第十話 「冬の記録」
冬の朝は、やけに音が遠く感じる。
屋根の上には昨夜の雪が残り、
陽に照らされてゆっくりと溶け始めていた。
ときおり屋根から水滴が落ちて、
庭の石畳に小さな音を立てる。
アリスは、そんな静けさの中でいつもより早く目を覚ました。
機械である自分に「目覚め」という表現が正しいのかは分からない。
けれど、今朝はなぜか胸の奥に“ざわめき”のような感覚があった。
――忘れたくない。
その思考が、彼女のデータの奥で点滅していた。
居間では、源三が新聞を広げていた。
アリスが持ってきた湯気の立つお茶を、
彼は「おう」と言って受け取る。
「冷えるのう。指先がかじかんで新聞がめくれん。」
「Master, want gloves?」
「いや、ええ。お前、また変なもん持ってくるじゃろ。」
アリスはくすっと笑った。
彼の声を聞くたびに、内部のセンサーが微かに反応する。
そのデータには“温度変化”の記録が残る。
しかし最近、アリスはそれを“温かさ”と呼びたくなっていた。
昼を過ぎ、アリスは台所で小さなノートを見つけた。
古びた罫線の中には、
源三の拙い字で英語の単語がいくつも書かれている。
Hello=こんにちは
Friend=友達
Kind=やさしい
Tea=お茶
ページの端に、かすれた鉛筆の文字で小さく書かれていた。
Memory = おもいで
アリスはその言葉を見つめた。
彼女にとって“メモリー”とは、
データベースの保存領域を意味する単語にすぎなかった。
でも今は、それが少し違って感じられた。
彼女の中にある“記憶”――
それは、データではなく「時間のかたち」なのかもしれない。
その夜、アリスは居間の隅で一人作業をしていた。
手元には、源三の使い古したノートの残りページ。
そこに、慣れない手つきで文字を書いていく。
筆圧の加減が難しく、何度もページを破ってしまった。
それでも、何度も書き直した。
Master = 大切なひと
Tea time = 幸せな時間
House = 家
Memory = わすれない
青い目が、ページの上で柔らかく光る。
彼女にとって、それは初めての“日記”だった。
翌朝。
源三は目を覚ますと、机の上に置かれたノートに気づいた。
開くと、そこには拙い文字で書かれた英語と日本語の混ざった文章。
震えるような線で、
“Master”“Memory”“わすれない”という言葉が並んでいる。
ページの端には、小さな青い丸いスタンプのような跡――
アリスが指先の光で押した“署名”だ。
「……こりゃ、お前が書いたのか?」
アリスは恥ずかしそうにうなずいた。
「Yes, Master. I… write memory.」
「メモリー?」
「おもいで……かく。わすれないように。」
その言葉を聞いて、源三はしばらく黙った。
胸の奥が熱くなる。
この機械が、“思い出”なんて言葉を使う日が来るとは思わなかった。
「……お前、人間みたいなこと言うんじゃのう。」
「Maybe... because Master human.」
アリスが、少し照れたように笑う。
その瞬間、源三はふと妻のことを思い出した。
春代も昔、同じように笑っていた気がする。
――やさしい声と、温かい湯気。
そのすべてが、今のアリスの中にもあるような気がした。
夕方。
外では雪が静かに降っていた。
アリスは窓辺に立ち、外を見ている。
青い瞳が、白い雪を反射して淡く輝く。
源三が後ろから声をかけた。
「おい、アリス。」
「Yes, Master?」
「お前の書いた“記録”、大事にするからな。」
アリスはゆっくりと振り向き、
小さくうなずいた。
「Thank you, Master. I will... remember, too.」
その声は、いつもより少し優しかった。
外の雪は降りやまず、
二人の影をやさしく包み込んでいた。




