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あれはわたしが六歳のある日。
待ちに待った商隊が村にやって来たので、わたしはさっそく屋台の臭いを嗅ぎながら出店を冷やかすために広場に向かった。
村の中央にある広場は、秋の刈り入れが終わった後で村人全員が集まって祭りをする場所だが、今は大小様々な屋台や出店が立ち並んでいる。
商隊は今朝着いたばかりのはずだが、すでに屋台を組み上げて商売を始めている気の早い店があるため、すでに多くの村人が集まっている。
人が集まり賑わってくると、客を逃がさないようにと食べ物の屋台が慌てて竈に火を入れる。途端に肉の焼ける芳醇な香りが風に乗って鼻をくすぐり始めた。
「う~んいいにおい……」
胸いっぱいに匂いを吸い込んでうっとりしていると、お腹がくるると鳴った。そういえば、もうすぐお昼だ。
お昼ご飯を食べに帰ろうかと思っていると、人ごみの中に一際目立つ人物を見つけた。商隊の護衛に雇われた冒険者だ。
青みがかった短髪をかき分けるようにして伸びた猫の耳。大きな目の中の瞳は瞳孔が縦に長い。しなやかに歩く姿は、草原を優雅に散歩する大型肉食獣を思わせる。どうやら猫系の獣人のようだ。
胸と両手足の最低限の場所だけ金属鎧で覆っているのは、当たらなければどうということはないとばかりに防御力より機動性や回避性能を重視しているのだろうか。そのわりには自分の身長くらい長い剣を背負っているのが気になる。
盾は見当たらないので、よほど自分の剣技に自信がある玄人か、それともハッタリ好きのド素人か気になるところではあるが、それよりももっと気になるのは、胸当てが膨らみを持たせてあることだ。胸当てとお尻の形を注意深く見ていなかったら、女性だと気づかなかっただろう。
これまで商隊の護衛で来た冒険者は何人も見てきたが、どれもいかつくむさ苦しい人間の男性ばかりで、女性でしかも獣人は初めてだった。
村に到着したので、一時的に護衛の任を解かれて暇なのだろう。女冒険者はぶらぶらと出店を眺めていると、美味しそうな匂いをこれ見よがしに垂れ流している串焼きの屋台に吸い込まれていった。
「オヤジ、一本いくらだ?」
「銅貨十枚だよ」
「じゃあ三本くれ」
「へいまいど」
女冒険者は屋台のおじさんから串焼きを受け取ると、腰に下げた革袋から銀貨を一枚親指と人差し指でつまんで見せる。
「これで足りるか?」
おじさんはきらりと輝く銀貨を見ると、にやりと笑う。
「もちろん。お釣りは大銅貨一枚ね」
ん? おかしい。銀貨は銅貨百枚分、大銅貨は銅貨五十枚分に相当する。串焼きが一本銅貨十枚で三本購入なら、合計で銅貨三十枚。それに対し銀貨一枚で支払いをした場合のお釣りは銅貨七十枚のはずだ。
つまり、屋台のおじさんは銅貨二十枚をごまかそうとしている。
こんな初歩的な計算、間違えるはずがない。すぐにいんちきがばれて女冒険者が怒り出すだろうと思っていたが、予想に反して彼女はまったく気づいた素振りを見せない。
まさか、気づいていないのか?
女冒険者は手に持ったお釣りを革袋に戻そうとする。
その時、唐突にわたしの頭に過去の記憶が蘇った。
あれはたしか、中学生の頃。大好きなアイドルが深夜にラジオをやっていた。
だがわたしは地方に住んでいたため、そのラジオを聴くことができなかった。それでもわたしに何かしら知識や技術があれば、どうにかして聴くことができたかもしれなかったが、あいにくそういうものは何一つ持ち合わせていなかった。
それでも何とかできないかとインターネットで検索をかけるくらいの知恵と行動力があったおかげで、そのラジオ番組はどこかの奇特な誰か、恐らく熱心なファンによって動画サイトにアップされていることがわかった。
インターネットなら、情報弱者のわたしでもどうにかなった。こうしてわたしは本来なら聴くことができないラジオ番組の熱心なリスナーになることができた。
番組は一週間遅れだったが、毎週律義に動画サイトにアップされた。わたし以外にも似たような境遇の人たちが聴いているのか、毎回コメント欄は番組をアップしてくれた人への感謝の言葉で埋め尽くされていた。わたしも毎回お礼のコメントを書いた。できることなど、それくらいしかなかったし。
だが幸せな時間は、唐突に終わりを告げた。
ある時から、荒らしと呼ばれるものが現れた。
荒らしはサムネイルをラジオ番組に似せて偽装し、間違えて開くと耳障りなBGMとともに、著作権法違反はやめろという文字をでかでかと表示させる動画をアップした。
それまで平和だった場所は、瞬く間に悪意が支配した。
ラジオ番組を許可なくインターネットにアップするのは、著作権法違反かもしれない。だがそれを裁くのは然るべき機関であり、名もなき誰かではないはずだ。ましてや自身もBGMに許可なく他人の曲を使用し著作権法違反を犯しながら、どの口で他人を断罪しているのだろう。
最初はみんな荒らしを無視し、アップしてくれる人を応援した。
だが荒らしは執拗だった。何度も何度も何度も何度も偽装した動画をアップし、わたしたちを罠にかけた。
そうして度重なる嫌がらせに、番組をアップしている人の心が折れたのか、それとも頭のおかしな人に関わっても何一つ得などないことに気づいてしまったのか、番組をアップすることをやめてしまった。
それから何度動画サイトに来ても、あるのは荒らしが作った偽装動画だけだったが、やがてそれもなくなった。
わたしたちは、希望を奪われたのだ。
誰かの悪意によって。
荒らしは、別に正義の心で著作権法違反を唱えていたわけではないだろう。本当に是正したいのなら、通報なり何なり正当な手段があるからだ。
それをせずに嫌がらせをするのは、ただ単にみんなが楽しくしているのが気に入らなかっただけなのだ。
自分が気に入らないから、みんなの楽しい場所を荒らした。
こうしてわたしの楽しい場所は、見知らぬ誰かの悪意によって奪われてしまった。
わたしは憎かった。
荒らしもそうだが、人間の悪意が憎かった。
そして何より、悪意に対して無力な自分が憎かった。
もしわたしにスーパーハッカーのような知識や技術があれば、荒らしの正体を暴き、居所を突き止め、嫌がらせを止めることができたかもしれない。
それよりも、わたし自身がラジオ番組をアップしてみんなに楽しい場所を提供できたかもしれない。
だがそれはただの空想だ。
実際のわたしは無力で無知で無能で、悪意に対して何もできない無意味な存在でしかない。
思えば、わたしの人生は悪意との戦いだった。当然、勝ったことなど一度も無いが。
周囲の人間は、わたしを雑巾のように叩いて汚して笑いものにした。まるでブスには人権など無いかのように。
だけどもし、わたしに力があれば。
悪意をはねのける力があれば。
わたしだけでなく、誰かが理不尽な悪意に曝されていたら、その力を惜しみなく振るいたい。
だから、わたしは彼女に向かって駆け出した。
「まって! そのおかね、もどしちゃだめ!」
突然大声をかけられ、女冒険者は反射的に銅貨を握った手を握る。そうして慌てて駆けて来たわたしを見ると、屋台のおじさんと一緒に怪訝な顔をした。
「おねえさん、だまされてるよ」
「は?」
ますます彼女が不審そうな顔になり、眉間に深い皺が刻まれた。ああ、まずい。さすがにいきなりすぎたようだ。早く誤解を解かないと、わたしの方が怪しまれてしまう。
わたしは幼児特有のたどたどしい喋り方で、懸命に事情を説明しようとした。
「おつりすくない。そのおじさん、おねえさんをだまそうとしてる」
「何だって!?」
わたしの言葉に、女冒険者はきっと屋台のおじさんを睨む。
だがおじさんは悪事を暴かれたにもかかわらず、まったく慌てず落ち着いている。それどころかわたしを見てふんっと鼻で笑うと、
「困るなあお嬢ちゃん、嘘言っちゃあ。駄目だよ、商売の邪魔したら」
まるでわたしが嘘つきであるかのようなことを言った。
「うそなんかいってないもん!」
むきになって反論するが、おじさんの態度は変わらない。子供相手なら余裕綽々で論破できるといった感じがありありとしている。
「そもそもお嬢ちゃん、数を数えられるの?」
「かぞえられるもん!」
するとおじさんは大声で笑い出した。
「お嬢ちゃん、大人をからかっちゃいけないよ!」
たしかに二次関数などの高等数学は、大学を卒業してずいぶん経つ間にすっかり忘れてしまった。だが単純な四則演算なら前世の記憶で充分間に合う。
おじさんの余裕の笑みは、長くは続かなかった。わたしが先の計算を口頭で説明すると、笑顔がみるみる真顔に変わっていき、ついには青ざめて脂汗を流し始めた。
そして次の瞬間、おじさんの喉元に剣が突きつけられた。
「ヒッ……!」
女冒険者がいつ抜いたのか、まったくわからなかった。自分の身長ほどもある長剣を、瞬きよりも早く抜き放ったのも見事だが、それと同時に相手の喉元に皮一枚の正確さで突きつけるにはどれだけの腕前が必要なのだろうかわたしには想像もつかない。
女冒険者は、もの凄い怒りの形相で睨みつけている。普通の人なら、鋭く尖った瞳孔で睨みつけられ牙を剥き出しにされたら、土下座して全財産を渡してしまうだろう。わたしだって渡す。
「……てめえ、あたしを騙しやがったな」
地獄の鬼でもビビるようなドスの利いた声と迫力に、おじさんの顔と喉がひきつる。
「ひ、ひえ、しょんな滅相もない……」
恐怖で舌がもつれる人を、生まれて初めて見た。もちろん、前世の分も含めてだ。
「それじゃあナニか? 単にてめえの勘違いだったってのか?」
「ひゃ、ひゃい……」
「ふ~ん、そうか」
女冒険者は少し考えると、にやりと笑って言った。
「それじゃあ、今焼いてる串焼き全部タダにしろ」
「しょんな……」
「ああ? 勘違いの詫びだろ。厭だってのか?」
突きつけた剣に力を込め、喉元からわずかに血が滲むと、おじさんは泣きながら要求を呑んだ。
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