プロローグ2 可愛いには勝てないよね
——ガチャリ。
お月様の高さ的に深夜くらいの時間。きっとみんなが寝静まったころに僕は目を覚ました。
結局あの後、部屋の外で僕を見張っていたであろう兵士は一言も話すことなく姿を消していた。
部屋に鍵すらかけず、不用心だなぁと思いながらも僕は外に出る。
そもそも脅威にすら感じていないだろうし、ただのハズレくじが動き回ったとしても関係ないのだろう。
軟禁されていた部屋から密かに逃げ出し、静寂に満たされた古い城内を忍び足。
できるだけ人気がない方へと向かう。
潮の香りが漂ってくることから近くに海があるのがわかった。
(海に出てそれに沿ってコッソリ逃げられないかな)
その為にはこの城の何処かから城壁を超える必要があった。
真っ暗な回廊の一角にだけ松明の明かりがついている。兵士の詰め所のような部屋だ。
こんな奥まった場所に兵が駐在できる部屋があるということは、この奥に別の出入り口があるか重要な何かがあるかのどちらかだと思う。
「【隠ぺい】」
小さくつぶやいてイメージを明確化。自分自身の音と姿を隠す。
あまり長時間は生きてるものや常に動いているものは長時間隠せないけど、すごく便利だ。
効果があるうちに詰め所の前を通り抜ける。
ちらりと部屋の中を見てみると兵士はたらふくのお酒を飲んだのか酔いつぶれていた。
スキル使ったのもったいなかったかな。
再び真っ暗な回廊を進む。
奥に進めば進むほど人の気配が消えていく。そのたびもしかしなくても出口がないんじゃないのかと不安になってくる。
そもそもこんな暗い時間に未知の場所をうろつくこと自体がリスクでしかない。
だとしても【異世界召喚】のスキルを奪ったことがバレるのも時間の問題だと思えば楽観視できない。
不意に何か嗅ぎなれた香りを感じた。
甘くほのかに流れてくる香り。よく朝の散歩をしていた時に嗅いだことのある香りだった。
ジャスミン系の花だ。
その香りに誘われるように進んでいくと広く開けた場所に出た。
今までのくらい城内とは違い、月明かりが降り注いでいた。
青白い光で照らされた空間は広い庭園だった。
月光のグラデーションの中、色とりどりの草花が花を咲かせている。
天井は広いガラスの窓になっていてそこには大きな2つの月が光輝いていた。
「ねえ、あなた」
冷や水を浴びせられたように心臓がはねた。
ガッと体が熱くなる。
不意に声が聞こえた。
広い庭園の中心部にあるテラス。白い大理石で拵えられたテーブルに1人の少女がいた。
「あ」
思わず声が漏れた。
天窓から注ぐ月光に照らされた彼女の肌は白く、ありきたりな言葉だけど白磁のよう。
艶やかな光を反射するほど艶のある髪もまた朝焼けの空のようなピンクブロンド。腰ほどまであるだろう長さの髪は後ろで2つに結い上げている。
僕を見つめる瞳は赤く、何かを見透かすような力強さを感じた。あと少しの諦観も。
素直にすごくかわいいと思った。
「ねえ、聞いてる?」
「うん。かわいいね」
うん、かわいい。
「は?」
「ん?」
彼女の視線が冷たくなったのを感じた。しまった、声に出てしまった。
本当にそう思ったのだから仕方がない。と言いたいけど開口一番がこれでは失礼にもほどがある。
何とか取り繕わなければ。
って僕は隠れながら進んできたのに彼女に見つかった時点でアウトなんじゃないの???!
ええっととにかく何かいわないと。
「はぁ……まあなんでもいいわ。あなた誰の差し金なの?」
「えっと?」
差し金?何の話だろうか。
「おおかたルミネの手のものでしょうけど、無礼よ。名乗りなさい」
足を組み換え座したまま彼女は威圧的に告げた。
ルミネという人に心当たりはないけど、確かに名乗らないのは失礼だと思った。
「ごめんなさい、僕は鳥田賢生といいます」
「トリタケンセイ?ああ、異世界人ね。そういえばルミネが近々召喚するって言っていたわね」
名前を聞いただけで異世界人だってわかるということはきっと関係者なんだろう。
もしかするとそのルミネって人が召喚したお姫様なのかもしれない。絶対そうだ。
つまり僕は甘い香りに誘われて捕まってしまった哀れな羽虫ってわけだ。
ただ悪いことばかりでもない。ここの庭園をよく見てみれば、全面ガラス張りの外は城壁ではなく切り立った崖になっていた。
遠くから波の音も聞こえてくる。
つまりこの窮地さえ切り抜けてしまえば城から逃げ出すことができるかもしれないということだ。
「それで、あなたはあの子に何を命じられてきたの?私を手籠めにでもして来いって言われたのかしら?」
「そうそう僕は……ってちがうよ!?」
手籠め!?この子は何言ってるのさ!
これ見よがしに身を抱えて後ずさりする彼女。きもっとか言わないでよ。
「僕はそもそもここから逃げ出そうとしてただけで誰の指示も受けてないよっ!」
「あら、違ったのね。ごめんなさい、てっきりルミネが仕向けた恥知らずな異世界人かと思っていたものだから」
「もう目的喋っちゃったからいうけど僕はここから逃げ出したい。君には悪いけど従ってもらうよ」
こうなれば仕方がない。
はったりの1つでもかまして出口を聞き出すしかない。
できるだけ声色を低く、威圧感を込めて言う。
「こう見えても異世界から呼ばれた勇者なんだ、とても強いスキルを持っているんだ」
「ふうん?それで私をどうするつもりかしら?力ずくで従わせるってこと?」
ぐ、ちがうんだ。違わないけど違う。
僕はとにかく逃げたいだけなんだ。でもこの子はあのお姫様の知り合いで、僕がここにいたことを知られた時点で衛兵を呼ばれて捕まってしまう未来しかない。
それだけは避けないと。
どうしよう。ほんとに彼女をどうにかするしかないのか。
母さんはいつも言っていた。
『どんなことがあっても自分よりも力が弱い人を傷つけてはだめよ。特に暴力なんてもってのほか』
確かに言う通りだよ。僕だって誰かを傷つけたいわけじゃないし、それが楽しいなんて思わない。
目の前にいるのは女の子だ。僕よりも体格も小さい。いくらいじめられてる僕でもそれなりに筋肉だってあるんだ。
「……っふふ」
不意に笑い声。眼前の女の子からだ。
「ふふっ……あははは!」
え。なんで笑うのさ!
「あ、あなた。なんていうか、……優しいのね」
「えっと、僕は君を脅してるわけなんだけど?」
僕がそういうと彼女はまた吹き出すように笑いだして――
「いろいろ考えて凄んでるつもりなんでしょうけど、顔がおどおどしすぎよ。『すごい力持ってるんだぞー!』って言われても何というか可愛いわ……ふふっ」
「か、かか」
可愛いって!?何なのこの子!
あ――――もう!どうせ僕はチキンだよ!毛頭悪いことしよう!っできないし!
はあ、もう仕方がないか。やっぱなれないことするべきじゃないよね。
力が抜けてその場にうなだれた。
このまま捕まるならそれはそれでいいや。もしかしたらそのままお咎めなくて、逆に好待遇を受けるかもしれないし。
不安を無理やり押し殺してそう納得するしかないよね。
「まあ、お茶でも飲みながらお話ししましょうか。このルーナリアが相手をしてあげるのだから感謝しなさいね」
座り込んだ僕に手を差し出しながら笑う彼女はやっぱりかわいいんだ。
———
「それであなた、なぜここから逃げたいの?この国に呼ばれた異世界人はそれなりにいい待遇を受けるはずだけど?」
ティーカップに注がれたハーブティーをスプーンで混ぜながら、ルーナリアが言った。
頬杖を突きながらからんからんと音を楽しむように手を動かす彼女の視線は僕に注がれている。
僕はというと、生活指導の先生に呼び出された時のような変な緊張感があって肩を張っていた。
「ええっと、ステータスがよくなかったようで……」
「ふうん?でもそれが理由ではないでしょう?あの子ならスカ異世界人は使用人としてこき使うのが常だもの」
「え、そんな扱いなの?!」
あんな優しそうなお姫様がそんなこと、と思ったけどよくよく思い返してみたらその雰囲気は端々に出ていた気がする。
「そういう反応をするってことはそういう扱いが原因ではないってことね、ふふっ」
ルーナリアは楽しそうに笑みを浮かべながらお茶を一口飲む。
「なにか、あるんでしょう?」
彼女の見透かすような瞳が僕の目を見る。
赤く、赤くアゲートのような赤色。
じっと、篭絡するかのようなその宝石から目が離せない。
しばらくの沈黙。
見つめあう数舜。
—————『焔の弾丸【イグニスバレッタ】』
突然、側面から熱気と衝撃を感じた。
直後爆発音が鼓膜を強く震わせた。
吹き飛ばされて打ち付けた体が痛む。熱気と黒煙で肺が熱い。
いったい何が起きたのか。
そうだ、ルーナリアは?
「まさかー――本当に刺客が来るなんてね」
黒煙の中から煤だらけの顔を拭いながらルーナリアが現れた。
大きな傷はない。よかった。
「本当はそこのガキを始末しとけって命令だったんですがねー。まさかルーナリア様の元にいるとは思いませんでしたや」
「私もいると分かっていて、撃ったんですね。《影》のローハン」
ルーナリアは毅然とした佇まいで腕を組み、ローハンと向き合った。
ローハンという男は背丈も高く体格がいい。全身黒色の皮鎧と頭巾をかぶっている。
見た感じでわかる、暗殺者って風体だ。
「その通りでさぁ。もう1つの命令が《不自然なくルーナリアを殺せ》でしてねぇ。そこのガキには感謝しなくちゃあな。——欲に駆られてルーナリア様を犯して殺した異世界人。それを衛兵が発見し犯人はその場で誅殺。第二王女殿下のご遺体は見るも無残であったため火葬にって筋書で済ませられるんで」
「よくしゃべるのね」
「暗殺者は褒められないからねぇ。誰かに自慢したくなるもんさぁ」
あの男、僕を殺人犯に仕立て上げるって?そしてルーナリアを殺す?
どうしてそんな話になってるの??
「まあ、いつかは来るとは思っていたわ。おとなしく殺されてあげるからこの異世界人は生かしなさい」
「おや、相変わらずご慈悲の深いことですなぁ。まあ取引は嫌いじゃあないんで」
はっきりした口調でよどみなく言い放つルーナリアに、ローハンは肩をすくめて言った。
「ルーナリア様の容姿を大変気に入っていらっしゃる方が居ましてねぇ、その方のおもちゃになるっていうなら考えましょ。ルヴィント卿って方、知ってましょうや?」
ローハンが下卑た笑みを隠さずに言う。
それを聞いたルーナリアの方がわずかにはねた。
一瞬の沈黙。だがすぐに変わらない口調で告げる。
「はっ……問題ないわ。彼を確実に生かすのなら売られてもいい」
それを聞いたローハンはげらげらと笑う。
「そりゃ助かりますなぁ!あそこは金払いがいいんで、部下たちも喜びますわぁ」
不快だった。
僕がいつも受けている扱いみたいに馬鹿にして、相手の上に立ったつもりで、いろんなものを踏みにじってくる。
ミシミシと痛む体に力を入れて立ち上がる。
ルーナリアに近づいてみれば、彼女の肩は細かく震えていた。
怖いんだ。
それもそうだろう。自分の命を狙ってきた相手に、おそらく格上相手に立ち向かうように立っているのだから。
僕が部屋で大人くしていれば彼女が今日襲われることはなかったかもしれない。
そう考えたらこれは僕のせいだ。わが身可愛さに逃げようとした僕のせいだ。
母さんはよく言っていた。
『暴力はだめって言ってるけどね、女の子を助けるときは遠慮せずやりなさい。お母さんもお父さんに助けてもらったのよ!かっこよかったわぁー!』
利己的でもなんでも、なんとかしたいって思えたなら立ち向かうべきだと。そう教わった。
「ルーナリアさん」
僕が声をかけると彼女は一瞥もせずに告げた。
「あなたは逃げなさい。迷惑をかけて悪かったわ」
「いやです」
この世界に呼び出したことを指していることは分かった。
でもその謝罪は受け取れない。
もしその言葉を聞くのならあのお姫様からだ。
彼女の前に立ち暗殺者と向き合う。
あいつは気の抜けた口笛を吹いて余裕ぶっている。
「僕と逃げましょう。こんな理不尽許したくない」
気合を入れろ。鳥田賢生。
神様にもらった借り物の力でもなんでも使って生き延びてやる。
そう啖呵は切ったもののどうしようか。
後ろには煤だらけのルーナリア。前方10メートルくらいの位置に暗殺者《影》のローハン。
相手はプロの殺し屋。僕はただのチキンな高校生。
正直勝ち目があるなんて思ってない。だからこそ、何とか隙を作って逃げる。これしか手はない。
幸いあの男は完全にこちらを下に見ている。ルーナリアと僕のどちらも脅威だと認識していないはずだ。
きっとあのお姫様に僕のステータスを教えられているからだ。
この局面、活路はそこにしかない。
僕が知られていないスキル――【スキル奪取】だ。
触れた相手のスキルをランダムで1つ奪うスキル。とても強力なスキルだ。
だからこその制限がある。
奪えるのは6時間に1回まで。そして素手で相手の素肌に触れる必要がある。
つまりこの状況で目の前の暗殺者から《有用》なスキルを1回で引き抜く必要がある。
とんでもない博打だ。ただでさえ身体能力で劣っていて触れる事すら困難であるのに、その結果ですべてが決まる。
「ルーナリアさん。何とか隙を作りたいんだ、力を貸してほしい」
かっこ悪い話だけど、僕一人では絶対に無理だ。
「できることは少ないわよ」
「大丈夫ですっ!隙さえ出来たら僕が何とかする」
僅かに震えているがそれでもさっきまでの様子を取り繕って言う彼女。
僕がなんとかする。自分にも言い聞かせる。
「いやぁ、涙ぐましいねぇ。よくある物語の幕引きのようでさぁ。王都の歌劇に提言いたしましょうかねぇ」
ローハンが煽るように嗤う。よくわかる、クラスの皆と同じ顔だ。
僕を見下して、笑って、嘲る。こいつには何もできないだろう、と高をくくっている。
「まあ、長引かせても仕方がないんで。さっさとガキ殺して連れていきますかね」
そう言ってローハンは袖口から手品のように大ぶりのナイフを取り出した。
月光を反射する刃に思わず息をのむ。
あれが今から僕に突き立てられるのかもしれないと考えると、正直怖い。
でもやらなきゃ。ただ殺されるだけだ。
ローハンがナイフの切っ先をこちら向けてつぶやく。
「纏う風は刃なり【ガストブラッシュ】」
「ッ壁よ!【凝固】」
ローハンから放たれた突風をルーナリアが作った透明な壁が遮った。
ぎゃりぎゃりと金属を削るような不快な音とともに火花がいくつも散っている。
「不可視の風の刃よっ!飲まれたらバラバラになるわッ!!」
ルーナリアが叫ぶ。風に巻き上げられた草花が吸い込まれて塵になっている。
まったく反応できなかったけど、彼女の魔法?スキル?のお陰でミンチにならずに済んでいる。
それでも彼女も余裕というわけではない。
玉のような汗を額に浮かべて透明な壁に手を添え続けている。
「さすが防御だけはそれなりですねぇ」
「……ぐっぅ」
このままではすぐにも限界が来そうだった。
風の魔法はローハンから放射線状に吹き荒れている。壁から一歩でも出れば粉々にされてしまう。
何とか遮蔽物を用意出来たら。そう思うも今、僕に取れる手段は【隠ぺい】か【合成】、【異世界召喚】だけだ。
【隠ぺい】は音や姿を隠すだけ。初めからみられていたら効果は薄い。
【合成】は組み合わせるものを精査している時間もない。
【異世界召喚】は未知数すぎてこんなタイミングで使うのはリスクが高いが、打開できる何かがあるかもしれない。
この中で使えそうなものといえば【隠ぺい】と【異世界召喚】だ。
博打に博打を重ねることになるけれど、打開できるものを呼び出すしかない。できるだけ後ろ手に隠せるものだ。
右手を後ろに隠して念じる。
(【召喚】!できるだけ小さくて視界を遮れるもの!)
心の中でそう叫んだ途端、体の力が抜けるような感覚がのしかかった。確実に何かを消費した感覚だ。
それでも右手には固いものを握る感覚があった。
ってこれ!
【解析】を使って見てみれば詳細が視界内に現れた。
≪スモークグレネード;投げた後に煙幕を噴出する。色は赤。召喚時消費魔法力160≫
こんな武器も呼び出せるのか!間違いなく状況を打開できるアイテムだ。
しかし召喚するのに魔法力を160も消費するのか。とんでもない力にはそれなりの対価が必要なのだろう。
となれば呼び出せるのはこれ一個だけだ。
「ルーナリアさん!今から目くらましを使います!」
「ちょ、何をするつもりなのっ!?手が離せないのだけど!?」
やるしかない!
僕は右手に握ったスモークグレネードのピンをはじいてすぐに頭上を狙って投げた。
放射線状に飛びローハンの頭上まで飛んでいくグレネード。それを目で追うローハン。
彼は鼻で笑いながらナイフをグレネードに向けて風の刃をしならせた。
———瞬間、真っ赤な煙幕が破裂した。
「うおっ!?」
「ひあっ?」
ローハンとルーナリアが驚きの声を漏らした。彼が持続的に放つ風の嵐によって瞬間的にまき散らされた赤い煙が視界を閉ざす。
風の嵐はその音を止めた。今がチャンスだ。
僕はとにかく走ってローハンの元へ近づく。位置は今までの時間で測ってある。
目標は顔面。唯一素肌が露出した口元だ。
煙幕の中を一直線に走る。
「ちっ、目くらましの間に逃げようってかぁ?」
ローハンが風を操って煙幕を散らす。一瞬で庭園の端まで散らされる。
それでも距離は詰められた。
深く息を吸って、右手に力を込める。
ローハンは今、僕に気が付いた。さすがにプロなだけあって数メートルの距離でもすでに臨戦態勢だ。
ナイフをこちらに向けて身構えている。
魔法を撃ってくるはずだ。
「甘いねぇ!『焔の弾丸【イグニスバレッタ】』」
切っ先から僕たちを吹き飛ばした灼熱の弾丸が打ち出される。
弾道は完全に僕の頭を狙っていた。
「ルーナリアさん!!!」
全力で叫ぶ。
「ッ!風の防壁よ!!!【凝固】」
「ぐおっ!?お前、いつのまにっ」
瞬間、ローハンの体制が大きく崩れた。視界の奥、彼の背後に移動していたルーナリアが至近距離で風の壁を叩きつけたのだ。
走り出す直前にルーナリアへかけた【隠ぺい】のスキルで隠れて回り込んでいた。
そのチャンスは逃さない。
倒れそうなくらい体感を崩したローハンの顎にめがけて拳を振りぬいた。
——【スキル奪取】《エクストラスキル:潜影》を入手。
《潜影:影や闇の中を高速移動できる。影の空間には発動者が触れていれば本人以外も潜行可能》
視界にアナウンスが表示された。
僕はツイている。間違いなくこの瞬間の運は最高潮だった。
風のスキルなら飛んで逃げたりできるかも、とか火のスキルなら火を放ってどさくさに紛れてとか考えていたけれど。
このスキルならば今の時間帯、どこにでも移動することができる。
「くっそ、結構いい拳もらっちまったなぁあ。ルーナリア様もどついてくれちゃって」
これ以上この男と戦い続けるのは無理だ。本気になられたら生き残れない。
だからその前に逃げる!
ジンジンと痛む右手の熱さを振り切って、再度走り出す。
「ルーナリアさん!逃げるよ!!」
「ええっ!」
彼女の手首をつかんで庭園の外——海に面した崖へ走る。
「まて!!爆炎の弾丸よ【バーストバレッタ】ッ!!」
背中越しにローハンの声が聞こえる。魔法の追撃だ。
でもそれが来る前に。
「影よ!!【潜影】ッ!!」
ルーナリアを抱き上げると同時にスキルを発動する。
浮遊感。音の消失。
そして、闇に染まる視界の端を爆炎の弾丸が遠くへ過ぎ去っていくのが見えた。
風も、何も感じない無音の世界。
ただの闇の世界を流されるように移動していた。
その時間はほんの一瞬で、再び音と風を感じた。
表の世界に飛び出したのだ。
気が付けばルーナリア抱いたまま体は崖の外、たくさんの瓦礫と共に宙に浮いていた。
この移動をしている間にローハンがやたらめったら爆発魔法を崖に向かって放ったみたいだった。
走ってきた方向に視線を向けてみればこちらに向けて炎の弾丸を撃とうとしているローハンの姿が見えた。
空中で避けるなんて芸当は僕にはできない。
ルーナリアはさっきの潜行で意識がはっきりしていないのか反応がない。
不意に背中に温かさを感じた。
やっぱり僕はツイている。
視界の後ろから海を伝って光が波になって迫ってくるのがわかった。
——朝日だ。
地平線の向こうから放たれる陽光が一瞬ローハンの視界をぼやけさせる。
そして、背に光を受けるのは僕だけではない。
一緒に宙を舞う瓦礫も照らされる。
その1つ1つが小さな影を幾つも作り出す。視界に映る全てのものに影が落ちた。
「影よ!【潜影】」
大きく息を吸って、止める。
数多に重なる影に潜って、ローハンの視界から姿を消した。
影から影へ飛ぶように移動して射程外の崖下まで移動する。
正直ここからは何も考えがない。
これ以上追ってくるならもうお手上げだ。
目の前に迫るのは海面だ。
潜影で減速は出来ているが、深い海で泳いだことがないからどうなるか分からない。
それでもこれが最善だったと思う。
前に抱えたルーナリアを放さないように抱きしめて背中から水に落ちた。
もまれるような水流に底へ底へと引っ張られる。
呼吸が持たない。海面が遠すぎて浮かび上がれない。
せめてこの子だけでもと海面へ押し上げるように手を離したー―その腕を掴まれた。
ルーナリアがその赤い瞳で僕を見つめていた。
口を開けて少ない空気を気泡に変えた。
その瞬間——僕の足が固いものに触れた。そして次いで纏わりつくような水圧が消える。
「……っはぁあっ!ごほっっごほっ」
空気だ。息が吸える。どういうわけか息ができるようになった。
でもその理由はすぐに分かった。
ルーナリアのスキルだった。僕たちの周りの狭い空間だけど風と空気の防壁を作り出してくれていた。
「ま、まさか。けほっ……あのローハンから逃げられるなんて」
「ルーナリアさん!!!ありがとう!助かったよ!!もうこのまま溺れ死んじゃうかと思ったー!」
彼女には感謝しかない!
海に飛び込んだ後のことなんて考えてなかったし、甘くも見てた。
彼女と一緒に逃げていなかったらどのみち海でおぼれていたか、崖から滑落してたかも。
「ふふっ……それは私のセリフだと思うのだけど?」