第五章 静かなる貢献
あらすじ
能力者がひしめく名門・蒼城学園。
そこに入学した綾瀬陽太には致命的な問題があった。
——能力が、何もない。
特別な力を持たない「無能力者」である陽太は、なぜかこの学園に「記録係」として入学を許される。
役割は、天才的な能力を持つ美少女たちの戦いを観察し、記録すること。
それだけ。
誰からも期待されず、ただ見ているだけの存在。
そんな彼が記録することになったのは、学園最強と名高い二人の少女だった。
倉田美咲—— 空間を支配する「絶対領域」の使い手
若林香織—— 万物を創造する「千変万化」の能力者
圧倒的な才能を持つ彼女たちの戦いを、陽太はただ見守り、記録していく。
しかし、学園を狙う謎の組織「虚無」の脅威が迫る中、
「最弱」であるはずの陽太の観察眼が、思わぬ力を発揮し始める。
見ることしかできない。
記録することしかできない。
でも——それこそが、誰にも真似できない彼だけの「才能」だった。
作品紹介
本作は「無能力者」の主人公が、圧倒的な才能を持つ美少女たちと共に成長していく学園異能バトル作品です。
- 能力を持たない主人公ならではの視点で描かれる異能バトル
- 最初は「ただの記録係」だった主人公が、徐々に重要な存在になっていく成長物語
- 二人のヒロインとの心温まる交流と、少しずつ深まっていく絆
- 「観察」と「記録」という地味な行為が、やがて戦局を左右する鍵となる展開
- 能力がなくても、誰かの役に立てることを証明していく主人公の奮闘
「見ること」の大切さ、「記録すること」の価値。
そして何より、能力がなくても誰かの力になれるということ。
最弱の少年と最強の少女たちが織りなす、新感覚の学園異能バトルストーリーをお楽しみください。
能力観察官としての資格は維持されたものの、陽太の心は完全に折れていた。
曽祖父が偉大な記録者だったという事実も、自分の観察が役立っているという評価も、もはや何の意味も持たなかった。結局、自分は能力を持たない傍観者でしかない。その現実が、陽太の心を押し潰していた。
朝、起きるのが辛くなった。授業に出ても、ただ座っているだけ。観察業務も最低限のことしかしない。記録も機械的で、以前のような詳細な分析は影を潜めた。
「綾瀬くん」
ある朝、香織が教室で声をかけてきた。
「最近、元気ないね」
「そうですか?」陽太は曖昧に答えた。
「心配してるよ」香織は優しく言った。「美咲も」
「大丈夫です」
陽太は形式的に答えて、視線を逸らした。二人の優しさが、今は重荷でしかなかった。
昼休み、陽太は一人で屋上に向かった。最近は、ここが唯一の居場所だった。誰にも会わずに済む。誰の期待も感じずに済む。
「また、ここか」
振り返ると、藤堂先生が立っていた。
「先生…」
「授業はどうした」
「すみません」
藤堂先生は溜息をついた。
「綾瀬、あなたは逃げている」
「逃げてなんかいません」陽太は反論した。「ただ…もう疲れただけです」
「疲れた?」
「はい」陽太は正直に言った。「観察して、記録して、それが役に立つと言われても…結局、僕は何も変えられない」
藤堂先生は黙って聞いていた。
「能力がない僕は、ただ見ているだけ」陽太は続けた。「それで満足しろと言われても、できません」
「そう」藤堂先生は静かに言った。「なら、しばらく休みなさい」
陽太は驚いた。叱られると思っていたのに。
「観察業務も、一時的に免除する」藤堂先生は続けた。「自分と向き合う時間が必要でしょう」
そう言って、先生は去っていった。
陽太は一人残され、空を見上げた。灰色の雲が広がっている。まるで自分の心のようだった。
2
観察業務から解放された陽太は、ますます孤立していった。
授業には出席するものの、発言することはなく、ただ黙って座っているだけ。美咲と香織も、距離を感じ取ったのか、無理に話しかけてこなくなった。
「綾瀬、大丈夫か?」
ある日、志村が声をかけてきた。
「別に」
「最近、様子がおかしいぞ」志村は心配そうに言った。「何かあったのか?」
「何もありません」
陽太は冷たく答えた。志村は複雑な表情で去っていった。
放課後、陽太は図書館に向かった。特に目的があるわけではない。ただ、静かな場所で時間を潰したかっただけだ。
いつもの席に座り、ぼんやりと窓の外を眺めていると、ふと視界の端に見覚えのある顔が映った。
図書館の入り口付近で、何人かの学生が話をしている。その中に、以前『虚無』のスパイだった人物に似た顔があった。
「まさか…」
陽太は目を凝らした。確かに、あの時のスパイに似ている。でも、なぜ学園内に?
しかし、すぐに興味を失った。どうせ自分には関係ない。誰かに報告したところで、また「憶測で騒ぐな」と言われるだけだ。
陽太は視線を逸らし、再び窓の外を見た。
その人物が図書館を出て行くのを、陽太は見なかったことにした。
3
数日後、寮の食堂で奇妙なことに気づいた。
最近入寮してきた学生たちの中に、どこか違和感のある者が数人いる。普通の学生のように振る舞っているが、食事の仕方、歩き方、視線の動かし方が微妙に違う。
陽太の観察眼は、無意識にそれらの違和感を捉えていた。
「また、スパイか…」
陽太は心の中で呟いた。でも、それがどうした?自分には関係ない。
食事を終えて席を立つと、その学生の一人と目が合った。相手は一瞬、鋭い視線を向けたが、すぐに普通の学生のような表情に戻った。
陽太は何も見なかったふりをして、食堂を出た。
廊下を歩きながら、陽太は考えた。もし本当に『虚無』のスパイなら、また学園が襲撃されるかもしれない。でも、それを報告したところで、信じてもらえるだろうか?
前回のように、自分で追跡する気力もない。人質になって、迷惑をかけるだけだ。
「もういい」
陽太は小さく呟いて、自室に戻った。
その夜、陽太は窓から外を眺めていた。遠くに学園の建物が見える。もし襲撃があったら、また多くの人が傷つくかもしれない。
でも、自分には何もできない。ただの傍観者でしかない。
陽太はカーテンを閉め、ベッドに横になった。明日も、何も変わらない一日が来るだけだ。
4
翌朝、陽太は重い気持ちで目を覚ました。
今日も学園に行かなければならない。意味のない時間を過ごすために。
身支度を整えて寮を出ると、廊下で数人の学生とすれ違った。昨日、食堂で見た違和感のある学生たちだ。
彼らは普通の会話をしているように見えたが、陽太の耳は無意識に彼らの言葉を拾っていた。
「…今夜、予定通り」 「了解。Bブロックで」 「転送装置の準備は?」
断片的な言葉が聞こえる。普通の学生の会話ではない。
陽太は立ち止まりそうになったが、すぐに歩き続けた。聞かなかったことにしよう。関わりたくない。
しかし、頭の中では自動的に情報が整理されていく。今夜、何かが起きる。Bブロック—それは研究施設がある区画だ。転送装置—『虚無』が使う脱出手段。
学園に着くと、いつもと変わらない光景が広がっていた。学生たちは普通に授業を受け、教員たちも平常通りに見える。
陽太は教室に入り、自分の席に着いた。窓際の席から外を眺める。平和な朝の風景。でも、その裏で何かが進行している。
「おはよう、綾瀬くん」
香織が声をかけてきた。最近は距離を置いていたが、今朝は心配そうな表情をしている。
「おはよう」
陽太は短く返事をした。
「ねえ」香織は小声で言った。「最近、学園の雰囲気が変じゃない?」
陽太は驚いた。香織も何かを感じ取っているのか。
「新しく入ってきた学生たち」香織は続けた。「なんか、違和感があるの」
「…気のせいじゃない?」
陽太は目を逸らした。香織の勘は鋭い。でも、巻き込みたくない。
「そうかな…」香織は不安そうに呟いた。
美咲も席に着き、授業が始まった。陽太はノートも取らず、ただ窓の外を見ていた。
今夜、何かが起きる。それはほぼ確実だ。でも、自分は何もしない。できない。
授業中、陽太は考え続けた。もし襲撃があったら、また多くの人が危険に晒される。前回のように、自分の情報があれば、被害を抑えられるかもしれない。
でも、誰が信じる?観察業務から外された無能力者の言葉を。
陽太は深く溜息をついた。
5
昼休み、陽太は一人で中庭のベンチに座っていた。
頭の中では、朝に聞いた会話の断片が繰り返し再生されている。今夜、Bブロック、転送装置…。
「やめよう」
陽太は自分に言い聞かせた。関わるな。また失敗する。また迷惑をかける。
しかし、視界の端で動くものを捉えた。例の学生たちが、中庭を横切っていく。彼らの動きは明らかに偵察のそれだ。警備の配置、カメラの位置、避難経路…全てを確認している。
陽太の観察眼は、意識とは関係なく、全ての情報を記録していく。人数、特徴、行動パターン、予想される能力…。
「くそ…」
陽太は頭を抱えた。見たくないのに、見えてしまう。知りたくないのに、分析してしまう。
これが、自分の呪いなのか。能力はないのに、見る力だけはある。でも、それを活かすことはできない。
午後の授業も、陽太は上の空だった。窓の外を見ながら、頭の中では『虚無』の作戦が組み立てられていく。
夕方6時頃、学生たちが帰宅する混乱に乗じて侵入。Bブロックの研究施設で何かを奪取。警備が駆けつける前に転送装置で脱出。
「…完璧な作戦だ」
陽太は小さく呟いた。普通なら成功する。でも、自分は知っている。彼らの弱点も、対策も。
放課後、陽太は早めに寮に戻った。もう関わりたくない。今夜何が起きても、自分には関係ない。
部屋に入り、カーテンを閉めた。外の世界を遮断する。
ベッドに横になり、目を閉じた。何も見たくない。何も聞きたくない。
しかし、時計の針が進むにつれ、不安が募っていく。
5時、5時半、6時…。
「始まる頃だ」
陽太は時計を見た。今頃、『虚無』のメンバーたちは行動を開始しているはずだ。
そして、学園の人々は何も知らずに、普通の夕方を過ごしている。
陽太は起き上がり、窓に近づいた。カーテンの隙間から外を覗く。まだ、平和な光景が広がっている。
でも、もうすぐ…。
6
午後6時15分。
遠くでサイレンが鳴り始めた。
「始まったか」
陽太は窓から外を見た。学園の方向から、煙が上がっている。予想通り、Bブロックの辺りだ。
警報が寮にも響き渡る。
「緊急事態発生。全学生は避難してください」
廊下が騒がしくなった。学生たちが慌てて避難を始めている。
陽太も仕方なく部屋を出た。避難しないわけにはいかない。
階段を降りていると、避難する学生の中に、朝見たスパイたちの姿があった。彼らは避難する学生を装いながら、実は別の目的で動いている。
陽太は無意識に彼らの行動を分析した。3人は本隊の支援部隊。2人は撤退ルートの確保係。1人は…内部から警備システムを無効化する役割。
「そうか、避難の混乱に乗じて…」
陽太は理解した。避難する学生に紛れることで、警備の目を逃れ、内部から学園のシステムに干渉する。巧妙な作戦だ。
避難所に到着すると、既に多くの学生が集まっていた。教員たちが点呼を取り、状況を説明している。
「また『虚無』か」 「研究棟が襲われてるらしい」 「能力者部隊が出動したって」
学生たちの不安な声が聞こえる。
陽太は隅の方に座り、目を閉じた。もう関わりたくない。
しかし、その時、違和感を感じた。避難所にいる学生の中に、本来いるはずのない顔がある。
目を開けて確認すると、やはりスパイの一人だった。避難所の警備配置を観察し、何かを小型の通信機で連絡している。
「避難所の内部情報を…」
陽太は理解した。次の襲撃に備えて、避難所の構造や警備体制を調査しているのだ。
周りを見渡すと、教員は全員、学生の安全確認で手一杯だ。誰もスパイの存在に気づいていない。
陽太は迷った。報告すべきか。でも、誰が信じる?前回も警告は無視された。
スパイは調査を終えたようで、別の場所へ移動し始めた。陽太は無意識にその後を目で追った。
スパイは避難所の非常口近くで立ち止まり、何かを仕掛け始めた。小さな装置のようだ。
「まさか…爆破装置?」
陽太は息を呑んだ。避難所を攻撃するつもりなのか。
しかし、よく観察すると、それは爆弾ではなく、小型の通信妨害装置だった。非常時の通信を遮断するためのものだ。
「次の襲撃の準備か」
陽太は理解した。避難所の通信を妨害すれば、支援要請ができなくなる。
誰かに知らせるべきだ。でも…。
陽太は周囲を見回した。近くにいた教員に声をかけようとしたが、言葉が出なかった。どうせ信じてもらえない。憶測だと言われる。
結局、陽太は何も言わなかった。ただ、スパイの行動を記憶に焼き付けただけだった。
7
戦闘は長引いているようだった。避難所では、不安な時間が続いている。
「大丈夫かな、美咲と香織」
誰かが心配そうに言った。そういえば、二人の姿が見えない。戦闘に参加しているのだろうか。
陽太は不安を感じたが、すぐに打ち消した。自分が心配したところで、何ができる?
「臨時ニュースです」
避難所のスピーカーから、アナウンスが流れた。
「現在、能力者部隊が『虚無』と交戦中です。一般学生は引き続き避難所で待機してください」
しかし、戦況は芳しくないようだった。能力者部隊が苦戦しているという噂が流れ始めた。
「『虚無』の新型能力者がいるらしい」 「かなり強力みたいだ」 「このままじゃ、突破されるかも」
不安が広がる中、陽太は考えていた。自分が持っている情報…スパイたちの配置、能力、作戦パターン。それらを伝えれば、状況は変わるかもしれない。
でも、どうやって?誰に?
その時、避難所に一人の教員が駆け込んできた。戦闘で負傷したらしく、腕から血が流れている。
「増援を…要請しないと」
教員は通信機を取り出したが、うまく作動しない。
「なぜだ…通信が…」
陽太は理解した。さっきスパイが仕掛けた妨害装置が作動しているのだ。
教員は必死に通信を試みるが、無駄だった。このままでは、支援要請ができない。
陽太は立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。
関わるな。また失敗する。また迷惑をかける。
でも…。
陽太は葛藤した。このまま見ているだけでいいのか。自分の情報があれば、少しは役に立つかもしれない。
しかし、前回の失敗が脳裏をよぎる。誰も信じてくれなかった。人質になって、迷惑をかけた。
「やめよう」
陽太は目を閉じた。自分は無力だ。何もできない。何もすべきではない。
8
しかし、状況は悪化の一途をたどった。
「医療班を呼べ!負傷者が出た!」
避難所に新たな連絡が入った。能力者部隊に負傷者が出たようだ。しかし、通信妨害のせいで、詳しい状況がわからない。
「誰か、医療棟まで走って!」
教員の一人が叫んだ。しかし、外は戦闘中で危険だ。
その時、陽太は気づいた。医療棟への最短ルートは、戦闘区域を通らなくても行ける。スパイたちの配置を見ていたから、安全なルートがわかる。
でも、その情報を伝えるべきか?
陽太は迷った。また、憶測だと言われるかもしれない。信じてもらえないかもしれない。
結局、陽太は黙っていた。
誰かが勇気を出して、医療棟へ向かった。しかし、選んだルートは遠回りで、時間がかかる。
負傷者の容態が心配された。早く医療班が来なければ…。
陽太は罪悪感に苛まれた。自分が情報を伝えていれば、もっと早く医療班を呼べたかもしれない。
でも、今更遅い。
時間が経つにつれ、戦況はさらに悪化した。『虚無』の新型能力者の力は予想以上で、学園の能力者部隊は押され気味だった。
「このままでは、研究データが奪われる」
誰かが不安そうに言った。
陽太は、morning聞いた会話を思い出した。『虚無』の目的は、研究データの奪取。それも、能力増幅に関する極秘データ。
もしそれが奪われたら、『虚無』はさらに強大になる。
でも、自分には関係ない。そう言い聞かせても、不安は消えなかった。
9
突然、避難所が静かになった。
外の戦闘音が止んだのだ。一瞬の静寂の後、誰かが叫んだ。
「勝った!学園が勝ったんだ!」
安堵の声が広がった。しかし、すぐに別の情報が入ってきた。
「いや、違う。『虚無』が目的を達成して撤退したらしい」
「データが奪われたのか?」
混乱する情報の中、陽太は黙って座っていた。結局、最悪の事態になってしまった。
やがて、避難解除の放送が流れた。学生たちは重い足取りで、寮へと戻り始めた。
陽太も流れに従って避難所を出た。外に出ると、戦闘の爪痕が生々しく残っていた。
研究棟の一部が破壊され、煙がくすぶっている。地面には能力による攻撃の跡が残り、ところどころガラスが割れていた。
「ひどい…」
誰かが呟いた。
陽太は無言で歩き続けた。もし、自分が事前に警告していたら。スパイの存在を報告していたら。通信妨害装置のことを伝えていたら。
いくつもの「もし」が頭を巡る。でも、今更考えても遅い。
寮に戻る途中、美咲と香織に出会った。二人とも疲れ切った様子で、服には戦闘の跡が残っていた。
「綾瀬くん…」
香織が声をかけようとしたが、陽太は目を逸らして通り過ぎた。
二人と話す資格はない。自分は何もしなかった。ただ見ているだけだった。
部屋に戻ると、陽太はベッドに倒れ込んだ。
今夜、多くの人が傷つき、重要なデータが奪われた。そして自分は、それを防げたかもしれない情報を持ちながら、何もしなかった。
「これでよかったんだ」
陽太は自分に言い聞かせた。無能力者の自分が下手に動いても、また迷惑をかけるだけ。何もしないのが正解だった。
でも、心の奥底では、別の声が響いていた。
本当にそうなのか?本当に、何もしないことが正しかったのか?
陽太は枕に顔を埋めた。答えは出ない。ただ、虚しさだけが残った。
10
翌朝、学園は重苦しい雰囲気に包まれていた。
昨夜の襲撃で、研究データの一部が奪われたことが公式に発表された。幸い、死者は出なかったものの、負傷者は十数名に上った。
教室でも、学生たちの表情は暗かった。
「また『虚無』にやられたな」 「警備を強化してたはずなのに」 「内通者でもいたんじゃないか?」
陽太は、その言葉にドキリとした。内通者…ある意味、その通りだった。スパイは堂々と学園内を歩き回っていた。
自分は知っていた。でも、何もしなかった。
「綾瀬くん」
美咲が話しかけてきた。昨日の今日で、まだ疲れが残っているようだ。
「昨日は、大変だったね」
陽太は頷くだけで、言葉を返さなかった。
「実は…」美咲は声を潜めた。「昨日の襲撃、やっぱり内部に協力者がいたみたい」
陽太は顔を上げた。
「避難所に紛れ込んでいたスパイがいたって」美咲は続けた。「通信妨害装置も見つかったの」
やはり、そうだったのか。陽太が見ていたことは、全て事実だった。
「もし事前にわかっていたら…」美咲は悔しそうに言った。「防げたかもしれないのに」
陽太は何も言えなかった。事前にわかっていた。全て見ていた。でも、何もしなかった。
美咲は陽太の様子を心配そうに見つめたが、それ以上は何も言わずに席に戻った。
授業が始まったが、陽太は内容が頭に入らなかった。
自分は知っていた。警告することもできた。でも、しなかった。
その結果、多くの人が傷つき、重要なデータが奪われた。
これは、自分の責任なのか?いや、違う。自分には責任などない。ただの傍観者なのだから。
でも、それなら、なぜこんなに苦しいのか。
11
昼休み、陽太は図書館にいた。
いつもの席で、何をするでもなく座っている。窓の外を見ても、心は晴れない。
ふと、視線を感じて顔を上げると、田中教授が立っていた。
「綾瀬くん」
「教授…」
「隣、いいかな」
陽太は頷いた。教授は静かに座った。
「昨夜のこと、聞いたよ」教授は穏やかに言った。「大変だったね」
「はい…」
「君は、何か気づいていたんじゃないか?」
陽太は驚いて顔を上げた。なぜわかったのだろう。
「観察者の目は、騙せないものだ」教授は微笑んだ。「特に、君のような才能を持つ者の目は」
陽太は俯いた。認めたくなかった。
「でも、言わなかった」教授は続けた。「なぜだろう?」
「…どうせ、信じてもらえないから」
陽太は正直に答えた。
「前にも、警告したことがある。でも、憶測だと言われた。だから、もう…」
教授は黙って聞いていた。
「それに」陽太は続けた。「僕は無能力者です。戦えない。守れない。ただ見ているだけ。そんな人間の言葉に、価値なんてない」
長い沈黙が流れた。
「綾瀬くん」教授はゆっくりと口を開いた。「君は、自分の価値を見失っている」
「価値なんて…」
「ある」教授は断言した。「君が昨夜、何もしなかったことで、確かに被害は出た。でも、それは君の責任ではない」
陽太は顔を上げた。
「君は、システムの問題に巻き込まれているんだ」教授は続けた。「観察者の声が軽視される。それは、この学園の、いや、この社会の問題だ」
12
「でも、それなら、なおさら」教授は続けた。「君のような人間が必要なんだ」
「僕のような?」
「そう。見る力を持ち、記録する能力を持つ者が」
教授は窓の外を見ながら言った。
「知っているかい?君の曽祖父、綾瀬総一郎のことを」
陽太は驚いた。曽祖父の名前を教授が知っているとは。
「彼は言っていた。『記録者の真の価値は、誰にも知られないところにある』と」
教授の言葉に、陽太は息を呑んだ。
「派手な活躍は必要ない。ただ、見て、記録して、必要な時に伝える。それが記録者の使命だと」
「でも、昨日僕は…」
「伝えなかった。そうだね」教授は頷いた。「でも、それは失敗ではない。学びの機会だ」
陽太は黙って聞いていた。
「記録者の仕事は、孤独だ」教授は続けた。「認められることも少ない。でも、彼らがいなければ、真実は失われてしまう」
教授は立ち上がった。
「さて、私は行くよ。ああ、そうそう」
教授は振り返った。
「蓮見学園長が君に会いたがっていた。時間があったら、学園長室に寄ってみるといい」
そう言って、教授は去っていった。
陽太は一人、図書館に残された。教授の言葉が、心に響いていた。
13
学園長室のドアを叩くと、すぐに返事があった。
「入りなさい」
陽太が中に入ると、蓮見学園長は大きな窓の前に立っていた。
「綾瀬くん、来てくれたか」
「はい…」
「座りなさい」
陽太は勧められた椅子に腰を下ろした。学園長も向かいの席に着く。
「昨夜のことだが」学園長は切り出した。「興味深い報告を受けてね」
陽太は身構えた。
「避難所で、通信妨害装置が発見された。設置されてから、それほど時間が経っていなかったようだ」
「…」
「不思議なことに、その近くで、ある学生が目撃されている」
陽太の心臓が跳ねた。まさか、自分が疑われているのか?
「君だよ」
学園長の言葉に、陽太は顔を上げた。
「誤解しないでほしい」学園長は微笑んだ。「君を疑っているわけではない。むしろ、逆だ」
「逆?」
「君は、その装置に気づいていたんじゃないかな?」
陽太は答えられなかった。
「そして、スパイの存在にも」
学園長の鋭い眼差しが、陽太を見つめている。
「でも、報告しなかった。なぜだろう?」
陽太は俯いた。
「信じてもらえないと思ったから…」
「なるほど」学園長は頷いた。「確かに、前回の件もある。君の気持ちは理解できる」
沈黙が流れた。
「綾瀬くん」学園長は再び口を開いた。「君の観察業務への復帰を許可する」
陽太は驚いて顔を上げた。
「ただし、条件がある」
「条件…ですか?」
「二度と、見たことを隠さないこと」学園長の目が真剣になった。「たとえ信じられなくても、報告すること。それが君の責任だ」
陽太は何も言えなかった。
「君の役割は、見ることだ」学園長は続けた。「そして、伝えることだ。それを忘れないように」
14
学園長室を出ると、廊下で美咲と香織が待っていた。
「綾瀬くん!」
香織が駆け寄ってくる。
「どうだった?」
「観察業務に…復帰することになった」
陽太は答えた。
「よかった!」香織が笑顔を見せる。
「でも」美咲が心配そうに言った。「大丈夫?まだ早いんじゃ…」
「大丈夫」陽太は首を振った。「もう、逃げない」
二人は顔を見合わせた。
「綾瀬くん…」
「昨日のこと」陽太は続けた。「僕は、スパイの存在に気づいていた」
二人の表情が変わった。
「でも、報告しなかった。信じてもらえないと思って。その結果、多くの人が傷ついた」
「それは…」香織が言いかけたが、陽太は手で制した。
「もう、同じ過ちは繰り返さない。見たことは、全て伝える。信じてもらえなくても」
陽太は二人を見つめた。
「それが、僕の役割だから」
美咲と香織は、しばらく陽太を見つめていた。
「わかった」美咲が頷いた。「私たちも、綾瀬くんを信じる」
「うん」香織も同意した。「一緒に頑張ろう」
三人は並んで歩き始めた。




