そなた、余の毒味係にならぬか
※直接的ではありませんが、児童虐待の描写があります。苦手な方はご注意ください。
久しぶりに帰って来た父親の、その後ろに隠れるようにして立つ少女。
一言も喋らずに俯く顔は、硬くて細くて青白くて。まるで幽霊みたいに不気味だと、幼い彼は思った。
伯爵家の一人息子リアンは、父が嫌いだった。
最愛の母を追い出し、母に付いて行こうとした自分を、跡継ぎが必要だという理由だけでこの屋敷に縛り付けた男。愛情深い母とは違い、家庭を顧みたことなどないのにと、子供心に恨めしく思っていた。
そのくせ慈善活動には力を入れ、多額の寄付だけでなく、頻繁に孤児院や学校を訪れては、他人の子供達から『おとうさま』と呼ばれ親しまれているという。
『ご主人様は立派な方です』
そう周りが称えれば称えるほど、彼は父を疎み蔑んでいった。
そんな父が、ある日突然他人の子供を連れて来て、この屋敷で育てると言った。詳しい事情は知らないが、その少女の纏う仄昏い雰囲気から、これも慈善活動の一環なのだろうとリアンは悟った。
「お前の方が一つ年上だ。ここでの暮らしに慣れるよう、色々と気遣ってあげるように」
伯爵令息らしく、何とか「はい」と返事はしたものの、抑え込んでいた反発心が、ムクムクと膨れ上がっていった。
侍女の話によると、やはり少女は孤児院から引き取られた『恵まれない子』であり、名前をオディールというらしい。
言葉は理解しているようなのに、何故話さないのかと問えば、複雑な事情があるのでしょうと。子供であるリアンには、それ以上は伝えられなかった。
気遣うようにと言われたものの、もちろんそんな気になどなれない。第一オディールには侍女という名の世話係がちゃんと付いているし、リアンが何かをせずとも問題なく暮らしているように見える。
一度、下着のまま部屋から飛び出したらしい彼女を咄嗟に捕まえてしまい、使用人達から感謝されたことならあるが……本当は極力関わりたくないと思っていた。
リアンがオディールを一番不気味だと感じるのは、食事の時だった。
オディールは目の前の皿ではなく、リアンの方をチラチラと盗み見ては、彼が食べた物と同じ物を、追い掛けるようにして口に入れる。
サラダを食べればサラダを、スープを飲めばスープを、パンを千切ればパンを。
あまりの不気味さに、リアンは試しにどの皿にも手を付けず、彼女の反応を窺ったことがある。するとやはり、彼女も一口も手を付けないまま、冷めゆく皿を俯きがちに眺めているだけだった。
勝手に他人を引き取ったくせに、相変わらず父は忙しいふりをしている。二人きりで囲むことが多い食卓に、リアンはいよいよ憂鬱になり、一人で食事を摂りたいと侍女に訴えてみた。
ところが食卓を分けた途端、オディールは一切食べ物を口にしなくなった。侍女と一緒に食べてみては? と提案するも、既に試したが駄目だったと言われてしまう。
十歳にしては小さく細すぎる彼女が、食事を摂らなくなったら……
想像し、リアンは恐ろしくなる。
それならば、我慢して一緒に食べた方がマシだと、再び食卓を共にすることにした。
自分の食べる粥を、黙々と追い掛けるオディール。久しぶりの食事に、ほんの少しだけ口元を綻ばせるのを見て、リアンはため息を吐く。それが憂いによるものか、安堵によるものかは分からなかったけれど。少なくとも不快ではないと、そう思った。
ひと月……半年……一年と経つ内に、オディールの痩せ細った身体には肉が付き、感情表現も以前よりは豊かになっていった。
短いやり取りなら会話も出来るようになり、リアンだけには自ら進んで意思を伝えた。
幽霊などではなく、自分と同じ生きた子供なのだと。そう認識してからは、リアンはオディールを不気味だとは思わなくなった。最近では食事だけでなく、栄養を摂らせる為にと、おやつの時間も一緒に過ごしている。それだけでなく、自ら勉強を手伝ったり、何かに怯える時には背中に手を当て落ち着かせたりもした。
それから更に一年が経った、暖かな春の午後。
花の咲く美しい庭園を二人で散歩していた時、リアンはオディールの穏やかな表情を見て、ずっと気になっていたことを訊いてしまった。
「何故自分と同じ物を食べるのか、何故好きな物を自由に食べないのか」と。
すると彼女は忽ち顔を曇らせ、こう答えた。
「食べていいのか分からない。食べてはいけないものを食べてしまったら、痛いことをされるかもしれない」
思春期を迎えたリアンの胸に、強烈な不快感が込み上げる。
彼女の顔を一瞬で曇らせるもの、彼女が怯えるもの、彼女が食べられない理由、そして……彼女が自分以外には決して身体を触れさせない理由。まだぼやけてはいるが、腐った一本の糸で繋がったからだ。
自分の手の中で震える冷たい手。思わず力を込めれば、怯えた顔で振り払われてしまった。
興味本位で訊いてしまった愚かな自分を、リアンは責め、激しく後悔する。どうしたらまた手を繋いでくれるのか……。深呼吸しながら考えていると、ふと、彼女が一番好きな童話が思い浮かんだ。
『ふうむ、これは……もう少し食べねば、毒が入っているか分かりませぬ』
と言いながら、王様の分まで食事を平らげてしまう食いしん坊の毒味係。愉快なそのシーンの台詞をなぞり、リアンはわざと芝居掛かった口調でこう言った。
「ではそなた、余の毒味係にならぬか?」
「……どくみ?」
「本で見ただろう? 王様とか、偉い人が食べる物を先に食べて、毒が入っていないかを確かめる係のことだ」
「……リアン様の食べ物を、私が先に食べるの?」
「うん。だってね、僕の母は王家の血を引いているんだ。伯爵家の大切な跡継ぎだし、そんな僕に毒味係がいないなんておかしいだろう?」
オディールは少しの間、何かを考え、そっと口を開く。
「私が先に食べたら、リアン様は嬉しい?」
「うん、嬉しいよ。王様みたいに、安心して食事が出来るからね。美味しそうな物を選んで、先に食べてみて欲しい」
「……分かりました。でも、もし毒が入っていたらどんな味がするの? 食べても分からなかったら、本の人みたいに全部食べてしまったりしない?」
「さあ、どうかな。僕も毒なんて、まだ一度も食べたことがないから分からない。でも、君が美味しいと感じれば大丈夫だよ、きっと」
「ソースたっぷりのお肉とか?」
「うん」
「かぼちゃとか……レモンゼリーみたいに?」
「うん。あ、あと真っ赤に熟れたトマトもね。すごく美味しいだろうから、本の人みたいに全部食べてしまっても構わないよ。僕の分まで全部ね」
オディールは一瞬きょとんとするも、意味が分かったのか、ああと頷く。その灰色の瞳には光が差し、晴れた空みたいに輝き出す。
離してしまったリアンの手を自ら握ると、初めて自分が行きたい方向へと引っ張った。
その日のおやつから、早速毒味が始まった。
アーモンドクッキーに、苺の載ったチョコレートケーキに、ミルクプリン。いつもより沢山の皿が並ぶテーブルに、オディールはキラキラと目を輝かせる。
紅茶が冷めてしまうほど長い時間を掛け、オディールはやっとケーキの苺を選んだ。半分噛り、真剣な顔でうんと頷くと、リアンの口元にフォークを差し出す。リアンはそれを受け止めると、慎重に咀嚼するフリをしながら、ごくりと飲み込んだ。
「……うん、甘酸っぱくて美味じゃ。毒はないぞよ」
微笑むオディール。次は何にしようかとフォークを構える姿に、リアンも微笑う。
彼女の選択に任せ、ゆっくり時間を掛けながら、陽が傾くまで王族のティータイムを楽しんだ。
リアン王の毒味係を務める内に、オディールは美味しい物を美味しいと、食べたい物を食べたいと言えるようになっていった。
リアンを追い掛けなくても、毒を確かめなくても、自分のタイミングで自由に食事を摂れるようになった頃、オディールは突然、お菓子を作ってみたいと言い出した。元々センスがあったのか、シェフに教わりながら、菓子作りだけでなく、料理の腕もみるみる上げていく。焼き立てのマドレーヌを、美味しいと興奮しながら食べるリアンに、実はトマトが入っているのよと嬉しそうに明かしたりもした。
リアンが風邪をこじらせ長く寝込んだ時も、オディールの作った優しいトマト粥だけは喉を通った。
美味しいと綻ぶ口元にホッとしたオディールは、侍女に言われても彼の傍を離れず、熱い額に冷たい手を乗せ続けた。
十五になったリアンは、オディールを好きだと気付く。
十六で異性として好きだと気付き、十七でそれが恋であると気付く。
十八で成人した時には、彼女を愛しているのだと……彼女も自分を愛してくれているのだと、はっきり自覚していた。
伯爵家の跡継ぎである自分が、平民であり複雑な過去を持つ彼女との結婚を許されるのだろうか。彼女に想いを伝える前に、父や親戚を説得しなければと思っていた矢先、父が出先で倒れたとの知らせが入った。
────自分の余命は後半年だと息子に告げる父は、今までで一番清々しい顔をしていた。背負っていた荷物を全て下ろし、静かに舞台を降りようとしている役者のように。
痩せた顔を枕に預けたまま、訊いてもいないのに、遠い目でポツリポツリと昔話を始めた。
父は妾腹の子で、妾だった女性は祖父に黙って父を産んだ後、産後の肥立ちが悪く急逝した。六歳の時、父の存在を知った祖父に引き取られるまでは、経営難の孤児院で、飢えや虐めなどの辛い環境に耐えてきたと。
この屋敷に引き取られてからも、子が授からぬ本妻や親戚に冷たく当たられ、決して幸せとは言えない子供時代を過ごしてきた。その為祖父が亡くなり襲爵すると、領地経営を改革して名声を得たり、新事業で莫大な利益を得ては、煩い親戚達を黙らせた。更にはその金で、経営難に喘ぐ孤児院や学校を支援してきたのだと言う。
父は結婚にはあまり乗り気でなかったが、親戚に勧められたとある女性に好意を抱く。王家の血を引く、由緒正しき家柄の令嬢。自分には不釣り合いだと戸惑いはしたが、身分と見栄を重んじる親戚に気圧され、遅い結婚をすることになった。
一方母には王国騎士団に所属する婚約者がいたが、戦死してしまった為に、泣く泣く父との政略結婚を受け入れたそうだ。
リアンが生まれ八年が経った頃、風の便りで、戦死したはずの元婚約者が生きていたと知る。怪我により記憶を失ったまま隣国で暮らしていたが、突如過去を取り戻し帰国したと。
父は母が元婚約者と会うことを許し、更には元婚約者と一緒になりたいという願いまで聞き入れてしまった。……息子を置いていくことを条件に。
自分を嫌っていると、自分より母親を求めていると理解していても、どうしてもお前を手放すことが出来なかったと、苦しげな声で語った。
愛を知らない自分は、妻も息子も上手く愛することが出来なかった。もしもっと上手く愛せていたら、お前から母親を奪うことはなかったかもしれない。そう詫びながら弱々しく涙を流す父は、家族とはぐれた幼子のようだとリアンは思った。
少し落ち着いた父は、今度はオディールについて語り始める。彼女を引き取ったのは、偶然だったと。
孤児院の子供達に対し、必要以上の情けはかけないと決めていた父だが、慰問に訪れた辺境の孤児院で、たまたま無視出来ない修羅場に遭遇してしまった。暴力団を引き連れ、娘を返せと喚く男に対し、思わず伯爵家で引き取ると言ってしまったらしい。
少女の身を守る為に決断したはいいものの、どう育てていけばいいか不安だった。というのも、騒ぎの前日に孤児院が保護したばかりの子供である為、分かっているのは、実父から受けていた惨い虐待の内容と、話せない、食事が上手く摂れない、身体に触れると怯えるということだけで、その対処法についてはこれから考えていこうという段階だったからだ。その上事後処理に忙しく、思うように帰宅出来ない為、医師や侍女からの報告で状況を把握し、対応するのが精一杯だった。
そんな中、帰宅する度に、オディールだけでなくリアンの表情までもが和らいでいくのを見て、これは偶然ではなく必然かもしれないと。本当はそう思っていたのだよと微笑った。
跡継ぎであるということ以外、自分に興味などないと思っていた父親が、表情まで見てくれていたことにリアンは驚く。と同時に、時々夜中に感じた頭の温もりは、もしかしたら父の手だったのではないかと……そんな都合の良い想像もした。
許せる訳じゃない。
かといって何を許すのかも分からない。
あるのはただ、孤児院の子供達に割く時間を、自分の為に使って欲しかったという虚無感だけだ。
だけどリアンはもう、父を責める気にはなれなかった。幼い自分より、元婚約者を選んだ母のことも。
愛を求めるだけの子供時代は、とうに過ぎ去っているのだから。
何より、自分をこの世に生んでくれた、愛するオディールと引き合わせてくれた。そのことに感謝していた。
そうだ、結婚を認めてもらわなければと口を開く前に、父から驚くべきことが告げられる。
時間は掛かったが、オディールを子爵位を持つ友人の養女にしたことで、親戚連中を認めさせた。襲爵の準備も整ったし、結婚の心配は何も要らないと。
病の中奔走してくれた父の想いに、空っぽだったリアンの胸は、十八年分の愛で一杯になる。痩せた手を取り、何度も礼を言うと、夢から醒める前にとオディールの元へ走った。美しい硝子細工のような彼女を壊さぬように。ありったけの愛を、優しく真っ直ぐに伝えた。
半年後────
伯爵となったリアンは、花嫁が愛する春の庭園で、祝福に包まれながら、ささやかな結婚式を挙げた。
余命よりもずっと長い、一年と二ヶ月を新婚夫婦と共に過ごした父は、嬉しい報告を胸に、微笑みながら空へと旅立った。
リアンとオディールは、新しい王の為に、今日もせっせと毒味をする。熱くはないだろうか、固くはないだろうか、味付けは濃くないだろうかと。
生えたばかりの歯を覗かせ、満足気に笑う小さな王は、二人の毒味係に、何とも言えない幸福の味をもたらした。
ありがとうございました。