対極にある存在を。
――魔王、フィオランテ=ナ=エクリプス。
この世界ではなく、前世で最凶にして災厄とも恐れらし御方。笑みを浮かべれば木々は痩せ細り、殺気を感じた獣たちは我先に逃げ出していった。
そんな魔王様に私は仕え、四天王のひとりと呼ばれていた。肩書きこそ立派だが、実態は魔王様の暴虐の後始末が主な業務である。
なにせ何かと問題は多かれど、一応は和平を結んでいた人間相手に戦争をけしかけて、世界が混沌に沈むのを笑顔で眺めておられた御方である。訓練と称して四天王仲間がサンドバッグにされた回数は数知れず、食への異常なこだわりから理不尽な命令が下ることもしばしばあった。
「……何か、物足りないな」
一口食べただけでスプーンを置く魔王様。料理人たちは一斉に顔を青ざめ、私は慌てて「別のものを用意いたしましょうか?」と尋ねた。
しかし魔王様は不満げに首を振る。
「いや。味は悪くない。だが……そうだな。お前の魔力でも足してみようか」
戯れのように告げると同時に魔王様は私の首を掴み上げ、無慈悲に魔力を吸い込んでいく。この御方は本当に加減というものを知らない。冗談めかした口調のくせに、込められる力に容赦がない。
必死に指を一本一本引き剥がし、危うく椅子に倒れ込みそうになりながらも、何とかその場に踏みとどまった。
「ゴホッ……お、お待ちください魔王様! 物足りないならもっと素晴らしい食材を……希少な魔族の肉を用意いたしますから!」
「……いや、別にこれでいい。なんだ、フラフラではないか。少し休んだらどうだ?」
「恐れ多いことでございます。……あ、そうだ。先日手に入れた香辛料をお持ちしますから、お待ちを!」
なんとかそれで手は打っていただけたが――。
なぜしばらく不貞腐れていたのか、今もって理解できない。
そんな日々の果てに、魔王様の仇敵となる勇者なるものが現れた。
魔王城での激闘の中で配下は次々と倒れ、物理担当でもないのに前線に立っていた私は、気がつけば勇者の剣を胸に受けて倒れ伏していた。
「申し訳ございません、魔王様……私はここまででございます……」
死の淵で最後に見たのは、私を一瞥した魔王様の姿。驚いたように目を見開き、口が何かを動かしていたが、言葉として耳には届かなかった。
その後、魔王様がどうなったかは分からない。
だがあの御方が負けるはずもない。
即座に勇者を討ち果たし、私の亡骸に蹴りを入れて「このボンクラが」と吐き捨てていたことだろう。
そこで私の生涯は終えたはずなのに――。
何の因果か、まったく趣の異なるこの世界で地方貴族の嫡男として再び生を受けた。
しかもどうしたことか、前世の記憶をバッチリと継承したままで。
もっともここは、魔法も魔族も戦争も存在しないなんともゆるゆるでふわふわな世界。
親は不慮の事故で早逝したが、交流のあったランスター家に運よく引き取られ、そこで出会ったのがランスター家当主の一人娘であるフィオナ様であった。
誰にでも優しく、花のように可憐で、努力を惜しまない。控えめながらも芯の強さを併せ持つ姿は、まさに私の理想そのもの。彼女に淡い恋心を抱くのも、もはや必然と言えよう。
血なまぐさい前世を思えば、あまりにも平穏で満ち足りた日々。
――だったのだが。
恋心だけでは片づけられない、理由のない動悸と緊張を覚える瞬間がある。
本を閉じてこちらを見上げるときの笑み。
ふっと鋭くなる瞳。
背後から放たれる、肌を刺すような殺気。
その度に、私の中の記憶が疼くのだ。
まさかとは思いながらも、そんなはずがないと頭を振る日々。
気づかないふりを続けていたが、疑惑を確信に変える出来事が訪れた。
当主夫妻が夜会で留守にしていた晩餐。
フィオナ様はスープをひと口飲んで、つまらなそうにスプーンを置かれた。
「……何か、物足りないですわね」
慌てて「別のものをお持ちいたしましょうか?」と尋ねた私に、フィオナ様はふるりと首を振る。
「きっとひとりで食べているから味気ないんですわ。……ツヴァイも、そう思わない?」
ちらちらと試すように向けられた瞳。
言わずとも察しろと言わんばかりの圧を受けて、私は理解した。
――やはり間違いない。
フィオナ様は、魔王様の生まれ変わりなのだ。
確信を得た瞬間に恋心は氷のように冷え固まり、残ったのは骨の髄まで染み込まされた畏怖と恐怖。そして前世を知るがゆえの使命感。
この御方に、前世の記憶を思い出させてはならない。
ようやく手に入れたこの平和な世界を、再び混沌に沈めるわけにはいかない――。
「フィオナ様。私は貴女様の忠実なる下僕でございます。謀反の気持ちなど、一切ございません」
「……ん? 今、そんな話をしていたかしら?」
「どうかそのことだけはゆめゆめお忘れなきよう、切にお願い申し上げます」
彼女に記憶はなくとも、敵意を抱いていないことは証明せねばならない。
そうして私は『有能で忠実な部下』であることを全力でアピールし、不服そうに頬を膨らませるフィオナ様を横目に、彼女が平穏に過ごせるよう一層励むことを誓ったのだった。
幸いなことに、この世界はとても平和だ。なにせ「社会性を磨き自主性を育むため」などという下らない理由で、各国の王族や貴族が学び舎に集うというのだから。(前世の世界であればこんな絶好の狩場、真っ先に魔王様が攻め込み蹂躙していたことだろう)
だから学園生活においても大きな問題は起こるまいと思っていた。
それでも従者としてフィオナ様の心身のケアには人一倍気を遣ってきたというのに――。
あの王子は余計なことをしくさりおって!
「フィオナ様、しばしお時間を。……殿下と今後について、少々話をしてまいります」
そう言い残し、へたり込んで震えたままのアインの襟首を掴み、ずるずると別室へ引きずり込む。
鍵をかけ、周囲に誰もいないことを確認してから、まだ床に尻をつけているアインへと視線を落とした。
「殿下。不敬をお許しくださいませ」
ひと呼吸置いてから、低く、ゆっくりと言い聞かせるように問いかける。
「――貴様、かつては"魔王様の忠実なる犬"などと呼ばれていたな?」
予想だにしない質問だったのか、アインは固まったままなかなか動こうとしなかった。




