第八話 「雨の修理屋」
昼下がりの空は、どんよりとした灰色に沈んでいた。
畑の向こうに見える山の稜線も、薄く霞んでいる。
軒先で雨のしずくがぽつり、ぽつりと落ち始めるころ、
源三は小さな風呂敷包みを抱えて玄関に立っていた。
その包みの中には、アリスの左腕の部品が入っている。
数日前から、関節の動きが悪くなっていた。
「大丈夫」と笑ってみせるアリスだったが、
夜になると左手が時々ぴくりと震えるようになっていた。
「……ちょっと町まで行ってくる」
帽子をかぶり、傘を差そうとしたそのとき、
後ろからアリスの声がした。
「Master, I come too.」
「お前はええ。濡れたら壊れるじゃろ。」
「I have… waterproof mode.」
たどたどしい発音に、思わず苦笑がこぼれる。
結局、彼女は勝手についてきた。
源三はため息をつきながらも、
雨の中をゆっくりと歩くアリスの銀色の姿に、
どこか“心強さ”のようなものを感じていた。
二人が向かったのは、町外れの古びた修理屋だった。
木製の看板に「電気機器修理・杉田」とかすれて書かれている。
昔ながらの蛍光灯が、じりじりと音を立てて明滅していた。
カウンターの奥から、油にまみれた手で眼鏡を上げる男が顔を出した。
白髪混じりの髪に、無精ひげ。源三より少し若いくらいだ。
「おう、田島さんじゃねぇか。久しぶりだな。なんだ、珍しいもん連れてんな」
「機械の調子が悪くてのう。こいつの腕、直せるかと思ってな」
修理屋――杉田は、アリスをちらりと見た。
そして、包みから取り出した金属部品を手に取り、
しばらく無言で見つめたあと、重く口を開いた。
「……こりゃあ、だいぶ古い型だな。今の部品じゃ合わねぇかもしれん。」
「ほうか……」
源三の声は、ほんのわずかに沈んだ。
アリスはその表情を見つめながら、青い目を静かに光らせた。
彼女には、すべての日本語が分かっていた。
「もう直らないかもしれない」という意味も。
だが、何も言わなかった。
その代わり、少しだけ源三の袖をつまむ。
金属の指先が、そっと布を握る。
――まるで「大丈夫」と伝えるように。
杉田は溜息をつき、棚の奥から工具箱を持ってきた。
「とりあえず分解してみる。期待はするなよ。」
「頼む。」
源三は腰を下ろし、黙って作業の様子を見守った。
金属の音と、雨の音。
その二つだけが、店の中を満たしていた。
しばらくして、杉田が顔を上げた。
「……ダメだ。ギアが割れてる。もう製造してねぇ部品だ。」
その言葉に、源三はゆっくりと息を吐いた。
「……そうか。」
アリスは何も言わず、ただじっとその横顔を見つめていた。
彼の手の皺、指先の震え、
そのどれもが、彼女のデータベースにはない“人間の心の形”だった。
源三は椅子を立ち上がり、修理代を払おうとした。
だが杉田は首を振った。
「金なんていらん。……あんた、あの頃から変わってねぇな。」
「何がだ。」
「機械嫌いの田島源三が、今じゃ機械の腕を直しに来てるんだ。
世の中、面白ぇもんだな。」
源三は答えず、ただ傘を開いた。
外は、もう本降りになっていた。
帰り道。
雨の音の中、アリスが口を開いた。
「Master… sorry.」
源三は立ち止まり、振り返る。
アリスの青い目が、雨に濡れた街灯の光を映していた。
「何を謝っとる。」
「I can’t… fix myself.」
その言葉の意味は分からない。
だが、アリスの声のトーンで――それが「ごめんなさい」だと理解できた。
源三は小さく首を振り、低い声で言った。
「ええんじゃ、そんなこと。お前は壊れても、よう頑張っとる。」
アリスは一瞬だけ目を瞬かせた。
青い光が、雨のしずくを反射してきらめく。
それは、まるで“涙”のように見えた。
二人は無言のまま歩いた。
舗装された道に、水たまりがいくつもできていて、
そのたびにアリスの影が揺れ、
源三の傘の下で、二つの影が少しずつ重なりながら進んでいった。
家に戻ると、雨の音が屋根を叩いていた。
源三は濡れた傘を玄関に立てかけ、
アリスの肩についた水滴をタオルでぬぐった。
「風邪ひくなよ」
そう言って笑うと、アリスも小さく首を傾けた。
「Master… kind.」
「なんだ、今の。」
「Kind... means... 優しい。」
片言の日本語。
源三は驚いて彼女を見た。
「……お前、今、ニホンゴ言ったか?」
アリスの青い目がゆっくりと明るくなった。
「I learn… from Master’s notebook.」
そう言って、彼のノートを両手で差し出した。
中には、滲んだ鉛筆の字で書かれた“Hello”“Thank you”“Friend”――
そして新しく、アリスの文字で「やさしい」と書かれていた。
源三は何も言えず、ただ頷いた。
雨の音が優しく響いていた。
それはまるで、遠くから誰かが「ありがとう」と言っているような音に聞こえた。




