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2016年9月5日

作者: あずは

 水の匂いを気にしたことはありますか。


 休日に降る雨の匂い。秘密基地の近くにある沼の匂い。森の中の蒸気の匂い。

 日が照り付ける川の匂い。鴨が泳ぐ田んぼの匂い。腕を滴り落ちる汗の匂い。

 中でも最も身近な水の匂いといえば、水道水の匂いを外すことは出来ませんね。


 水道水の匂いを形容する際、ある人は「塩素の匂い」だと言いますし、ある人は「水道管の匂い」だと言いますが、しかし「いい匂い」と仰る人は見かけません。


 思うに水道水の匂いを高評価しないのは、自分の汗の匂いを高評価しないのと同じ理由だと思うのです。水道水を直飲みしない人でも、料理・洗濯・掃除などの行動に水道水は利用されますし、工業的にも水を使用しないことはありませんから、水道水は常に私たちの近くにあるといえます。いいえ、私たちの一部であるといってもいいでしょう。


 水は私たちの一部で、全てです。だから匂いを錯覚するのだと思います。

 さて今一度、水道水の匂いを思い出してみませんか。


 いえ、ここまで水の匂いにこだわるのは、私の中でそれが強く印象付けられているからこそです。


 7月18日。うだるような暑さが部屋の中まで染み込んでいた、そんな昼下がりでした。私は喉の渇きを潤すために、水道の蛇口をひねったのです。


 流れ出る透明な液体をぼうっと眺めながら、コップの縁が濡れるまで突っ立っていました。

 拾い上げたコップは凍るほど冷たかったと記憶しています。

 コップを顔の前に持ってきて、いざ流し込もうといったところで、私の手はぴたりと止まりました。


 何か妙な匂いが私の鼻を刺激しました。鼻の奥がじんわり熱くなるような刺激。

 私は不思議に思って辺りを見渡しましたが、異変は確認できません。


 何か嫌な予感がして、私はサッサと水を飲み、キッチンから離れました。

 水道水の味に変化はありませんでした。


 7月19日。この日も太陽はさんさんと照っていました。

 昨日と同じように水を飲もうとして、昨日と同じように匂いを感じました。


 少しだけ匂いが濃くなっているような感じがしました。匂いの元までは分かりませんでしたが。

 私は業者に相談しようと決意しました。水道局へ電話したんです。


 電話の向こうの声は男性のもので、2日後に訪問すると言いました。

 そして最後に水道水は飲まないようにと注意され、電話は切れました。私はその時点では水道管の異常か何かだと思っていました。すぐに直せるのだろうと。


 7月20日。暑い日が続いていたので、仕方なく水を飲みました。例の如く水道水です。私の家の近くに店が無かったのと、私の横着な性格、そして水道水の味がそうさせたんです。


 水道水に違った味がついていたんです。形容しがたい、しかし妙に懐かしい、癖になる味でした。

 ええ、専門家の言いつけを破るくらいには魅力的でした。多幸感とは別の、依存的な快楽を脳に生み出す味でした。匂いの方は変わらず嫌な感じでしたが。


 思わず私の腕は蛇口に伸びていました。流れ出てくるのは無色透明な液体だけです。コップに注ぎ喉に流し込みました。脳が更なる水道水を欲しました。


 気づけば日が沈んでいました。窓の外は真っ赤に染まり、ヒグラシが鳴き終わるころでした。 私はずっと流しの前に立っていたんです。6時間ほどずっと。


 汗はとうに乾いていましたし、頭も冷えていました。

 自分が置かれている状況にまずいと思いました。そして思ったんです。水道水が、本当に異常だということを。

 

 真っ先に疑ったのは麻薬の混入です。ついでドッキリの線も考えました。

 何か水道水に盛られていると私はそう考えたわけですが、一人では解決しないことだと悟り、大人しく布団に寝ころんだあと、次の日がやってくるのを待ちました。


 7月21日。朝焼けが綺麗に映える日のことです。

 水を飲みたいところでしたが我慢しました。


 私はご近所の方に話を伺うことにしました。水道に異常がある可能性が現実味を帯びてきたので、被害は広範囲に拡大していると思われました。


 早朝から話を聞きに行けるのは、日課の散歩を欠かさない大原さんぐらいでした。私は散歩コース上にあるベンチに腰掛け、大原さんが通りかかるのを待ちました。


 日が橙色から白色へと変わっても、大原さんは歩いてきませんでした。

 じりじりと照り付ける日差しが私の首筋を濡らしていくだけでした。


 代わりに歩いてきたのは南雲さんでした。大原さんの友達で、昼頃は公民館にいらっしゃいます。南雲さんは私一人が座るベンチを見て首をかしげていました。


 どうされました。と声をかけたところ、大原さんの姿が数日前から見当たらないらしいです。 最後に見たのは大原さんの自宅とのことで、彼の身に何かあったのではと不安そうに呟きます。


 大原さんの普段の印象は自由奔放そのものでしたが、夏場ということもあり、熱中症の疑いもありますから私も心配になりました。


 大原さんの家に2人で向かうことにしましたが、その前に私は水を飲みに自宅へ戻りました。

 南雲さんの水筒に入っていた麦茶は苦かったのです。舌がピリピリして、とても飲みませんでした。それに比べて水道水は美味しく飲むことが出来ました。


 空のペットボトルに水道水を詰めて南雲さんと合流すると、南雲さんは塩分補給の大切さを丁寧に説いてくれました。水道水に塩などを混ぜるといいと言います。

 道中の南雲さんの話は、少なくとも南雲さんの水道水に異変は起きていないことと、今の自分の行動がどんなに可笑しなことかを私に気づかせました。


 大原さんは亡くなっていました。自室の布団の上で溶けていらっしゃいました。ドロドロに溶けた脂肪が布団にへばりついて大きなシミをつくっていました。

 あまりの臭気に気分を悪くした南雲さんの代わりに救急車を呼んだあとは、大原さんの家は大の大人で寿司詰めになりました。熱気がこもり私は汗ばみました。


 警察の方は顔を顰めながら死因について憶測を交わしていました。趨勢を占めたのはやはり熱中症でした。扇風機が寂しく回転しているだけの居間は、老体には堪えるものだっただろうと。


 私は発見者として簡単な聴取を受けたのち、日が暮れたころに自宅の玄関をまたぎました。


 ペットボトルは既に空っぽでした。昼間の内に全て飲み干してしまったのです。食道だけミイラになったまま、半日過ごしていたことになります。

 流しの蛇口を全開にし、頭を滑り込ませてお腹いっぱい飲みました。

 匂いはしていないから大丈夫だと思いました。当時は切羽詰まっていて考える余裕もなかったでしょうが。


 7月22日。3時ごろに呼び鈴が鳴りました。顔をのぞかせたのは険しい顔をした警察官の方々でした。そして彼らの足元には青い制服を着た成人男性が寝ころんでいました。


 男性の死因が熱中症であることを告げられた私は、状況が呑み込めないまま聴取に付き合いました。


 気づかなかったのか。という質問には、今日は暑くて水を飲んでいました。と答えましたが、納得していない様子でした。眉間の皺を更に深くして、彼らは質問を続けました。


 警察官の方々は昨日と比べて少しやつれているように見えました。顔色は赤みがなく、むしろ青白いくらいでした。メモを取る手が震えてみえたのは、陽炎のせいではなかったでしょう。

 水分補給の重要性についての話は怒声にかき消されました。実際、彼らは私の前で堂々とペットボトルを傾けていました。それでも、彼らの顔色は変わりませんでした。


 やがて私の玄関先も昨日の大原さんちのようになりました。テープやビニールシートが張り巡らされ、風通しは熱帯雨林以下といえました。

 太陽は変わらずぎらぎらと光っています。私も頃合いをみて奥へ引っ込みました。


 エアコンは常時MAXパワーです。扇風機は購入していません。扇子も団扇も気休め程度の風しか送ってきませんでした。

 私はがぶがぶと水を飲みました。喉は乾いていませんでしたが、身体が燃えるように熱く感じられました。


 汗がシンクの底へと流れ落ちていくのを、ぼうっとした頭で眺めていました。

 外からは時折おおきな声が聞こえてきましたが、日暮れにはすっかり静かになっていました。


 私は一晩中、キッチンにいました。蚊が私の顔の周りを飛んでいましたが、潰す気にもなれずに放っておきました。

 空気が重く感じられました。小学校の理科の実験とは裏腹に、暖かい空気は足元から這い上がってくるようでした。

 蒸し暑さに耐えられなくなるたびに、私は蛇口の下に頭をおきました。そして疲れた胃腸に水道水を染み込ませました。そのまま何時間も過ごし、夜は一回転して白んでいきました。


 7月23日。その日も雲一つない快晴でした。私は家から一歩も出ずに水を飲んでいました。

 喉は乾いていませんでしたが、酷く気分が優れなかったのです。

 まるで脱水症状の最終段階かと思えるほどに。実際にそこまで重症化した経験はありませんが、こう言い表すほうがあなたも切迫感を感じられると思います。


 そして水を飲んで一日が過ぎました。正確に時計を確認していたわけではなく、視界の端に映る日の光の色で時間を判別していました。

 時間を知ったからといって行動に何か変化をおこすわけではありませんでしたし、むしろ嚥下を頻繁に行うようになったことを覚えています。


 次の日も同じでした。次の週も、次の月も同じように過ごしていたとおもいます。最後の方は時間すら気にしなくなっていました。


 何か新しい情報を語るためには、日付を9月3日まで飛ばす必要がありますね。その日は珍しく雨が降っていましたから覚えています。

 そしてあなたに出会った日でもありますから。


 私はその日、水道水が不味かったことに気が付きました。不快な匂いとピリピリするような味が脳味噌をあざ笑っていました。

 私はすっかり水道水の虜になってしまったのです。いつも通りの匂い。いつも通りの味。私は心底がっかりしましたし、苦しい気持ちに支配されました。

 そして水道局に連絡したんです。水道管の修理に来てほしいと頼みました。


 職員の方の代わりにあなたが来ましたね。公安の方だったなんて驚きました。

 ですが更に驚いたのはビニールシート類が全て撤去されていたことでした。まるで一連の熱中症騒動が嘘のように。いえ、実際に嘘であってほしかったと思っていますけどね。


 ですが、あなたの話は真実性があると思わされました。臆病ながらも興奮気味に、騒動の実態を掴もうと仮説をばらまくあなたの話し方は、どこか信頼が置けます。私の話した内容が捜査の一助となれば幸いです。


 ええ、最後の方は主観的な話ばかりとなってしまいましたね。しかし私はこう伝えることが最善だと判断いたしました。

 私は事件の当事者ですから。私の人間性が事件にバイアスをかけて分かりにくくしているのなら、あえて歪めなおす必要はないと感じます。むしろ私の人間性を前面に押し出して述べたつもりです。演説口調はご愛嬌ということで。


 私が真相を、ですか。残念ながら私には何も分かりません。何かわかった暁にはあなたの口からお聞かせください。


 いえいえ。本日はありがとうございました。詳しく聞きたいことがあれば、また喜んでお話いたしますよ。


 …そうだ。飲み物はありませんか?喉が渇きました。

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