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第一章:傍観者

第一章:傍観者


綾瀬陽太は空を見上げていた。


明るい四月の青空の下、蒼城学園の巨大な正門が威圧的な影を落としている。黒い鉄の門柱に設置された青と銀の紋章が陽光を反射して、不思議な光を放っていた。


顕現けんげん…か」


その言葉を口にすると、どこか現実味がなかった。精神力を実体化させる能力。特別な才能を持つ者だけが行使できる、超常の力。それが「顕現」だ。


そして今、陽太は顕現者養成のための国立機関である蒼城学園の前に立っていた。


だが、陽太には顕現能力がない。


彼は全国適性検査でD判定を受けた「無能力者」だ。本来なら、この場所に立つ資格すらない。特別な計らいで入学を許されたに過ぎない。記録係として。観察者として。決して実践者としてではなく。


陽太はもう一度深呼吸して、学生証を握り締めた。その角が手のひらに食い込む感覚が、これが夢ではないという現実を教えてくれる。


「行くか…」


自分に言い聞かせるように呟き、重い鉄の門をくぐった。


入学式は既に終わっていた。陽太の入学手続きが特殊だったため、正規の入学式には参加できなかったのだ。代わりに今日、特別オリエンテーションが行われる予定だった。


広大なキャンパスに足を踏み入れると、すぐに異質な空気を感じた。普通の高校とは明らかに違う。歩いている学生たちの表情や身のこなし、何もかもが違っていた。その多くが顕現能力者—「能力者」だ。彼らの周りには、微かに色のついたオーラのようなものが見える気がした。それが気のせいだとわかっていても、陽太は彼らとの圧倒的な差を感じずにはいられなかった。


案内された中央棟に向かって歩いていると、遠くで何かが光った。クラウンプラザと呼ばれる中央広場だ。そこでは何かが起きているらしく、学生たちが大きな円を作って取り囲んでいた。


好奇心に負けた陽太は、足を止めて様子を見ることにした。


「どけどけ!新入生通るよ!」


突然、背後から声がして、誰かが陽太の肩をつかんだ。振り返ると、明るい茶色の髪を持つ小柄な女子学生がいた。


「あ…ごめん」


陽太が慌てて道を開けると、彼女はニコリと笑って駆け足で広場に向かって走っていった。彼女のボブヘアが陽光を反射して輝いていた。カラフルな小物で飾られたバッグが揺れる。それは何か、この場に不釣り合いなほど鮮やかで生き生きとしていた。


「…香織、待てって」


もう一人の女性が小走りで追いかけてきた。肩までの黒髪にソフトなウェーブがかかり、美しく整った顔立ちの学生だ。彼女は陽太の前で足を止め、軽く頭を下げた。


「すみません、友達が迷惑をかけたみたいで」


「あ、いえ…大丈夫です」


彼女はお辞儀をして、先ほどの茶髪の女子を追った。二人の背中を見送りながら、陽太は奇妙な既視感を覚えた。どこかで見たような…。二人の姿が視界から消えると同時に、広場から大きな歓声が上がった。


好奇心に負けた陽太も、人混みに近づいていった。


クラウンプラザの中央に二人の学生が立っていた。先ほど陽太の前を通り過ぎた二人だ。彼女たちの周りには独特のオーラが漂っていた。他の学生たちとは明らかに違う、強烈な存在感だった。


「よーし、じゃあ始めようか!」


茶髪の少女—さきほど「香織」と呼ばれていた彼女が元気よく声を上げた。


「若林、やりすぎないでね」


対面に立っていたのは、黒髪の少女だった。彼女の声は落ち着いていて、どこか大人びていた。


「わかってるって、美咲!でもせっかくだし、ちょっとだけ本気出しちゃおうかな♪」


香織と呼ばれた少女—若林香織が腕を伸ばすと、彼女の周りの空気が揺らめいた。それは目の錯覚ではない。実際に空気が波打ち、彼女の手から何かが形作られ始めた。


最初はぼんやりとした光の粒子だったものが、次第に形を成していく。武器…刀だ。それも一本ではない。二本、三本…次々と現れては宙に浮かぶ。


「千変万化—具現領域ぐげんりょういき!」


香織の声と共に、彼女の周りに十数本の武器が具現化した。刀、斧、槍、そして陽太が名前を知らないいくつもの武器。まるで空中に浮かぶ武器の展示室のようだった。


観衆から歓声が上がる。


「一年生にあの能力は反則だろ…」 「さすが若林だな」 「なんであの二人はいつも一緒にいるんだろう」


周囲の学生たちがざわめく中、陽太は息を呑んだ。これが顕現能力か。教科書で読んだものが、目の前で現実になっている。


「私の番ね」


対面の美咲—倉田美咲が静かに言った。彼女は両手を広げ、深く息を吸い込んだ。瞬間、彼女の周りの空間が歪んだように見えた。青い光の輪が地面に描かれ、ゆっくりと膨張していく。


「絶対領域—境界拡張」


美咲の声は静かだったが、その効果は劇的だった。青い光の輪は半径5メートルほどに広がり、その内側の空気が濃くなったように見える。まるで水中のような、密度の高い空間が出現した。


香織が浮かべていた武器のいくつかが、突然その青い領域の中に引き込まれた。そして驚くべきことに、それらは動きが極端に遅くなったのだ。まるで重力が10倍になったかのように。


「そんなの卑怯だよ、美咲!」


香織が笑いながら抗議する。彼女は残りの武器を操り、美咲に向けて放った。それらは光の軌跡を残して飛んでいくが、青い領域に入った瞬間に急減速した。まるで蜜の中を進むように、ゆっくりと動いている。


「ルールは知ってるでしょ」


美咲は微笑みながら、領域の中をすいすいと動いた。彼女にとっては、その空間は全く影響がないようだ。彼女は減速した武器をいとも簡単に避け、香織に近づいていく。


「うーん、じゃあこれはどう?」


香織は両手を叩き合わせ、残りの武器を光の粒子に戻した。そして新たな形を作り始める—巨大な鳥だ。翼を広げた鷹のような姿が具現化し、彼女の隣に立った。


「具現『飛翔』!」


鳥は翼を広げ、香織を背中に乗せると、地上から5メートルほど舞い上がった。青い領域の上空へと逃れたのだ。美咲は見上げて笑った。


「あなたらしいわ」


「でしょ?これで私の勝ちだね!」


香織が得意げに宣言すると、美咲は静かに手を上げた。


「まだよ」


彼女の青い領域が突然上空へと伸び、柱のような形になった。香織と彼女の鳥を包み込む。途端に翼の動きが鈍り、二人はゆっくりと降下し始めた。


「わあ!」


香織の驚きの声に、観衆から笑いと歓声が上がる。


陽太は息をするのも忘れて見入っていた。教科書で読んだ説明が、全く追いつかない光景だった。これが本当の顕現能力…。彼の知識では、美咲の能力は「空間操作系」、香織のは「実体変換系」に分類されるはずだ。どちらもA級以上の稀少能力と言われている。


しかし、彼女たちの使い方は教科書の枠を超えていた。まるで生まれながらに使いこなしているかのような自然さ。そして何より、二人がこれを楽しんでいるということが驚きだった。


「降参〜!負けたよ、美咲」


青い光の中でゆっくりと降下する香織が両手を上げた。美咲は満足げに頷き、空間への影響を解除した。光の輪が消え、香織の具現化した鳥も光の粒子となって消えていく。


観衆から大きな拍手が起こった。


「さすが倉田・若林コンビだな」 「二人とも一年なのに、あのレベルってヤバくない?」 「大会が今から楽しみだ」


陽太は周囲のざわめきを聞きながら、彼女たちの名前を記憶した。倉田美咲と若林香織。何かの有名人なのだろうか?入学したての一年生にしては、みんなが知っているような様子だ。


「あれ?あなた新入生?」


突然、視界に顔が割り込んできた。香織だ。彼女は人混みを掻き分けて、陽太の前まで来ていた。


「そ、そうです…」


「やっぱり!さっきはごめんね」彼女は明るく笑った。「私、若林香織。一年A組!よろしくね!」


「あ、はい…綾瀬陽太です。一年…」クラスはまだ知らされていなかった。「今日から入学します」


「ふーん」香織は陽太をじっと見つめた。「あなた、顕現能力は?」


突然の質問に、陽太は言葉に詰まった。彼女の視線に熱いものを感じる。


「あの、香織」


美咲が静かに近づいてきた。「あまり詮索しないで」


「え?でも気になるじゃん」


「失礼よ」美咲は陽太に向かって軽く頭を下げた。「私は倉田美咲。一年A組です」


「…綾瀬陽太です」陽太は再び自己紹介をした。


二人の視線の先で、彼は自分が場違いな存在に思えた。この二人は明らかに特別だ。能力も容姿も、そして佇まいも。翻って自分は…。


「あのさ、もしかして…」


香織が何か言いかけたとき、学園の鐘が鳴り響いた。


「あ、もう時間だ」美咲が腕時計を確認した。「行きましょう、香織」


「うん!」香織は元気よく返事をした。「じゃあね、綾瀬くん!また会おうね!」


二人は人混みの中に消えていった。残された陽太は、初めて自分が深く息をしていなかったことに気づいた。彼女たちの存在感は、それほど圧倒的だった。


もうすぐ特別オリエンテーションの時間だ。陽太はポケットの学生証を握りしめ、中央棟へと歩き始めた。体の奥底で何かが揺れている感覚。それが興奮なのか不安なのか、彼自身にもわからなかった。


「綾瀬陽太くんだね」


校長室で、蓮見龍哉学園長が温和な笑顔で陽太を迎えた。大きな窓から差し込む陽光に照らされて、彼の白髪が銀色に輝いていた。五十代半ばだろうか、穏やかな表情の中に鋭さを秘めた瞳が印象的な男性だった。


「は、はい」


陽太は緊張して返事をした。校長室は広く、壁一面に本棚が並んでいる。ガラスケースには様々な記念品や賞状が飾られていた。蒼城学園の歴史がここに詰まっているようだった。


「座りたまえ」


蓮見学園長は手で椅子を示した。陽太がおずおずと腰掛けると、学園長は机の上の書類に目を通し始めた。


「君は…特別ケースでの入学だね」


「はい」


陽太は固く頷いた。つい視線を落としてしまう。彼のD判定の適性検査結果が、そこに書かれているのだろう。


「まずは、蒼城学園へようこそ」学園長は穏やかに言った。「この学園は国内でも最高峰の顕現者養成機関だ。毎年、全国から選りすぐりの能力者が集まってくる」


陽太は黙って聞いていた。選りすぐりの中に、自分が入る余地がないことは明らかだった。


「しかし」学園長は続けた。「能力だけが全てではない。我々が求めているのは、未来を形作る人材だ。それは必ずしも強大な顕現能力を持つ者だけとは限らない」


陽太は顔を上げた。学園長の表情には嘘や偽りは見えない。だが、それでも…。


「綾瀬くん、君には特別な役割を担ってもらいたい」


「特別な…役割、ですか?」


「そう」学園長は頷いた。「君は『記録者』として入学を許可された。能力者の戦闘や訓練、発展を詳細に観察し、記録する役割だ。蒼城学園の歴史上、こういった形での入学は非常に稀なケースだよ」


陽太は混乱していた。適性検査でD判定を受けた無能力者が、なぜこんな特別扱いを受けるのか理解できない。


「でも、なぜ僕なんですか?他にも…」


「君の観察力と記述能力は特筆すべきものがある」学園長は即座に答えた。「全国模試の小論文で満点を取った分析力。そして何より、物事を多角的に見る視点を持っている」


「それだけで…?」


学園長は微笑んだ。「能力者の能力開発には、客観的な視点が不可欠なんだよ。当事者は気づかない変化や可能性を見出すことが、時に最も重要になる」


陽太はまだ半信半疑だった。これは単なる同情ではないのか?無能力者への憐れみではないのか?


「君は明日から、一年A組に所属することになる」学園長は続けた。「そこには、先ほど出会った倉田さんと若林さんもいるよ」


「え?」陽太は驚いた。「さっきの二人と同じクラスですか?」


「ああ、君は既に彼女たちと会ったのかな?」学園長は意外そうな表情をした。「倉田美咲と若林香織は今年の新入生の中でも、特に顕著な能力を持つ学生だ。彼女たちの能力発展を記録することは、君の重要な役割の一つになるだろう」


陽太は頭の中で先ほどの光景を思い返していた。あの二人の能力は確かに特別だった。しかし、そんな二人を記録する役割など…自分にはとても荷が重いように思えた。


「心配することはない」蓮見学園長は、陽太の不安を察したように言った。「最初は観察と記録だけで良い。詳細なマニュアルや先輩の記録などもあるから、それを参考にするといい」


「はい…」


陽太は不安を隠せないままに応えた。学園長は机から一冊の分厚いノートを取り出し、陽太に手渡した。


「これが君専用の記録ノートだ。特殊な紙でできていて、顕現能力の波動を感知し記録できる特性がある。使い方は後ほど担当教員から説明があるだろう」


硬い革張りのノートを受け取ると、意外な重みを感じた。表紙には「蒼城学園能力記録簿」と金色の文字が刻まれている。


「最後に一つ」学園長は真剣な表情になった。「君の役割は非常に重要だが、残念ながら全ての学生がそれを理解しているわけではない。時に辛いこともあるかもしれない。しかし、決して諦めないでほしい」


陽太は黙って頷いた。学園長の言葉の意味は痛いほど理解できた。無能力者への差別や偏見は、社会の中でも根強く残っている。ましてや能力者エリートの集まる蒼城学園では、なおさらだろう。


「ありがとうございます」陽太は静かに言った。「頑張ります」


学園長は満足げに微笑んだ。


「では、次は担当教員の藤堂先生に会いに行こう。彼女が詳しく説明してくれるはずだ」


「え?あなたが記録係?」


藤堂舞子は眉を寄せて、陽太を見下ろした。三十代前半の女性教師は、黒縁の眼鏡の奥から鋭い視線を向けてきた。


「は、はい…」


教務室の片隅で、陽太は居心地の悪さを感じていた。他の教員たちも時折好奇の目で彼を見ている。


「蓮見先生から説明は受けていたけど…」藤堂先生は溜息をついた。「正直、私はこの特別枠には反対だったのよ」


陽太は黙って俯いた。やはりそうか。


「実力主義の蒼城で、能力もない学生を入れるなんて…」彼女は言葉を切った。「まあいいわ。決まったことだし」


藤堂先生は手元の資料に目を通した。


「あなたは一年A組。私が担任よ。教室に案内するわ」


陽太はノートを抱えたまま立ち上がった。藤堂先生は早足で廊下を進み、陽太はその後を必死で追った。


「A組は特進クラスよ。最も優秀な学生が集められている」


「特進…ですか」


「そう。だから、あなたはかなり浮くことになるでしょうね」


遠慮のない言葉に、陽太は返す言葉が見つからなかった。


「学園長があなたを選んだ理由はわからないけど」藤堂先生は歩きながら言った。「私のクラスでは、能力がなくても実力がなくても、甘やかすことはしないわ」


「はい…」


「記録係は大変な役割よ。膨大な情報を収集し、分析し、まとめなければならない。特に倉田と若林の能力は複雑だから…」


「倉田さんと若林さんについては…」


「ああ、もう会ったのね」藤堂先生は少し意外そうな表情をした。「二人は今年の注目株よ。入学前から話題になっていた」


「そうなんですか?」


藤堂先生は立ち止まり、陽太を見た。


「知らないの?倉田美咲は国内最年少で「空間操作」の才能を開花させた天才よ。若林香織も同様に、「具現化」の分野では前例のない適性を持っている。二人とも中学時代から能力研究所で特別指導を受けていたのよ」


陽太は驚いた。そういえば、広場での二人の扱いは一年生とは思えないほど堂々としていた。


「二人の能力発展は国家レベルで注目されているの。だから、あなたの記録は非常に重要なものになる可能性がある」藤堂先生は真剣な表情で続けた。「それだけに、中途半端な仕事は許されないわ」


重圧を感じながらも、陽太は頷いた。


「ここよ」


藤堂先生が教室の前で立ち止まった。「一年A組」と書かれたプレートが掛かっている。廊下からでも、中の賑やかな声が聞こえてくる。


「準備はいい?」


「あ、はい…」


心の準備など全くできていなかったが、他に何と答えればいいのかわからなかった。藤堂先生はドアを開け、中に入った。途端に教室が静かになる。


「着席」


藤堂先生の声に、学生たちが慌てて席に戻った。


「今日から新しい仲間が加わります」藤堂先生は陽太を手で示した。「綾瀬陽太くん。特別枠での入学です」


教室の中が再びざわついた。「特別枠?」「どういうこと?」という声が聞こえる。


「彼は記録係として、皆さんの能力開発を観察し記録する役割を担います」藤堂先生は続けた。「特に倉田さんと若林さんの記録を担当することになります」


教室の後ろの方から、陽太に向けられた視線を感じた。見ると、倉田美咲が静かに彼を見つめていた。そのとなりで若林香織が大きく手を振っている。


「記録係?」「能力ないの?」「なんでわざわざ?」


ざわめきが大きくなる。藤堂先生が手を叩いて静かにさせた。


「それでは自己紹介をどうぞ」


陽太は緊張しながら前に立った。三十人ほどの視線が一斉に彼に向けられる。その視線の中には好奇心や驚き、そして明らかな軽蔑も混じっていた。


「あの…綾瀬陽太です。今日から…記録係として入学することになりました」


言葉に詰まりながらも、陽太は続けた。


「顕現能力はありません。でも、みなさんの能力開発のお役に立てるよう、精一杯頑張ります」


短い自己紹介を終えると、教室はしばらく静かだった。そして、ぼそぼそとした会話が始まった。


「能力なしって…」 「記録係って要するにお荷物じゃん」 「なんで蒼城に?」


陽太は視線を落とした。予想通りとはいえ、やはり辛い。


「綾瀬くんの席は…」藤堂先生が教室を見回した。「あそこ、一番後ろの窓側の席にしましょう」


陽太は頷き、示された席に向かって歩き始めた。学生たちの視線が彼を追う。その中には明らかに冷ややかなものもあった。


席に着くと、隣の席から声がかけられた。


「やっほー、綾瀬くん!」


振り向くと、若林香織が明るい笑顔で手を振っていた。


「よろしくね、隣の席!」


「あ…はい」


陽太は驚きながらも返事をした。香織の向こうには美咲が座っており、彼女も軽く会釈した。


「香織、授業中よ」美咲が静かに注意した。


「わかってるって」香織は小声で言い、陽太に向かってウインクした。


藤堂先生が授業を始め、教室は静かになった。陽太は机の上に置かれた記録ノートを見つめていた。まだ真っ白なページ。これから自分は何を記録することになるのだろう。


窓の外では、春の柔らかな風が木々を揺らしていた。陽太は深く息を吸い込んだ。これが自分の新しい日常の始まり。能力もなく、ただ傍観者として、記録者として過ごす日々。


彼はそっと手元のノートを開いた。一ページ目に、整然とした文字で日付を記入する。


「4月10日、蒼城学園入学。一年A組に配属。倉田美咲、若林香織の記録担当となる」


最初の一行を書き終えた時、肩の力が少し抜けた気がした。これが自分にできること。まずはここから始めよう。


蒼城学園の授業は、普通の高校とは全く異なっていた。


「顕現理論」「能力制御学」「応用実践」…陽太には理解できない専門用語が飛び交う。彼はできる限りノートに書き留めていたが、理解するのは難しかった。


昼休みになると、学生たちは各々のグループに分かれて行動を始めた。陽太はどこにも属せず、自分の席に留まっていた。


「綾瀬くん!」


香織の声に顔を上げると、彼女が美咲と一緒に彼の席に来ていた。


「一緒にお昼食べない?」香織が明るく誘った。


「え…いいんですか?」


陽太は戸惑った。クラスで唯一の無能力者である彼を、なぜ二人は誘うのだろう。


「もちろん」美咲が静かに答えた。「記録担当なんだから、私たちのことをもっと知っておくべきじゃない?」


「そうそう!」香織が頷いた。「それに、ランチタイムは楽しいほうがいいでしょ?」


陽太は少し考えてから、頷いた。「ありがとうございます」


三人は中庭に出て、大きな木の下でランチを広げた。香織はカラフルなお弁当箱から、色とりどりの料理を取り出していく。


「手作り?」陽太は思わず聞いた。


「うん!料理するの好きなんだ」香織は誇らしげに言った。「美咲のぶんも作ってるんだよ」


美咲は小さく微笑んだ。「香織の料理は本当に美味しいの」


「へえ…」


陽太は自分のコンビニ弁当を少し恥ずかしく思った。


「綾瀬くんは、どうして記録係になったの?」香織が好奇心いっぱいの目で尋ねた。


「香織…」美咲が制しようとしたが、陽太は首を振った。


「いえ、大丈夫です」彼は自分の弁当を開けながら言った。「正直、僕自身もよくわかりません。学園長が選んでくれたみたいですけど…」


「蓮見先生が?」美咲が興味を示した。「何か理由を?」


「観察力と記述能力が特筆すべきものだと」陽太は肩をすくめた。「でも、本当のところは…」


「本当のところは?」香織が身を乗り出した。


「無能力者への同情なんじゃないかと思います」


言葉にすると、思ったより苦しかった。二人は黙って彼を見つめていた。


「私はそうは思わないわ」


美咲が静かに言った。陽太は驚いて顔を上げた。


「蓮見先生はそんな人じゃない」彼女は続けた。「もし綾瀬くんを選んだなら、それなりの理由があるはずよ」


「そうだよ!」香織も同意した。「それに、記録係ってすごく大事な仕事じゃん。私たちの能力の進化を記録して、将来の研究に役立てるんでしょ?」


陽太は言葉に詰まった。彼女たちは自分を慰めようとしているのか、それとも本気でそう思っているのか。


「あの…二人は何故、僕と話してくれるんですか?」思い切って尋ねた。「クラスの他の人は…」


「他の人たちは馬鹿よ」美咲がはっきりと言った。「能力だけが全てじゃないわ」


「それに、綾瀬くん、面白そうだし!」香織が食べながら言った。「さっきの自己紹介、すごく緊張してたけど、頑張ってたよね」


陽太は複雑な気持ちになった。二人の優しさが嬉しい一方で、何か見透かされているような気もした。


「それで」美咲が話題を変えた。「記録はどうやるの?そのノート、特別なものなんでしょう?」


陽太は記録ノートを取り出した。「はい。顕現能力の波動を感知できる特殊な紙でできているそうです」


「へえ!見せて!」


香織が手を伸ばした瞬間、記録ノートが淡く光った。


「わあ!」香織が驚いて手を引っ込めた。「光った!」


「これは…」陽太も驚いた。「能力者が触れると反応するのかも」


「面白いわね」美咲も興味を示した。「でも、記録の方法は教わったの?」


「いえ、これから藤堂先生に教えてもらう予定です」


「藤堂先生は厳しいけど、いい先生よ」美咲が言った。「特に能力開発については」


「そうなんだ…」


陽太は二人の話を聞きながら、少しずつリラックスしていった。思いがけず、最初の友人ができたような気がした。しかし同時に、彼女たちのような特別な才能を持つ人々と自分との間にある圧倒的な差も痛感した。


「あ、もうすぐ午後の授業だ」美咲が腕時計を見て言った。「戻りましょう」


「うん!」香織は弁当箱を片付けながら陽太に笑いかけた。「また明日も一緒に食べようね!」


「あ、はい…ありがとうございます」


教室に戻る途中、何人かの学生たちが彼らを見て囁き合っていた。


「なんであの二人が無能力者と…」 「記録係だから仕方ないんじゃない?」 「でも、あんな親しそうに…」


陽太はそれらの言葉を聞かないふりをした。しかし内心では、自分が二人にとって厄介な存在になりかねないことを心配していた。


午後の最後の授業は「実践応用」だった。場所は中庭ではなく、特別訓練場と呼ばれる広大な屋外施設だった。


「ここが蒼城の主要訓練施設の一つよ」


藤堂先生が学生たちを案内した。広い芝生の広場、様々な障害物が設置されたコース、そしていくつかの対戦用アリーナが見える。


「今日は基礎評価を行います」藤堂先生は続けた。「各自の現在の能力レベルを測定し、今後の訓練計画を立てるためのものです」


学生たちは興奮して騒ぎ始めた。ついに実践的な能力の使用だ。


「綾瀬」


藤堂先生が陽太を呼んだ。


「はい」


「君は観察台から記録を取りなさい。始め方はさっき説明したとおりよ」


「わかりました」


陽太は少し離れた高台にある観察台へと向かった。そこからは訓練場全体が見渡せる。机と椅子が置かれ、記録用の設備も整っていた。


彼は記録ノートを開き、藤堂先生から教わった方法で準備を始めた。ノートの特殊な紙に特定のパターンで指を滑らせると、淡い光が広がり、能力の波動を感知する準備が整う。


下では学生たちが各自の能力を披露し始めていた。火を操る者、風を起こす者、物体を動かす者…様々な能力が飛び交う中、陽太は懸命に観察し、記録を取った。


「倉田美咲、評価開始」


藤堂先生の声が聞こえる。陽太は注目した。


美咲は静かに前に出て、両手を広げた。前回見たように、青い光の輪が地面に描かれ始める。


「絶対領域—境界固定」


彼女の声と共に、青い光の輪が固定された。その内側の空間は、わずかに色が変わって見えた。


「空間制御、開始」藤堂先生が指示を出す。


美咲は領域内の重力を操作し始めた。最初は軽く、そして次第に強く。設置されたセンサーが数値を表示する。学生たちがどよめいた。


「すごい…あれ、最大重力の4倍だ」 「一年生でこのレベルって…」


美咲はさらに領域を拡大し、内部の空間特性を変化させていった。彼女の能力は単純な重力操作だけではなく、空間そのものの性質を変えられるようだ。


「領域内時間減速、開始」


藤堂先生の次の指示に、美咲は深く集中した。領域内のデジタル時計の進みが、通常より遅くなっていく。時間操作—最も高度で稀少な能力の一つだ。


陽太は息をのみながら記録した。「絶対領域」という名前の通り、美咲は自分だけの絶対的な法則を持つ空間を創り出せるのだ。その応用範囲は計り知れない。


「十分です」藤堂先生が美咲を止めた。「次、若林香織」


美咲が領域を解除すると、香織が元気よく前に出た。


「千変万化—具現領域!」


香織の周りに、前回と同じように様々な武器が具現化した。しかし今回は武器だけでなく、盾、鎧、そして小さな動物のような形も見える。


「形状変換テスト、開始」


藤堂先生の指示に、香織は具現化したものを次々と変形させていった。刀が槍に、盾が鎧に、そしてより複雑な形へと変わっていく。


「動作連動テスト、開始」


次の指示で、香織は具現化した鳥のような形を自分の腕に融合させた。彼女の腕から翼が生え、実際に動く。これは高度な技術だ。


「すごい!」 「具現物と自分を一体化させるなんて…」


学生たちが驚嘆の声を上げる。香織は笑みを浮かべながら、次々と新しい形を創り出していた。


陽太は夢中で記録を続けた。美咲の能力が空間の法則を操作するものなら、香織の能力は想像を形にする力だ。二人とも、教科書で読んだA級能力者を遥かに超える才能を持っている。


最後に二人による合同演習があった。美咲の絶対領域の中で、香織が具現化した物体がどう反応するか、という実験だ。二人の連携は驚くほど自然で、まるで長年一緒に訓練してきたかのようだった。


「これで基礎評価を終わります」藤堂先生が全体に告げた。「各自の評価結果は後ほど通知します」


学生たちが解散し始める中、陽太は記録ノートの最後のページを埋めていた。今日だけで30ページ近くの記録ができていた。特に美咲と香織の能力について、できる限り詳細に記述した。


「どう?記録は捗った?」


振り返ると、藤堂先生が観察台に上がってきていた。


「はい」陽太は頷いた。「できる限り詳しく書きました」


藤堂先生は陽太のノートを手に取り、ページをめくった。彼女の表情が少しずつ変わっていく。


「これは…かなり詳細な観察ね」


彼女は驚いたように陽太を見た。


「倉田の能力使用時の呼吸パターンや、若林の具現化前の精神集中の様子まで記録してる…」


「気になったので…」陽太は少し恥ずかしそうに言った。「無駄でしたか?」


「いいえ」藤堂先生は首を振った。「むしろ驚くほど有用よ。こんな細かい観察ができるなんて…」


彼女は何か言いかけてから、表情を元に戻した。


「まあ、初日としては悪くないわ。このままの調子で続けなさい」


「はい、ありがとうございます」


藤堂先生が去った後、陽太は自分のノートを見直した。美咲と香織の能力発動時の微細な変化や反応パターンを、図や表を使って記録していた。彼自身、こんなに詳細に観察できたことに少し驚いていた。


いつの間にか、夕暮れが近づいていた。陽太はノートを閉じ、学園の建物へと戻り始めた。


初日は予想以上に濃密だった。圧倒的な能力を持つ学生たち、特に美咲と香織の存在。自分には決して持つことのできない力。そんな彼女たちを記録するという役割。


陽太にはまだ、自分がここにいる本当の意味が掴めなかった。でも、少なくとも今日一日、自分にもできることがあったと思いたかった。


「お疲れ様、綾瀬くん!」


下校時間、香織が明るく声をかけてきた。その隣には美咲もいた。


「あ、お二人も…お疲れ様です」


「記録、大変だった?」美咲が尋ねた。


「いえ…」陽太は首を振った。「むしろ、すごく興味深かったです。二人の能力は本当に特別ですね」


香織が嬉しそうに笑った。「ありがとう!でも、まだまだこれからだよ。もっとすごいことができるようになるから、しっかり記録してね!」


「はい、頑張ります」


三人は校門まで一緒に歩いた。陽太は少し緊張しながらも、二人と話せることに安堵感を覚えていた。


「ねえ、綾瀬くんはどこに住んでるの?」香織が尋ねた。


「南学生寮です」


「あら、私たちも南寮よ」美咲が言った。「何号室?」


「304号室です」


「私たち311と312だから、近いね!」香織が嬉しそうに言った。「明日の朝、一緒に登校しない?」


「え?いいんですか?」


「もちろん」美咲が頷いた。「7時半に寮のロビーで待ち合わせましょう」


「ありがとうございます」


陽太は小さく笑った。思いがけず、学校でも寮でも二人と近いことに少し運命を感じた。


「じゃあ、またね!」


香織が手を振り、美咲と共に先に進んでいった。陽太はしばらくその背中を見送っていた。


南学生寮は学園から徒歩15分ほどの場所にあった。男子棟と女子棟に分かれており、陽太は男子棟の自室へと向かった。


304号室。シンプルな一人部屋だが、必要な設備は整っている。机、ベッド、クローゼット、そして小さなバスルーム。陽太は荷物を置き、深く息をついた。


「初日、終了…」


彼はベッドに倒れ込んだ。興奮と緊張で、今までどれだけエネルギーを使っていたのか実感した。


しばらくして身体を起こし、机に向かった。記録ノートを広げ、今日の観察を整理し始める。特に気になったのは、美咲と香織の能力の相互作用だった。


「美咲さんの『絶対領域』内で香織さんの具現物が変質する現象…これは単なる空間属性の変化なのか、それとも能力同士の共鳴なのか…」


彼は考えながらメモを取り続けた。気がつけば、部屋の外は完全に暗くなっていた。


「もう9時か…」


陽太は伸びをして、窓の外を見た。南学生寮からは蒼城学園のシルエットが見える。月明かりに照らされた校舎が、どこか神秘的に見えた。


明日からが本格的な学園生活の始まりだ。無能力者として、記録係として、どこまでやっていけるのか。美咲と香織のように受け入れてくれる人もいれば、冷たい視線を向ける人もいる。


最後に記録ノートの日誌欄に書き込んだ。


「初日を終えて。倉田美咲と若林香織の能力は予想を遥かに超えるものだった。私には決して持つことのできない力。それを記録するという役割が自分にとってどんな意味を持つのか、まだわからない。でも…」


陽太は一瞬考え、続けて書いた。


「でも、彼女たちの力の進化を見届けることができるのは、ある意味特権なのかもしれない。明日も、できる限りの観察を続けよう」


ノートを閉じ、陽太はシャワーを浴びてから就寝の準備をした。初日にしては充実した一日だった。不安も多いが、少しだけ期待も芽生えている。


明日は何が起きるだろう。二人の能力は更に発展するのか。自分は本当に役に立てるのか。


そんな考えを巡らせながら、陽太は目を閉じた。記録ノートの特殊な紙が、微かに光を放っていることに気づかないまま。


「おはよう、綾瀬くん!」


翌朝、南学生寮のロビーで香織が元気よく手を振っていた。美咲も隣に立っている。二人とも制服姿だが、香織はカラフルなヘアピンやブレスレットで個性を出していた。一方の美咲はシンプルながらも洗練された印象だ。


「おはよう…ございます」


陽太は少し緊張しながら二人に近づいた。


「ちゃんと来てくれたね!」香織が嬉しそうに言った。「実は美咲、『来ないかも』って言ってたんだよ」


「香織!」美咲が困ったように抗議した。「そんなこと言ってないわ。ただ、プレッシャーをかけないほうがいいかなって…」


「ごめんなさい」陽太は申し訳なさそうに言った。「迷惑でしたか?」


「そんなことないわ」美咲は穏やかに微笑んだ。「一緒に行きましょう」


三人は学園へと向かった。朝の光が街を明るく照らし、新学期の活気が感じられる。


「昨日の記録、大変だったでしょ?」美咲が尋ねた。


「いえ」陽太は首を振った。「むしろ…楽しかったです」


「楽しかった?」美咲は少し驚いた様子だった。


「はい。二人の能力を観察するのは、本当に興味深くて…」陽太は少し恥ずかしそうに言った。「特に二人の能力が相互作用する場面は、教科書には載っていない現象ばかりで」


「へえ!」香織が目を輝かせた。「どんなところが?」


「例えば…」陽太は少し考えてから言った。「美咲さんの絶対領域内で香織さんの具現物が変質するとき、通常の物理法則では説明できない現象が起きています。美咲さんが時間減速を適用した空間では、香織さんの具現物は時間の影響を部分的にしか受けていない。これは二つの能力が単純な重ね合わせではなく、何らかの共鳴を起こしているからではないかと…」


二人は黙って陽太を見つめていた。


「あ、すみません。つまらないことを…」


「いいえ、違うわ」美咲が真剣な表情で言った。「その観察、とても鋭いと思う。私たち自身、能力を使っているときにそこまで気づいていなかった」


「本当?」香織も驚いた様子だった。「私たちの能力が共鳴してるの?」


「可能性はあると思います」陽太は少し自信を持って言った。「昨日の訓練での観察結果を整理すると、二人の能力間には何らかの相乗効果があるように見えます。もう少し観察が必要ですが…」


「それって、私たちの能力開発にとって重要な情報じゃない?」美咲が真剣な表情で言った。


「うん!」香織も熱心に頷いた。「もっと詳しく教えてほしい!」


「あの…」陽太は戸惑いながらも、記録ノートを取り出した。「よかったら、昨日の記録見ますか?」


三人は学園の中庭のベンチに座り、陽太のノートを開いた。記録は驚くほど詳細で、図や表、時系列での能力変化が細かく記述されていた。


「これ…すごいわ」美咲が驚いた様子で言った。「こんなに詳しく観察されていたなんて」


「うわ〜!」香織も興奮した。「私の具現時の『精神波動変化』って何?こんなの測れるの?」


「あ、これは…」陽太は少し照れながら説明した。「香織さんが具現化する直前の表情や呼吸パターン、それに周囲の空気の変化などから推測したものです。科学的な裏付けはないので、あくまで私の主観ですが…」


「でも、これ、当たってる」香織は真剣な表情になった。「具現化する前って、確かに『引き寄せる』感じがするの。周りの何かを集めるような…」


美咲も感心した様子で頷いた。「記録係の存在意義を実感するわ。当事者では気づかない視点があるのね」


陽太は予想外の反応に戸惑いながらも、少し誇らしさを感じた。自分の観察が役に立つなんて、思ってもみなかった。


「今日からの授業ではもっと詳しく観察させてください」陽太は決意を新たにした。「二人の能力の相互作用について、何か新しい発見があるかもしれません」


「お願いします」美咲は真剣に言った。「私たちも全力で能力を発揮するわ」


三人が話している間、周囲の学生たちが好奇の目で彼らを見ていた。無能力者の記録係と、二人の天才能力者。不思議な組み合わせに見えるのだろう。


「あの二人、なんで無能力者と一緒にいるんだ?」 「記録係だから仕方ないんじゃない?」 「でも、あんなに親しげに…」


そんな囁きが聞こえても、陽太は気にしないようにした。少なくとも今は、自分にも価値があると感じられる瞬間だった。


「あ、そろそろ授業の時間だね」香織が時計を見て言った。


三人は立ち上がり、教室へと向かった。陽太は少し前向きな気持ちで歩いていた。まだ始まったばかりの蒼城学園での生活。見えない未来に不安はあるが、今日この瞬間は、傍観者ではなく、少しだけ参加者になれたような気がした。


それでも彼は知っていた。自分が持っているのは能力ではなく、ただの観察眼に過ぎないこと。いつまでも二人の隣にいられるわけではないこと。彼らは前に進み、自分は後ろで記録し続ける存在であることを。


陽太は静かに記録ノートを握りしめた。それでも、できる限りのことをしよう。たとえ傍観者でしかなくても、最高の記録者になろう。それが今の自分にできる唯一のことだった。


「綾瀬くん、早く!」


香織が教室の入り口から手招きしていた。美咲も穏やかに微笑んでいる。


「はい、行きます!」


陽太は駆け足で二人に追いついた。まるで光に向かって走るように。

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