1.婚約破棄は土下座とともに
大きなステンドグラスから午後の陽光が差し込む、レルネン学園の大広間。
壁際には好奇の視線を向ける生徒たちの姿があった。
中央でひときわ存在感を放つのは、レルネン王国の第二王子アイン。
その対面で物怖じすることなく佇むのは、まるで春の陽だまりの中で息づく小動物のような少女。
透き通るほどの白い肌に、ふわりと揺れる金の髪を持つその人こそ――我が主、フィオナ様である。
「……フィオナ。君との婚約を、今日限りで解消させてもらいたい」
アインの声がしんと響く。氷の王子と呼ばれるにふさわしい冷たい響きを帯びていたが、普段の堂々とした立ち振る舞いは鳴りを潜め、視線はわずかにフィオナ様から逸らされていた。
その様子を見るに、少しは申し訳ないと思っているのだろうが――。
なんという愚かな真似をしてくれたんだ、あのアホは……!
最近、アインの様子がおかしいことには気づいていた。政略結婚と割り切っていたはずなのに、フィオナ様を見る目が少しずつ変わっていったことも。
だからといって衆目の前でこんな暴挙に出ようとは。後方に控えていた私は冷静を装いつつも、内心では頭を抱えてしまう。
フィオナ様は鮮やかな深紅の瞳を瞬かせ、いじらしくもアインをじっと見つめている。その儚げな姿に周囲の令息たちは庇護欲を掻き立てられた様子で、令嬢たちは好奇心を隠そうともせず固唾を呑んで見守っていた。
さらに反対側では隣国の皇太子がアップを始めている。フィオナ様にいつも熱い視線を送っていたのは知っていたが、これもまた見過ごせない事態である。
「理由をお聞かせくださいませんか?」
「そ、れなのだがな。決して君に非があるというわけではないんだ」
「でしたら、他に心に決めたお相手が……?」
「それも無い。だが、君のそばにいると何故か落ち着かないというか、鳥肌が止まらないというか……」
アインの歯切れがすこぶる悪い。よく見ると脂汗まで滲ませて、距離を取るように一歩後ずさった。
「とにかく! 君とはもう一緒にはいられないんだ! 頼むから何も言わずに受け入れてくれ!」
平静さを失った要領を得ない言い訳に、周囲は顔を見合わせてひそひそと囁き合う。
――まったく、あいつは昔からそうなのだ。
短慮で浅慮。暴走癖があり、人の話を最後まで聞かずに突っ走る。
その度に躾と称した罰を受けていたはずなのに……どうやら記憶とともにすっかり抜け落ちてしまったらしい。
どうこの場を切り抜けるか。高速で頭を働かせている間に、フィオナ様を纏う柔らかな空気が、変わった。
いつも湛えている微笑がふっと消える。
瞳がすぅと鋭く細まり、背筋がぞわりと粟立つ圧が周囲にじわじわと広がっていく。
この威圧感。この寒気。
私は嫌というほど覚えている。
――魔王様!
「……それは、道理の通らぬ話ですわね」
フィオナ様の小さな唇から漏れたのは、低くよく通る声。
声量こそ抑えられていたものの、対峙するアインにはしっかりと届いたらしく、奴はピシリと音を立てるように硬直した。私も自然とその場で姿勢を正し、開きかけた口を閉ざす。
「まさか、そのような言い分でわたくしが納得するとお思いなのですか? アイン様はわたくしのことを随分と見くびっていらっしゃるのですね。……躾が――」
――その先を言わせてはならない!
気がつけば私は躍り出るようにふたりの間へ割って入っていた。
「フィオナ様は殿下のご事情を汲んで検討くださるそうです! 良かったですね、殿下! はいはい、見世物じゃありませんよ! 解散解散!」
パンッ、パンッ! と大袈裟に手を叩き、場を誤魔化そうとする……が、遅かった。
呆然とフィオナ様を見つめていたアインの目が、カッと見開かれたかと思ったら――。
「も、申し訳ありませんでしたあああああああ!!」
勢いよくその場に膝をつき、どこかで見慣れた体勢を取る。そう、それは土下座。この世界では馴染み薄いが、見事なまでの土下座である。王子の突然の奇行に大広間が割れんばかりのどよめきに包まれる。
「忘れてました! 今、思い出しました! あなたが……あなた様に、俺は何てことを……!」
なんてこった……! どうやらあいつは、フィオナ様の微笑を真正面から浴びたせいか、最悪のタイミングで前世を思い出したらしい。
私とともに魔王様にお仕えし――。
事あるごとに可愛がりを受けていたあの日々を。
床に額を擦り付ける駄犬――もとい、アインを見下ろすフィオナ様。その表情のなんと慈悲深く、なんと空恐ろしいことか。
「……嫌ですわ。顔をお上げください、アイン様。ほんの気の迷いだったんですよね。どうしてもと仰るのなら、こんな形ではなく、きちんと話し合いから始めましょう。ね?」
その声は天使のように優しく、柔らかく、あたたかい。
しかし、ポンと肩に置かれた手からかつての禍々しいオーラでも感じ取ったのか、アインは「ヒィィ!」と情けない声を上げ、小犬のようにガクガクと身を震わせていた。




