第31話: 託された想い
木曽を救うべく、名もなき商人が荷を運ぶ。
地盤も信用も捨てて、それでも「恩を返す」と彼は言った。
木曽を出てから数日後、甲府の城下に入ったのは夜も更けた頃だった。
案内された屋敷には人の気配が乏しく、まるで何かを隠すような静けさが漂っていた。
門前で名乗ると、控えていた侍女が無言で灯を掲げ、義昌たちを奥へと導いた。
宗次郎と供を二名だけ連れ、義昌は屋敷の奥へ進む。廊下には障子が続き、どの部屋にも火の気がない。
通されたのは、狭く、質素な一室だった。
その奥、薄布を隔てた向こうから、微かに咳き込む声が聞こえてくる。
「……おお。義昌か。久しいな」
布越しに聞こえた声は、かつてのような威厳も迫力もなかった。
掠れ、途切れながら、それでも義昌の名を確かに呼ぶ。
「……ご無沙汰しております、御屋形様」
義昌は畳の上に膝をつき、頭を垂れた。
すぐに声は返ってこない。咳がしばし続き、そののち、低くかすれた声が漏れた。
「真里が、動いたと……聞いたぞ」
その名に、義昌の背がわずかに強張った。
あの米と塩の一件が、やはり露見していたのだ。
「真里姫は、あくまで私の願いを受けた形……。決して、姫様の独断では――」
「……弁解など、要らぬ」
咳の合間に、信玄は制した。「真里が……お前のことを語った」
義昌は、はっと顔を上げた。
「……あの子が言うにはな、
“あの方は、もうかつての義昌様ではありません。
ただ付き従うだけでなく、自ら村を動かし、人を守ろうとしています”……と。
だからこそ、わしは――この目で、見ておきたかったのだ。
お主がどう変わったのか。そして判断したかった。誰に、何を、託すべきかをな……」
その言葉に、義昌の胸が微かに揺れた。
「……もったいなき、お言葉です」
「わしも老いた。目は、もう曇っておる。何も決められん。何も……」
信玄は咳き込み、息を整えるようにして続けた。
「だが……お前まで滅びては、すべてが終わる。
だから、呼んだ。危険は承知のうえだった。
だが、それでも……“信玄が呼んだ”と言えば、勝頼も即座には動けまい」
義昌は唇を引き結び、深く頭を垂れた。
「……それほどまでに、託していただけるのなら、ひとつだけ……。
あの子たちを――甲府に連れていかれた子らを、救いたいのです。御屋形様、お願い申し上げます。お力を貸してもらえませぬか」
返答は、信玄ではなく、脇に控えていた老臣が代わった。
沈痛な面持ちで、一言ずつ噛み締めるように告げる。
「……御屋形様がお知りになったのは、ほんの数日前。
すでに、勝頼様の手により……子らは“処された”との報が入っております」
宗次郎が肩を震わせ、拳を強く握った。
義昌は、ただ静かに目を伏せた。
小さな手。夜、名を呼ばれた声。熱に浮かされた幼い額。
義昌としての記憶が、否応なく胸を突いた。
あの日、出立の前に見た小さな背中。
囲炉裏のそばで、笑っていた顔。
あの命が、もう戻ってはこない――
まだ何も教えてやれていなかった。
父として、何ひとつ守れなかった――
(俺は現代から義昌に転生したことで知っていたはずなのに……)
(この結末を、避けられたかもしれないのに……)
(なのに俺は――何もできなかった)
すまない。
すまない。
視界が滲んだ。
炎の輪郭が揺れ、焦点が合わなくなる。
義昌は目を逸らした。こぼれそうなものを、誰にも見せぬように。
その沈黙を破るように、老臣が一包の文を差し出す。
「これは御屋形様の“遺志”です。……どうか、これをお持ちください」
信玄の声が、布越しにかすかに届いた。
「……わしの名が、まだ武田を守っている。
だが、実のところ……わしはもう、動かぬ象のようなものだ。
勝頼がすべてを握り、わしは……ただ座しているだけ。
何も、できぬ」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、終わりを受け入れた人間の、静かな諦念があった。
屋敷の裏口へ向かうと、宗次郎がぴたりと足を止めた。
夜陰のなか、甲冑の擦れる音が微かに聞こえる。
「……巡回の兵。こちらへ向かっている気配はありませんが、時間は限られます」
老臣が低く囁いた。
「御屋形様の病床は、名目上“秘匿された場”とされています。
ですが……勝頼様の目は、確かにこの屋敷にも及んでおります」
義昌は頷いた。
すでに背を向けることが、戦になる予感があった。
「……済まぬ」
そう呟き、義昌は文を懐にしまい、屋敷の裏手から身を翻した。
風が強くなっていた。
雲が月を覆い、道に落ちる影を深くする。
誰も言葉を発しなかった。
その沈黙こそが、義昌たちの怒りと哀しみを物語っていた。
遠ざかる中、義昌は振り返らなかった。
だが、その背中には――確かに、別れを告げた者の覚悟が、刻まれていた。
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