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第七話 「ことばの橋」

秋の風が、田島家の庭を通り抜けていく。

稲刈りが終わった田んぼの匂い、

どこか懐かしい焦げたような土の香り。

その中で、アリスはいつものように洗濯物を干していた。


銀色の腕をぎこちなく動かし、シャツをピンチに留める。

動作は少し不器用だけれど、干された布が風を受けてふわりと揺れるたび、

その姿はまるで風景の一部のように穏やかだった。


「Good job… good… job…」


アリスが自分に言い聞かせるように呟く。

その英語の意味は分からないが、

縁側から見ていた源三には、

それが“よくできました”という自己満足の言葉に聞こえた。


「お前はほんとに、ようしゃべるのう」

「Yes, Master. Talk... help communication.」

「なんじゃそりゃ」


意味は通じない。

だが、最近の源三はアリスの言葉を“音”として覚えるようになっていた。

彼女がいつも言う “Master” は「ご主人様」らしい

――孫のさやかからそう聞いたとき、

「なんとも落ち着かん呼び方じゃ」とぼやきながらも、

どこか悪い気はしていない自分に気づいた。


---


夕方、源三はちゃぶ台に向かって紙と鉛筆を取り出した。

そして、英語の単語を書き写していた。

孫のさやかが置いていった英和辞典を片手に、

ゆっくりとページをめくる。


「Hello……は、こんにちは。Good morning は……おはよう、か」


声に出して読むたび、アリスの声が頭に浮かぶ。

出会ったあの日、縁側で言われた“Hello, Master.”

最初はただの機械音にしか聞こえなかったのに、

今はそれが、朝の挨拶のように温かく響く。


英語なんて、若いころ少しも縁がなかった。

だが、アリスと暮らしているうちに、

不思議と「知りたい」と思うようになっていた。

あの機械の言葉が、少しでも分かったら――

彼女が何を考えているのか、

少しは見えてくるかもしれない。


---


夜。

アリスはいつものように、源三の湯呑みにお茶を注いでいた。

手が震えることもなく、

慎重に湯を入れる姿は、すっかり板についている。


「Master, tea time.」

「おお、ありがとよ」


湯気の向こうで、アリスの青い目がほのかに光っていた。

その光が反射して、湯の表面に揺れている。


「……アリス」


呼びかけると、彼女は首をかしげた。


「Yes, Master?」

「この“ハロー”ってのは、どういう意味なんじゃ?」


アリスは一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑った。

その表情は、まるで人間のように自然だった。


「‘Hello’ means... nice to see you. Friendly start.」


ゆっくりとした発音。

源三には、単語の意味がすべては分からなかったが、

“フレンドリー”という言葉だけが耳に残った。


「……友達、ってことか?」

アリスは嬉しそうに頷いた。


「Yes, friend.」


源三は湯呑みを置き、少しだけ目を細めた。

十年前、妻を亡くしてからというもの、

「友達」なんて言葉を、

自分に向けて思ったことなど一度もなかった。

人との関わりを避け、機械を拒み、

ただ静かに日々を過ごしていた自分。


それなのに、今は――

機械のくせに、こいつの声がないと落ち着かない。


「……そうか、フレンドか。へっ、ずいぶん馴れ馴れしい奴め」

「Hehe... thank you, friend Master.」


アリスが笑う。

その笑顔が、ほんのりとした光に照らされて、

居間の空気をやわらかく包んだ。


---


夜遅く。

源三はこっそり、ノートを開いていた。

そのページの上には、不格好な字でこう書かれていた。


> Helloハロー=こんにちは

Friendフレンド=友達

Masterマスター=わし

Teaティー=お茶



彼は小さく呟く。


「……いつか、“ちゃんと返事”できるようになりたいのう」


外では秋の虫が鳴いている。

アリスの青い目の光が、障子の隙間からうっすらと漏れて、

まるで月明かりのように居間を照らしていた。

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