第10話 『婚約を破棄するということ(上)』
「……全然、眠れなかった」
翌日は、朝から低調だった。悩みごとの多さに頭を使ったこともあり、どこかぼけっとしたまま授業を受けてしまった気がする。
ノックスの席は怖くて見られなかった。だから、アカネさんと一緒にいたかも確認を取れてない。クラスの女子勢の同情はいつも通りだったから、おそらくそうなんだと思うんだけど。
今日も今日とてお誘いを断り、目的の場所へと歩む。
引き戸に手をかけて、ひょっとしたらと都合の良いことも考えてみた。
ガチャガチャとやると抵抗がある。部室の鍵は閉まっていた。
「ですよねー」
ジムにはスペアキーを渡している。なので、あたしは演劇クラブから直で預かった本キーで扉を開け、中でしばらく待ちの体勢を取ることにした。
空白の時間、頭に浮かぶのはノックスとアカネさんのことだ。一度は諦めると決意しときながら、今さら未練がどうのって話じゃない。2人とも、これからどうするんだろう? あたしを除け者にして、好き同士でくっついて、それからは?
よくわからない。だって少女小説の中じゃ、婚約破棄は上手くいかないって決まってる。
用意された悪役は、それなりの代償を支払わされる。無実の令嬢を婚約破棄でひどい目に遭わせようとした分、自分たちがひどい目に遭う。読者はみんなそれを期待しているし、あたしだってそう。いつも断罪パートがきたって思ったら、いけいけやっちゃえって応援する。
でも、今のあたしはどうなんだろう。ノックスのことを憎んでいるんだろうか。
やられたらやり返したい。そんな風に竹みたくキレイに割り切れるんだろうか。
「また変なこと考えてるな……」
思考が脇道に逸れたとわかって、あたしはぶんぶんと頭を振った。
もう少し待つも、ジムは現れない。待ち人来たらずということだ。
学院の敷地を出る。約束の場所は城塞の外側だ。遅い時間に貴族子女が出入りすることは推奨されていないから、人波に紛れて外に出る。赤く傾いた夕日を手前に見ながら、打ち捨てられた礼拝堂跡の扉を開く。
「……ノックス、いる?」
日の差し込まない礼拝堂内に、あたしの声が響く。
こんな場所に呼び出したのは、きっとノックスなりの気遣いなのだろう。大衆の面前で婚約破棄を突きつけてスキャンダルを起こすより、人気のない場所で穏便に伝えた方がいいと考えたのだ。双方とも、その方が傷が浅いと。
「どこ?」
返事がない。あたしが歩を進めたそのときだった。
ギィ……っと不気味な音を立てて、背後の扉が閉まる。
「え?」
驚いて背後を振り返るより早く、眼前の光景に変化がある。
ぼ、ぼ、ぼ、と音がして、左右の壁にある松明に火が灯っていった。
そしてあたしから見て正面に、見知った2人の姿が浮かび上がった。
「ノックス……それに、アカネさん」
肩を並べる2人は別に、イチャついてはいない。
だけど下方では、お互いの手を固く握り合っていた。
「こんな場所まで呼び出してすまない、ハート」
「えっと、うん……」
思わず言葉を濁す。初手が謝罪だったことと、ノックスが苦しげな表情を浮かべていたことで、気勢を削がれてしまったのだ。
「今日は大事な話がある。君なら、もう予想が付いてるかもしれないが」
真面目ぶった言い回しが、あたしの脳裏に予感を呼び起こす。
この展開は本で見たことがある。とうとう始まってしまうのだ、アレが。
脳内イメージ。婚約者と横恋慕令嬢に対峙するヒロイン。2人は仲睦まじくするのをやめて、己の人生に立ちはだかる婚約者という名の邪魔者を取り除こうとする。少女小説なら冒頭に位置する名シーンが、とうとうあたしの人生にも起ころうとしている。
不謹慎だけれど、ちょっとワクワクする自分がいた。
こくりと生唾を嚥下して、目の前の出来事に注視する。
「婚約者を持つ身でありながらと、そう思うかもしれん。しかし聞いてもらいたいのだ。私こと、ノックス・ヴァレンタインは人生においてもっとも大切なものを見つけてしまった。なにを隠そう、それは愛だ」
愛!? あの堅物が、愛を語るだと……!?
驚きに絶句していると、アカネさんが擦り寄って、ノックスの肩に頭を預ける。ノックスもまた手を伸ばしてアカネさんの腰を奪う。
うーむ、2人ともナイスヘイトムーブと言わざるを得ない。これが少女小説だとしたら、9割の読者に死を望まれること請け合いである。
「ハート、私はもう君を愛せない。この想いを注ぐに足る存在を見つけてしまったからだ。それは私の隣にいる女性、アカネ・トライネンだ。私は君ではなく彼女にこそ、真実を愛を捧げたいと思っている」
出た。真実の愛。確定演出だ。
ここまで言い切った王子が婚約破棄をしなかったためしがない。
すうっと胸深くまで息を吸って、吐く。
そうとも、どの道あたしのやることは決まっている。
あたしから見て、ノックスとアカネさんは正面にいる。
おそらく次手で婚約破棄を仕掛けてくるはずだ。
だけどあたしは、動揺なんてしない。数多の少女小説のヒロインと同じく、堂々とそれを受けて、なんでもないことのように踵を返し、風のようにこの場から立ち去ってやるのだ。
『婚約破棄をなさるのですね。お好きにどうぞ。さようなら』
そのたった一言で全部が終わる。目標をセンターに入れて捨て台詞。
曇り顔のノックスが、思いきったように声を張った。
「故に私、ヴァレンタイン王国第一王太子ノックス・ヴァレンタインは、リッシュモン公爵令嬢ハート・リッシュモンとの婚約を――」
きた!!
「破棄できない」
ズルッ、と肩からコケかけた。無論のことあたしである。
「そ、そこは婚約を破棄する流れじゃないの!?」
突然のことに戸惑う婚約者の皮を引っぺがし、野暮なことを突っ込んでしまう。すると逆に、ノックスはいつものペースを取り戻し、気性を荒ぶらせるあたしへと応えた。
「然り。君との婚約を破棄しなければ、アカネとは結べない」
「だったらどうして……?」
ノックスは疲労困憊した表情で、深い溜息をこぼした。
「……できんのだよ。父上と母上には既に相談した。その上で手ひどく反対された。王国の次代を左右する十年越しの布石を、お前は台無しにする気なのかとな。それに、そもそも越権行為だ。私だけの独断で、君に婚約破棄を突きつけることはできない」
ノックスの口から語られる言葉はたしかに、筋が通っている。
親の決めた婚約をどうにかしたいなら、いの一番に決めた当人たちに相談すべきだ。それでノーが返ってくるなら、道義的に自分の手で婚約破棄を仕掛けることはできなくなる。少なくとも目の前の真面目くんはそれを良しとしない。
ん? でも、ちょっと待てよ?
じゃあなんであたしをここまで呼んだんだ……?
「ノックスは、アカネさんを側妃として招くつもりなの?」
「ヴァレンタイン家にそんな前例はない。言っても理解してもらえない」
「あたしの了承を得た上で、コッソリ公妾にでもするとか……?」
「真実の愛は2つとない。残念だが私はもう君を愛せないんだ」
あたしの頭は混乱した。
ノックスの考えてることがマジでわからん……。
少しは頭が回るかなと、両手人差し指に唾を付けてこめかみの辺りをクリクリ揉んでいると、ノックスの表情に再び翳りが差した。
「許してもらおうとは思っていないさ。私のことは恨んでくれていい」
「……ノックス?」
パチン、という音がして、それがノックスが鳴らした指の音だと気づくのにタイムラグがあった。
あたしが目をパチパチとしばたたかせていると、礼拝堂跡の奥の暗がりから、人影らしきものが歩み出てくる。
「待ちくたびれたぜェ……」
2人組だ。てかなんだこのガラの悪い人たち。
どゆこととばかりにノックスに視線を移すと、説明役を買って出る。
「私たちの婚約は破棄できない。ならば、どちらかに落ち度を設けて構造自体を破壊するしかない。釣り合っている天秤を壊せば、皿の中身は地に落ちる。それを新たに用意した天秤に載せたらいい」
それは本意じゃない。あたしにもわかるくらいだった。
ノックスは追い詰められている。というより、病んでるように見えた。
「本当に申し訳なく思う。だけどこれしか手が浮かばなかった。不貞の罪を着てくれ、ハート」
病んだ瞳があたしを見て、自分がなにをされようとしてるのかを知った。
「う、嘘でしょ!? やめてよノックス!!」
「これは愛のためだ」
「つーことで選手交代!! 嬢ちゃん、悪いが手籠めにされてくれや!!」
「わああああああああああ~!!」
スカートの裾を持ち上げるのも忘れ、あたしは礼拝堂跡の出入り口に向かって全速力で駆けた。閉まった扉の手がかりを掴んで、押したり引いたりするもののビクともしない。
「そりゃそうよね! この流れで扉が開いたためしなんてないもの!!」
誰に向けてだかわからない文句を叫んでいると、迫りくる足音が段々と大きくなる。
「ノブ、お前そっちから回り込め」
「合点承知だぜ、アニキ!!」
二手に別れて取り囲む算段らしい。あたしは咄嗟に左にフェイントを入れて、右方向に向かって駆けだす。
「あかーん! 逆方向に逃げちゃったぜ、アニキ!!」
「バーローそれでいいんだよ。そっちは行き止まりだ」
え、嘘!? 躊躇するあたしの足が一瞬スピードを落とした。
「嘘だよ!! はいターックル!!」
隙を突かれる。あたしの身体は兄貴分の体当たりを背中に受けて、胸から地面に押し倒されてしまう。
「ヒャッハア! 上手いぜアニキ!!」
「へへ、そう褒めんなっての……オイコラ、暴れんじゃねえ!!」
「いやあああああああああっ!!」
悲鳴を上げると、兄貴分が身を起こし、お尻を使ってあたしの背中を押し潰してきた。
「うぷっ!!」
肺から空気が押し出される。すごく苦しい。けどそれ以上にどんな体勢なのかって思う。ガキ大将がいじめられっこを椅子にしてるのまんまでしょこれ……。
「悪く思うなよ。報酬は後払いなもんでな」
「…………」
肺に残った空気が尽きた。もうなにも言えない。
了承も拒絶も意思表示できずにいると、背後に向けて声を張った。
「もうヤっちまっていいんだろ? 王子サマよぉ!!」
礼拝堂跡内に響き渡る声だ。答えたのはノックスじゃなかった。
「いいよ!! 構わずやっちゃって!!」
「あ……アカネさん……?」
じわ、とあたしの目元に涙が滲む。すごくショックだった。ノックスに言われるよりもずっと、アカネさんにそんなことを言われたのがつらい……。
「お? 粘るか?」
頭上で声がする。潰れた肺を無理に膨らませて、あたしは声を出した。
「どうしてこんなこと……あたし、なにか悪いことした?」
聞くまでもなく答えなら知っている。なにもしてない。会話だって事務的なもの以外に交わしたことがない。アカネさんに恨まれる覚えなんてない。
でも、それでも今、悪意は明確な暴力のかたちをとって、あたしの身に振り下ろされようとしている。
「してないよ。ハートさん、あなたは私になにもしてない」
「だったらやめて、こんなこと……」
「それはできないよ」
バッサリとそう言い切って、アカネさんは続けた。
「だって邪魔なのよ。あなたは、私の目の前に落ちてきた岩なの。どかさなきゃ前に進めない。だったら、たとえそれが禁じられたことであっても、私はそうする。どれだけ大きなリスクを犯しても一緒になりたい人がいるの」
アカネさんの声の印象は、教室内で聞いたどの声とも違っていた。
この人は、きっと何重にも嘘を吐いてきたのだ。目的のためにそうしてきた。
でも、最後に聞いたこの言葉だけはきっと本当だと、あたしにも思えた。
「だからごめんね……私のことは恨んでくれていいから」
ヒューッ、という口笛の音色が響き渡った。
「北風だな。湿っぽくなってきやがった。まったく良くねえ。俺の気分も乗ってこねえ。こんな日にゃあ仕事なんざさっさと済ませて、家で酒でもかっくらうに限る」
兄貴分はあたしに腰かけて押し潰したまま、こちらに話しかけてくる。
「目的は金だ。暴れなきゃ穏便に済ましてやる。目でも瞑って女神サマに祈るか、テメエの大事な人間のことだけ考えてろ。そうすりゃ、すぐに終わる」
そうか、すぐに終わるのか。
どうせ逃げられないし、ならもういいか。
あたしが足掻くのをやめて脱力しようとした、そのとき――。




