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「クリス様、お待たせいたしました」
広間に取り残されたクリティアナは本当に心細かったようで、シャーロットが戻って来たのを見た瞬間迷子が母親を見つけたような顔をした。
だがすぐに彼女の姿を見て、喜びの表情が困惑へと変わっていく。
「な、なんじゃ貴様、その恰好は……?」
戻って来たシャーロットはさっきまでとは違い運動着にポニーテールと、クリティアナと同じ格好をしていた。
「クリス様には、これからわたくしと一緒にレッスンを受けてもらいます」
「レッスン?」
「色気づいた貴族がどういうことをしていたか、その身で知ってもらいますね」
意味がわからないという顔をするクリティアナだったが、やがて思い当たることがあったのかはっとする。
「まさか、これが……!?」
「さあ、講師の方がお見えになりますよ」
シャーロットが広間の扉を指し示すと、それが合図であったかのように音高く扉が開かれた。
「お待たせしたわね」
そして現れたのがそう、このレッスンのインストラクター、みんなのアイドルリリアーネだ。そしてその背後にさりげなく立つアシスタントのわたし。
リリアーネはシニヨンでまとめた金髪の上にヘアバンドをし、丈の長いコートをマントのように肩にかけて羽織っている。その姿は、まるでランウェイに立つスーパーモデルだ。
「さあ、今日も張り切って筋トレするわよ」
リリアーネが勢いよく羽織っていたコートを脱ぎ捨てると、中から現れたのは美しい顔からは想像もできないほど鍛え上げられた肉体であった。
丈の短い白のタンクトップの両袖から覗く肩は、まるで小さな馬車を乗せているかの如く大きく膨らんでいる。
そして肩から伸びる腕は、太さ《バルク》こそ無いものの、上腕二頭筋や三頭筋などそれぞれの筋肉の隆起がはっきりしている。キレてる、キレてるよ。
大根がおろせるんじゃないかと思うくらい華麗なシックスパックは、体脂肪率が一桁であることの証明。この引き締まったボディを創り上げるために、いったいどれほどの汗を流し、眠れぬ夜を数えたことだろう。
女性としての完璧な美しさと、完璧な肉体美の融合は、あたかも神が創り出した奇跡のようだ。
これまで見たどんな美術品よりも美しい存在に、さしものクリティアナ王女も目を奪われ言葉を失う。
そして彼女は気づくだろう。
どうして貴族の令嬢たちが熱を上げるのか。
肖像画を手に入れるために躍起になっているのか。
そしてこのような格好をしてまで会おうとするのか。
「あれが……リリアーネ……」
ようやく声を絞り出すクリティアナに、シャーロットが微笑みかける。
「どうですかクリス様。念願叶ったお気持ちは?」
「……言葉にならん。こんな気持ちは初めてだ」
「それはそれは」
素直に感想を述べるクリティアナに、シャーロットは満足そうに頷く。
「しかし、わらわが会いたいと言った時はあれほど頑なに拒んだというのに、どういう心境の変化だ?」
「何も変わってはおりません」
「何じゃと?」
「ただ会わせろというだけならお断りしますが、レッスンを受けるのであれば、他の方々と同じなので断る理由はございません」
「何じゃそれは? ただの詭弁ではないか」
呆れるクリティアナに、シャーロットはくすりと笑う。
「詭弁、大いに結構ではないですか。そのお陰でクリス様は下げたくもない頭を下げずに済み、こうしてお互い良い落としどころに行き着いたのですから」
種明かしをするように語るシャーロットを、王女はじろりと睨む。
「貴様、気づいておったのか。わらわが今日来た理由を……」
気づいていたのなら、わざわざクリスティアナをリリアーネに会わせる必要はない。だがそうしたことで、シャーロットがクリティアナに忖度していることがわかるし、それが理解できないほど王女は子どもではなかったようだ。
「情けをかけるというのか、このわらわに」
「そうではございません。ただ、」
「ただ、何だ?」
言葉を探して口を閉じたシャーロットに、クリティアナが問う。
「おしゃべりはここまで。さあ、レッスンを始めるわよ!」
テンションの高いリリアーネが、二人の会話を遮る。これから何が始まるのか知らず緊張しているクリティアナに、シャーロットは挑発するような笑みを向けて言う。
「彼女のレッスンは厳しいですよ。果たして箱入りの王女様に着いてこられますでしょうか?」
その挑発にあえて乗ったのか、クリスティアナも不敵な笑みを浮かべる。
「なめるな! わらわとて王族の端くれ。貴族の娘とは背負うものと鍛え方が違うわ!」
「それならば見せてください。王族の意地というものを」
「見せいでか!」
こうしてリリアーネの指導の下、レッスンはたっぷり2時間行われた。
「よく頑張ったわね。なかなかいい動きだったわよ」
額に浮かぶ玉の汗を、手の甲で軽く拭いながらリリアーネは笑う。そんな姿でさえ、彼女の美しさは僅かも損なわれていなかった。
「フ、これしきのこと、どうということはないわ」
セリフだけ聞けば余裕綽々だが、実際は汗だくで床に溶けて息絶え絶えなクリスティアナ。いや、最後までもっただけ大したものだろう。何しろ普段貴族のお嬢様にやるレッスンの倍はこなしたのだから。
「さすがですクリス様。見事完走なさるとは」
講師のリリアーネが平気な顔をしているのは当然だが、シャーロットもまだまだ余裕がありそうだ。あのひ弱だったお嬢様が逞しくなって……と感慨深くなるが、深窓の令嬢をマッチョにしてしまって本当に良かったのだろうかと思わなくもない。
「貴族の娘どもはこんな思いをしてでも会いに来ているのか」
「中には何度も来てくださる方もおられますのよ」
「変態か……」
今やリピーターと化している五人娘のことを仰っているのなら、そうです変態ですと言わざるを得ない。
「いや、それだけ想いが強いというべきか」
そう言ってクリティアナは立ち上がると、シャーロットに向き直る。
「これまでの無礼、反省しよう。許せ」
「許すもなにも、わたくしたちは同じレッスンを受けた同士ではありませんか」
「同士か……。フ、悪くない響きだ」
二人は笑みを浮かべながら互いの手を取り、がっちりと握手を交わす。
互いを認め合う姿は、本当に美しいものだ。
これにて一件落着。
と誰もが思っていたことだろう。
だが話がこれで終わるほど、この世界は甘くなかった。
次回更新は活動報告にて告知します。




