10.箱庭の世界
……風が吹いていた。
何かが焦げた匂いが鼻を突き、焼けた大地の熱が肌を刺す。
耳を澄ましても、もう誰の声も聞こえない。勇者の断末魔すら、遠い幻のようだった。
気がつけば、私は地に横たわっていた。
視界の端には瓦礫と灰に覆われた世界が広がっている。
耳鳴りが強くなる中で、ぼんやりと、誰かの影が差し込んだ。
「……目を覚ましたか、ツヴァイ」
「……魔王様」
「喋るな。お前の胸は貫かれていた。……まだ生きているのが不思議なくらいだ」
そう言って、最後の角さえ失われた魔王様が、静かに笑われた。
「……勇者は?」
「塵となって消えた。あの者が放った聖剣も軍勢も、すべて呑み込んでくれたわ」
その声には疲労の色が漂い、首からはとめどなく血が溢れ出ていたが、背筋は依然として凛としていた。この御方が魔王たる所以だろう。
だが、霞む視界の先に映る世界は、もはや原形をとどめていなかった。
焼け焦げた大地、崩れ落ちた城壁。
煌々と紅く染まる空は、まるで世界の終わりを告げているようだった。
「……ツヴァイ」
「はい」
「お前は、あの時からずっと私の傍にいたな」
「……あの時、とは」
魔王様は少しだけ目を細められた。まるで遠い昔を懐かしむように。
「お前の一族が反旗を翻したあの日のことだ。皆が刃を向ける中で、お前だけが最後まで私の側に立ってくれた。……嬉しかったんだ。あの時、お前が膝を折り、私に一生を捧げると誓った言葉――。私は忘れていない」
――ああ、そんなことも、ありましたね。
たったひとりの、まだ幼さを残した少女に忠誠を誓うため、私は一族を捨てた。
あの選択がすべての始まりだったのだ。
「お前は、あれ以来ずっと私の側にいた。戦場でも、政務の間でも、私の影のように。……その忠義、称えるに値する」
魔王様の手が、私の髪をゆっくりと撫でた。
血に染まった指先がかすかに震えている。
その微かな震えは、膨大だった魔力の奔流がすでに尽きかけている証なのだろう。
大地が低く唸り、赤く濁った空が今にも崩れ落ちそうに揺れていた。
「……魔王様、もうお休みください。これ以上は――」
「黙れ。言いたいことがまだある」
その声音は、かつて玉座で幾千の軍を率いた頃と変わらぬ威厳を帯びている。
けれど、次に続いた言葉はどこか幼く、不安げだった。
「離れることは、許さぬ」
「……はい」
「お前は私のものだ。生まれ変わっても、そのことを忘れるな」
「……」
「この身が滅びようとも、お前は私の傍にいる。それがあの日交わした誓いだ。違うか?」
「……違いません」
魔王様の手が、また私の頬を撫でた。
熱い。体温ではない。焼けるような魔力の余熱が滲んでいる。
「来世でも……」
「……来世、ですか?」
「そうだ。もう、こんな過ちは犯さないから。だから、来世でも、ずっと私の傍に――……」
言葉がそこで途切れた。
魔王様の瞳がわずかに揺らぎ、焦点を失う。
そのまま、私の胸の上に手を置かれて、微動だにしなくなった。
……その手の重みを感じながら、私はそっと目を閉じた。
風が止む。
世界が崩れ落ちる音が、遠くに聞こえた気がした。
彼女が望む新たな世界の構築のため――。
残る最後の力を振り絞る。
――そして。
「――っ! おい! 何ぼーっとしてんだよ!」
バチンッ、と肌を打つ音が響いた。
遅れて、頬の皮膚がじんと熱を帯びる。
目を開けると、すぐ目の前にアインの顔があった。
「あ、起きた」
……こ、こいつ……! 平手打ちとは何事か……!
文句を言おうとしたその時。アインの肩越しに、こちらを心配そうに見やるフィオナ様の御姿が見えた。
「大丈夫ですか、ツヴァイ。立ったまま寝ていましたけれど……」
「なんと。それはお見苦しいところを……。気が緩んでいたようで、大変失礼いたしました」
すかさず頭を下げると、後頭部にそっと温かな手が触れた。
「……貴方は昔から働きすぎなのです。最近もアイン様の補佐や、わたくしのフォローに奔走してくれたのでしょう? 少し休んでも、誰も咎めたりしませんよ」
なんと慈悲深きお言葉か。思わず頷きそうになってしまったが、それはそれ、これはこれ。
確かに卒業後は政務の仕事が増え、何かと立て込んでいる。だが私の出世を妬む連中を黙らせるためにも、まだまだ休んでいる暇など無いだろう。
「私は自分の為すべきことをしているだけですから。そのお言葉だけで十分でございます」
「でも……」
「ああそうだ、殿下。エントリヒが会談の嘆願書を寄越してきましたがいかがいたしますか? 世界を半分に分けないか、等とわけの分からぬことが書かれておりましたが」
読んでしまったことを後悔するレベルの駄文であったが、廃嫡されたとはいえ皇族には違いなく、放置するわけにもいくまい。
報告を終えると、フィオナ様の前でも取り繕わなくなったアインがあからさまに顔をしかめた。
「しつこい奴だなぁ。フィオナのこともまだ諦めてないのかな? まあいいや。直接文句言ってやるから、適当にセッティングしておいてくれよ。場所は……そうだな、場末の酒場とかで構わないから」
「そういうわけにはまいりますまい。仕方ありませんね、私もお供いたします」
「助かるよ」と軽く笑ったアインの頬が、何かに気づいたようにひくりと引き攣った。
「……あ! ち、ちが……お、俺が手配しておくから、お前はフィオナのサポートしてくれ! それが終わったら長期休暇! これは王子命令だから、そういうことだから……お許しを……!」
言い終えるや否や、アインは持ち前の脚力で風のように去っていった。
……なんだあいつ。また腹でも痛くなったのか?
やれやれと肩を竦めて振り返ると、フィオナ様がニコニコと楽しげにこちらを見ておられた。
「長期休暇ですって。良かったですね、ツヴァイ。……そうだ。今度ランスター領に戻るでしょう? その時のお土産を選びたいの。一緒に城下へ付き合ってくれないかしら」
「ああ、それは良いお考えですね。私でよければ、喜んで」
一応はまだアインとの婚約を結んでいる関係でフィオナ様も王城で暮らすようになったのだが、久しぶりの里帰りがよほど嬉しいのだろうか。ぱぁっと花が咲いたような笑顔を浮かべるフィオナ様に、胸を灼くような痛みが走る。
何かを忘れている気がするのに、未だ思い出せそうにない。
振り払うように頭を振り、私は準備に取りかかる。
「それでは護衛の手配をしてまいります。お部屋でお待ちくださいませ」
「護衛は……必要ないんじゃないかしら? だってこの世界はこんなにも平和なのに」
「貴き御立場なのですからご理解くださいませ。五人……いえ、十人は必要でしょう」
頭を下げて退出を申し出ると、フィオナ様を包む空気が少し冷ややかなものに変わっていた。
頬を膨らませて据えた目で、「本当に貴方という人は……」と小さく呟かれる。
「フィオナ様? なにか粗相がありましたか?」
「……いいえ、何でもありません。よくよく考えたら今更でしたから。もう焦る必要もないですし、長い目で見させてもらいます」
「???」
微笑を浮かべたフィオナ様が、去り際に私の肩を軽く叩かれた。
その仕草ひとつに、ぞくりと背筋が粟立つ。
「……でも、平和な世界というのも、思ったより退屈なものですね。――飽きさせないでくださいね、ツヴァイ」
冷汗が背を伝い落ちる。
まさか、魔王様としての記憶が――。
フィオナ様は再びニッコリと微笑み、ひらりと手を振って背を向けられる。
その後ろ姿が何よりも恐ろしく――。
誰よりも、美しかった。




