第33話:帰る場所、支える場所
仁兵衛の覚悟が託された帳簿は、慎吾の手に渡った。
だが、遅すぎた一歩が、すべてを裏切りに変える――。
一方その頃、義昌は木曽の山道を越え、城を目指していた。
木曽の山道を越え、義昌がたどり着いたとき――すでに木曽城の門は開いていた。
その異様さに、思わず馬上から身を乗り出す。
城門前には新之助と権六が並び、深々と頭を下げていた。
「殿、お待ちしておりました」
「……なぜ、もう制圧できている? 真里は……無事なのか?」
声が震えていた。
まるで戦の渦中から帰還した直後のような、張り詰めた声音だった。
新之助がすぐに答えた。
「ご無事です。すでに城内でお待ちを」
その言葉を聞いた瞬間、義昌の全身から力が抜けた。
だが、安心などしていられない。手綱を放り出すように馬を降り、城内へ駆け出した。
――玄関前。
その扉の前に、彼女はいた。
真里。
彼の妻。彼の支え。
そして、彼がこの数日――死の淵にいると覚悟していた女。
義昌は駆け寄った。もはや理性など残っていない。
「……真里……!」
名を呼ぶ声が、喉から噴き出す。
次の瞬間には、その細い肩を強く、だが壊れ物を扱うように抱きしめていた。
真里の身体は、思ったよりも温かく、そしてかすかに震えていた。
「……生きていてくれて、本当に良かった。
お前まで……お前までいなくなったら、私は――」
声が詰まり、続けられなかった。
子を殺され、戦に巻き込まれ、己の手が血に染まってなお――
心のどこかで、彼女だけは守れていると思いたかった。
その最後の願いすら、もう潰えたのかと……そればかりが胸を抉っていた。
震える腕のなかで、真里がそっと答えた。
「……ごめんなさい……
でも、こうして、また会えて……私も、嬉しい」
そう言った瞬間、真里の声がかすかに震えた。
堪えていたものが、溢れるように零れ落ちる。
静かに、頬を伝う涙。
義昌は、その顔をそっと抱き寄せた。
言葉はもういらない。ただ、彼女が生きていてくれた――それだけで、今は十分だった。
――大広間。
義昌が広間へ入ると、望月、新之助、権六の三人が膝を正して控えていた。
「……状況を聞かせてくれ」
義昌が座すと、まず望月が口を開いた。
「敵方は、殿(義昌様)が討たれたという虚報を流し、一部の家臣を動揺させました。
混乱に乗じて、武田方の刺客が城中へ潜入し、内通者とともに掌握を狙った模様です」
「……やはり、内通がいたか」
義昌は低く呟いた。
驚きはない。だが、その声音には確かな怒りが滲んでいた。
望月は静かに頷き、説明を続けた。
「幸いにして、早期に策を看破できました。
敵の動きは散発的で組織的ではなく、要所を押さえた時点でほぼ鎮圧に成功しております」
義昌が頷いたのを見て、新之助が口を開く。
「我らが到着した時には、すでに望月殿が制圧の主導を執っておられました。
残敵を掃討し、真里様の安否もすぐに確認できました」
隣で控えていた権六も、深く頷きながら言葉を継いだ。
「まさに見事な御采配。
望月殿がいなかったとしたら……この城の中枢は敵の手に堕ちていたやもしれませぬな」
義昌は三人の顔を順に見渡し、ふっと息を吐いた。
「……皆、よくやってくれた。
命を、城を、そして真里を――守ってくれて、本当にありがとう」
三人は無言で深く頭を垂れた。
――控えの間。
夜も更け、義昌と望月は火の灯る静かな一室に向かい合っていた。
「いずれは、木曽城へお戻りに?」
望月が尋ねると、義昌はすぐに首を横に振った。
「いや……少なくともしばらくは戻らぬ。
今後、我らが拠るのはあの村だ」
「……と申されますと?」
義昌は、卓上の地図に手を置きながら語る。
「……木曽城は、守るには適している。
高石垣に堀、三重の防壁……攻め落とすのは容易ではない」
だが、と小さく息を吐き、地図の一点を指でなぞった。
「だがそれも、補給が続くうちだけの話だ。
この村が落ちれば、木曽城までの道は丸裸になる。
敵はそのまま街道を登り、背後を断ち、包囲する。
つまり――この村が落ちたとき、木曽城も共に落ちるのだ」
望月の顔が引き締まる。
義昌の声は、静かに続いた。
「ならば、村こそが肝要だ。
ここに拠点を据え、補給と連絡を掌握し、森と谷に目を光らせる。
敵がどこから来ようと、先に気づき、先に動けるようにな」
視線を地図から上げ、真っ直ぐに望月を見据える。
「城に籠もるのでは遅い。
我らに必要なのは、“拠る城”ではない。“動ける芯”だ。
そしてそれは、今ここにある」
望月は静かに膝を揃え、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。
命ある限り、この村を芯としてお支えいたします」
その言葉に、義昌は小さく頷いた。
――木曽城は、確かに取り戻した。
だが、戦の本番はこれからだ。
守るべきものは、変わらず目の前にある。
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