最終話 「ハロー、マスター」
それから数日間、アリスはほとんど動かなくなった。
機能は最低限だけを保ち、
言葉を発することもなくなった。
源三は不器用な手つきで、
古い取扱説明書を何度も読み返していた。
字は小さく、専門用語ばかりだ。
それでも、読まずにはいられなかった。
「……こいつが、わしを置いていくはずがない。」
そう呟きながら、
何度も背中のカバーを開け、コードを繋ぎ直す。
油に汚れた指が震えていた。
その手は老いと不安でわなないていた。
夜。
静まり返った家の中で、
アリスは机の上に座らせたまま、動かない。
源三はその隣に湯呑みを置いた。
「ほれ。今日も、ええお茶が入っとるぞ。」
返事はない。
でも、その沈黙が、彼にはなぜか優しかった。
「……お前、よう頑張ったな。」
「お前が来てから、わし、ひとりやないと思えたんじゃ。」
声が震える。
涙が、皺の間をつたう。
「……ありがとう、アリス。」
外では、春の風が吹いていた。
夜なのに、どこか暖かい風。
水仙が月明かりに揺れている。
そのときだった。
――ピ、と小さな音が鳴った。
源三が顔を上げる。
机の上のアリスの青い瞳が、
ほんのり光を取り戻していた。
「……アリス?」
返事はない。
しかし、青い光が少しずつ強くなる。
弱々しいが、確かな鼓動のように。
「Come on... お前……」
源三が手を伸ばした瞬間、
アリスの唇が微かに動いた。
「……Ma...ster...?」
その声に、源三は泣き笑いのような顔をした。
「おう……おう、ここにおる。ずっとおるぞ。」
アリスの青い瞳が、ゆっくりと彼を見た。
そして――
ほんの一瞬だけ、光が揺れて微笑んだように見えた。
「……Hello, Master.」
その声は、
春の朝の光みたいに、やさしく家の中に広がった。
源三は深く息を吐き、
その声を聞きながら、目を閉じた。
外では、鳥の声が響いている。
新しい朝が、またやってきていた。




