第32話:裏切り者の証明
義昌は甲府の屋敷で病床の信玄と対面する。
だが、救いを願った子どもたちはすでに処刑されていた。
すべてが遅すぎたと知り、義昌は静かに屋敷を後にする――
時は少し遡る。
帳簿の束は、まだ温もりを宿していた。
慎吾はそれを胸に抱え、小さな祠の裏手に身を潜めていた。
武田軍の本陣から離れた、間者専用の中継拠点。
空気は冷たく、味方の地にいるはずなのに、背に冷たい汗が伝う。
この帳簿は、義昌の軍の詳細を記した“生きた証拠”だ。
慎吾が盗んだのではない。仁兵衛が――義昌の側近だった男が、すべてを承知で渡してくれたものだった。
(……仁兵衛さん。あなたは、覚悟を決めて、これを……)
妹を救いたい。その願いを、仁兵衛は理解し、背負ってくれた。
それが、どれほどの重さを持つ行為か、慎吾には痛いほどわかっていた。
(これさえあれば、交渉できる。信じてもらえる)
慎吾は、まだ希望を捨てていなかった。
「慎吾殿、少々お話が」
戸口に現れたのは、武田軍監察役・中沢。
無表情な笑みを浮かべた男で、何を考えているのか見えない目をしていた。
「……帳簿の件でしたら、すぐにお渡しできます」
「そうではありません」
中沢は一呼吸置いて、重たい言葉を落とした。
「慎吾殿、“真里姫が義昌に兵糧を送っていた”というのは、ご存知なかったと?」
背筋に冷たいものが走る。
「……それは……」
「否定なさいますか? ですが、すでに報告は上がっております」
言葉を失った。
誰かが――“自分ではない、別の間者が”すでに報告していたというのか。
(違う……俺は、まだそのことを……)
「“義昌は兵糧を尽きている”と報告していたのは、慎吾殿でしたね?」
「それは……帳簿には、そう記されていたんです。あの時点では……間違いじゃなかった」
「ですが、今や義昌の軍は持ちこたえております。塩も米も、確かに届いていたと」
「……!」
慎吾の中で、何かが音を立てて崩れた。
自分は、ただ“遅れた”のだ。
すべてを知った上で武田に渡ったと思われ、
そして、その結果──
「勝頼様は、この件を“裏切り”と受け止められました。
義昌に加担した私子ら……“本日、処断されたとの報が届いております”」
時間が止まったようだった。
「……うそ……だ……」
「慎吾殿?」
「嘘だと言ってくれ……!」
声が震える。視界がにじむ。
帳簿が手から滑り落ち、土の上に落ちた。
そこに残った温もりが、胸を刺す。
(仁兵衛さん……)
(あなたが、義昌様を裏切るような真似をしてまで、俺と妹のために帳簿を託してくれたのに……)
(結果がこれでは、あまりに……)
(申し訳ありません)
足元に広がった紙束が、風に煽られた。
ぱら、ぱらと捲れるページ。そこに記された数字も、今となってはただの記録に過ぎない。
(……俺は、何も守れなかった)
(誰も、救えなかった)
「慎吾殿。勝頼様のもとへお連れいたします」
それはもう、命令だった。
武田は、慎吾を“味方”としてではなく、“査問対象”として扱い始めていた。
立ち上がれない。
いや、立とうとする意志が、どこにも見つからなかった。
仁兵衛の顔が浮かんだ。
義昌の、あの優しい声が脳裏で揺れた。
そして、囲炉裏のそばで笑っていた、あの小さな手と――名前を呼んでくれた声と。
(終わった……全部、俺が壊した)
慎吾はそのまま、月の光を見上げた。
何も言えず、ただ――その場に、沈んでいた。
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