老人ホームの宇宙人
「でな、ゼプス星はそれはそれは遠くにあって――」
とある老人ホームの共有リビング。新人の介護士の男は、ふと一人の老人が気になり、そばにいた先輩に小声で訊ねた。
「先輩、あの人は……」
「ん、ああ、あの人ね」
「話し上手な方なんですね。いつもあんなに人が集まっていて」
その老人の周りには、いつも数人の居住者が車椅子やソファに腰をかけ、こっくりこっくりと頷いていた。
「いや、みんな聞いてないのよ。このホームにいる人はほとんど認知症だしね。まあ、いいBGM代わりになってるんじゃない?」
「そうなんですか……でも、話の内容が宇宙の話みたいで。なんなんですかね?」
「ああ、あの人ね、ゼプス星人なんですって」
「ゼプス星人……? えっ、宇宙人ってことですか?」
「ぷっ、あははは! ちょっとお、本気にしないでよ。あの人も認知症なの。あはは!」
「いや、べつに真に受けたわけじゃ……」
見た目はどこにでもいる普通の老人。だが男は興味を引かれ、時間を見つけては老人のもとに足を運び、耳を傾けるようになった。
ある夜、老人の部屋。就寝介助でベッドに寝かせながら、彼はいつものように話を聞いていた。
「わしはな、もともとこの星の生まれじゃないんだ」
「その話はもう聞きましたよ。ゼプス星から来たんでしょう? 海が紫色で、夜が二回あるんですよね?」
「そうそう、一回目の夜が短くてな。地表には水晶が林のように生えていて――」
「大地は朱色で、空はピンク色。植物は動く。ですよね?」
「おーおー、よく覚えておいでだ」
「ええ、何度も聞かされてますから」
「そうかそうか。で、ゼプス星人の特徴は覚えているかい?」
「いや……それはまだ聞いたことがありませんね」
「白い体に緑のまだら模様があるんだ。話したかな?」
「いやー……どうだったかな」
「小食でな。ほとんど食べなくても生きられるが、そのぶんグルメでな。寿命はまあ、二百年ほどと言ったところかのう」
「へー……あー、聞いたことあった気がする」
荒唐無稽にしか聞こえない話だが、その口調には奇妙な説得力があった。色彩や匂い、気候の描写がやけに生々しく、妄想にしては細部まで鮮明だった。それが彼の興味を持続させていた。とはいえ、同じ話ばかり繰り返されされるので、少し辟易もしていた。今夜は特に新しい情報も出なさそうだ。
そこで彼は、ふと意地悪な質問をぶつけたくなった。
「でも、どう見ても地球人ですよね? それに、なんでわざわざ地球に来たんですか?」
老人は「うーん」と低く唸りながら天井を仰いだ。やがて周囲をゆっくりと見回すと、声を潜めて言った。
「見た目は手術で変えたのだ。ゼプス星の科学力をもってすれば、造作もないことよ」
「なるほど。まあ、宇宙船で来たわけですもんね。そりゃ、すごいか。それで、地球に来た理由は?」
「それは……」
「ひょっとして、スパイですか? あ、それとも島流し? 悪さでもしたんでしょう。じゃないと地球なんかに来ませんよね?」
「うーん……」
「それに、なんで老人ホームなんかにいるんですか?」
「だから、それはのう……」
「ふふっ、ボケてると思われてここに送られちゃったんですか?」
「いやあ……」
「ま、あんまり適当なことばっか言うのもどうなんですかねえ」
「それは……」
「ん?」
老人がごにょごにょと呟き、指先で彼を手招きした。彼は眉をひそめつつ、そっと耳を近づけた。
「食事じゃよ」
その瞬間、老人の口から細い舌が蛭のように伸び、耳の穴へと滑り込んだ。彼の体はびくりと震えたあと、唇を尖らせ、白目を剥いて硬直した。
一分後、老人は舌を引き抜き、口元に薄い笑みを浮かべた。
「さて、どこまで話したかのう?」
「……えーっと、地球人じゃないんですよね? 続きを聞きたいですけど、もう消灯の時間なんで、また今度に……」
彼は虚ろな表情で呟くと、のろのろと部屋を出ていった。
「ここは実にいい餌場だ。居住者はもともと鈍く、介護士は入れ替わりが激しい。まあ、今のように脳を吸ううちに、だんだん働けなくなっていくのだがな」
老人は満ち足りた吐息を漏らし、まぶたを閉じてゆるやかに眠りへと落ちていった。