53
順調だったのは最初だけで、実際に作業が始まると苦労の連続だった。
まずブロマイド一枚に対しての原画と原版の量がこれまでの数倍になった。
原版はわかるが何故原画も? と思うかもしれないが、浮世絵――錦絵には主線のための主版と、色をつけるための色版が必要になるのだ。
なので、なるべく数を減らすために一枚で何色か塗れるようにしても、フルカラーにするには十枚近くの原画と原版が必要になる。
ちなみに錦絵は原画を裏返して板に直接貼りつけて彫るので、一度使ったらそれっきりの消耗品になる。これは凹版印刷の時とはまったく違うやり方だ。
「せっかく描いた原画がなくなってしまうのはちょっともったいないな」
「ばってん、銅版画ん時の原画も上からなぞるけんボロボロやけどね」
こうしてフィオは一枚の原画を、色ごとに何枚も分割して描くことになる。まあこれはトレーシングペーパーとトレース台を使えばそう難易度の高い作業ではない。
カラー化によって最も負担が増えたのが、原版を彫るゾーイだ。いくら彼女の作業が機械のように正確で速いといっても限度がある。
だがこれは原版担当を増やすことで解決した。緻密な作業が求められる凹版印刷の時と違い、今回は元絵がデフォルメされている。その分細かい作業は減っているので、専門の職人でなくても作業は可能だ。
なので会長に打診して原版作業に人員を補充してもらったのだが、雇ったのは版画職人ではない素人だった。
これは先も述べた通り、コンスタンチン商会は王都で職人を雇えない。なので必然現地で募集できるのは一般市民に限られる。というか、原版が増えることは始める前からわかっていたことなので、ここまでは予定通りだ。
次にわたしはゾーイに新人の教育と作業の指導を頼んだのだが、返って来たのは前時代的なセリフだった。
「は? 教育なんてオラもされたことなか。作業は目で見て覚えてくれんね」
出た。目で盗め。わたしの世界でも未だに耳にするパワーワード。昔は通用したのかもしれないが、現代でそれを言うとただ単に自分に新人を教育できるスキルが無いだけだと自白しているのと同じ言葉。
とはいえ、ゾーイ自身が師匠から教えてもらった経験が無い以上、彼女にそのスキルを求めるのは酷というものだ。
なのでわたしがゾーイに作業の工程を聞き取り、マニュアルを製作した。そしてマニュアルさえできてしまえば、素人でも少し訓練をすれば充分戦力になるだろう。
こうして作業が増えた分人を増やして対応し、作業は着々と進行した。
そして工程はついに試し刷りまできた。
これが上手くいけば、もはや量産は目の前だ。
だがまたしてもここで問題が発生する。
一度だけ刷ればいいモノクロの時と違い、今回は色ごとに原版を変えて同じ紙を何度も刷るのだが、原版を変えた際に紙が僅かにズレる。そのせいできれいに印刷できないのだ。
製作は難航した。
機械と違い人の手で作業をするため、どうしても完璧は求められない。だが少しでもずれると素人目にも失敗だとわかってしまうので完璧を求められるこの矛盾。
わたしは苦悩した。どうすればこの矛盾を解決できるのかと。
原理は錦絵と同じなのだ。江戸時代の人ができたのだから、わたしたちにできないはずはない。ということは大切な何かが足りていないに違いない。
「う~ん、何か見落としてるのかなあ……」
わたしは頭を絞って、かつて高校生の時に美術の時間で習った錦絵の工程を思い出す。
だが如何せん二十年以上前の記憶なので、肝心なことが思い出せなかった。
問題が解決したのは、ふとしたことがきっかけだった。
印刷のズレ問題を打開できずに行き詰っていたわたしは、フィオが書き損じてゴミ箱に捨てた原画の束を見つけた。
気晴らしにその紙束の端っこを使って棒人間が歩くパラパラ漫画を描く。指で紙をパラパラめくってアニメみたいに動いているのを見ると、小学生の頃よくノートの端っこに落書きしていたことを思い出した。
懐かしいなあ。そういえば、アニメの原画や動画には紙を固定するためのタップがあるんだっけ。
ということは、錦絵にも似たようなものがあるのでは。
そこでようやく脳のシナプスが繋がり、古い記憶が蘇った。
そうだ、『見当』だ。
錦絵の原版には、紙をセットする基準にするために見当というものが彫られているんだった。摺り担当者はこの見当を目印に紙をセットするから、ズレずに印刷できるのである。
ちなみに見当違いの語源だ。
わたしはすぐさまこの話をゾーイにすると、彼女は即座に「そりゃ良か。さっそくすべてん原版につけようね」と言って作業に取り掛かった。
こうしてすべての原版に見当がつけられ、印刷のズレは劇的に改善されるかに思われた。
だが、わたしの期待とは裏腹に、印刷されたブロマイドは僅かにズレていた。
これでも駄目なのか。わたしは他にまだ何か思い出していないことがないか懸命に思い出そうとした。
けれどいくら頭を捻っても何も思い出せない。もう駄目なのか。ブロマイドのフルカラー化は、掴めない夢として消えてしまうのか。
諦めかけていたその時、印刷担当から最新の試し刷りが渡された。
わたしはそれを見て、愕然とした。
ズレてない。
どうして?
いくら考えてもわからないので、わたしは印刷担当に尋ねてみた。
「どうして印刷がズレてないんですか?」
するとその人は誇らしげな笑顔でこう言った。
「今までたくさん失敗しましたが、ようやくこの作業に慣れました。もうズレませんよ」
何ということはない。
足りなかったのは、作業者の熟練度だったのだ。
「そっちか~……」
ともあれ、ブロマイドのカラー化は一応の完成を迎えたのであった。
次回更新は活動報告にて告知します。




