第29話:出立の刻、山はまだ遠く
なんとか間に合いましたので投稿します!
朝霧がうっすらと村を包むなか、義昌は鎧の肩紐を締め直していた。
静かに身支度を整える彼の背に、緊張と覚悟が交錯していた。
信玄からの書状は、昨夜のうちに届いていた。
「至急会いたい」という簡潔な文面と、宿所の地名だけが記されている。
その筆跡は弱々しく、かつての鋭さとはまるで別人のようだった。
だが、たしかに――あれは信玄の手によるものだった。
「……行ってくる。戻るのは、数日後になる」
門の前に集まったのは、千田兵庫、新之助、五助、そして権六。
宗次郎もすでに馬を引いて待っている。
「無事に、戻ってくだされ」
「お気をつけて、殿」
「この村は任せてください」
言葉は簡素で、けれど確かな想いがこもっていた。
それぞれが義昌の背中に、迷いを映さぬようにと、言葉を選んでいる。
義昌は短く頷くと、宗次郎の肩を軽く叩き、鞍へと足をかけた。
「……宗次郎、護衛は?」
「殿を含めて十名。顔が割れていない者を揃えました」
「よし。なるべく目立たず、行こう」
馬が静かに蹄を鳴らす。
それを合図に、他の護衛たちも列をなして後に続く。
村を出た義昌たちは、山道を越え、谷を抜ける。
昨夜の雨がまだ地面に残っており、馬の歩みに粘りがあった。
途中、朽ちかけた神社や倒木を越えながら、一行はひたすら黙して進んだ。
その背に重くのしかかっていたのは、疲労ではなく、予感だった。
(この呼び出しに、吉兆はない)
それは誰の顔にも表れていた。
かつて大軍を動かし、甲斐を掌握していた男――信玄が、こんな急な呼び出しをする理由など限られている。
陽が高くなりかけた頃、小さな川を越えた先にある森の開けた場所で、義昌たちは一息ついた。
宗次郎が地図を広げ、宿所までの残りの距離を確かめる。
「明日の午前には着けるでしょう。日が落ちる前に、野営の地を探しますか」
「そうだな。無理はしない。……焦っても仕方がない」
その夜。
義昌たちは、信玄の滞在先に近い村の外れに陣を張った。
焚き火の明かりが静かに揺れている。
湿った薪がぱちぱちと音を立て、夜の静けさのなかに微かな温もりを灯していた。
義昌は一人、火の前に座り、書状の言葉を反芻していた。
「……なぜ、今になって俺を呼ぶ?」
真里姫からの援助。
村を託した者たちの顔。
そして――信玄の呼び出し。
それぞれの点が、やがて線になる予感があった。
だがその形は、まだ見えてこない。
真里姫は信玄の娘だ。
彼女が密かに送った米と塩。
それが露見したとき、どれだけの波紋を生むか――義昌には分かっていた。
信玄はそのすべてを知っているのか。
あるいは、すでに“知ってしまった”のか。
義昌はそっと目を閉じた。
村に残した者たち。
千田兵庫の真っ直ぐな眼。新之助の焦りがちの声。五助の無邪気な笑顔。
そして、未だ名を呼べぬあの子らの影。
そのひとりひとりが、彼の背を押していた。
「……俺はまだ、間に合うだろうか」
風が吹いた。
焚き火の炎がわずかに揺れ、夜の静寂が枝を鳴らした。
何かが、確かに、動き出していた。
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