無自覚な恋~雪斗視点~
築50年のボロアパート。
当然壁は薄く、外の音は丸聞こえ。そのため、住人である雪斗は音にかなり注意して生活するようにしていた……のだが。
「うるさい!」
朝から外がザワザワ、ガヤガヤ、ドタドタと騒がしい。同居人である幼馴染の姿はなく、この音の原因は自分で確かめるしかない。
安眠を妨害された雪斗は、文句を言うために外へ出たところで固まった。
「……ライ、オネル?」
そこにいたのは一人の色男。
いや、一人ではない。その後ろには騒音の元であろう引っ越し業者。ただ、荷物を運びこもうとしているが、外廊下が狭くドアも小さいため搬入に苦戦している。
しかも、その家具はブランド物で洗練されたデザインの、どう考えてもボロアパートには不釣り合いで、床が抜けそうな重量物ばかり。
そんな混沌とした状況を背景に、全世界の女性を虜にした純然たる雄の気配を振りまく、超絶イケメンがキラキラ笑顔で立っている。
それだけで、今にも崩れそうな外廊下が、イタリアの裏路地に見えてくるから不思議だ。
空間さえも変える男が、魅惑的に口角をあげながら雪斗へ声をかける。
「隣に引っ越してきた。よろしく」
その言葉に雪斗の意識が宇宙へと飛んだ。
(なにがどうして、こうなった!?)
~※~
話は数日前に遡り――――――
「あの世界的人気モデルのライオネルと雑誌の仕事だって!? 凄いじゃないか、雪斗!」
「声が大きい。また、隣から五月蠅いって苦情がくるだろ」
買い物から帰った雪斗が注意するが、返ってきたのは晴れ晴れとした青年の笑顔。
「あぁ。隣なら昨日、引っ越して空き家だから大丈夫だ。これで堂々とギターが弾ける」
「そうなのか? いつの間に……」
ボロアパートの二階にある角部屋。
雪斗のルームメイトであり、幼馴染の颯真が説明しながら抱えていたギターを横に置いた。その周りには書きかけの楽譜が散らばる。どうやら作曲の途中だったらしい。
「そんなことより、大出世じゃないか。さすが、人気急上昇中のモデルだな」
自分のことのように喜ぶ幼馴染に対して、雪斗はマスクの下で『地上に舞い降りた大天使』『リアル王子』『国宝に指定すべき尊顔』と称される顔を歪めた。
「僕は、俳優として! 映画で、アクションの共演を! したかったんだ! そのために、演技の勉強をしながら、体力作りとアクションの練習もしていたのに!」
もやしと特売の肉を買い込んだエコバックをキッチンに置きながら盛大に愚痴を並べる。
だが、この愚痴も実は喜びの裏返し。要はツンデレのツン。
そんな雪斗の面倒くさい性格を知っている颯真は慣れた様子で軽く流した。
「はい、はい。海外モデルのライオネルが雪斗の事情なんて知るわけないだろ。それより、大量のもやし相手に文句を言ってるとこなんてファンに見られたら幻滅されるぞ」
「ここには颯真しかいないからいいだろ。で、授業はどうしたんだ?」
「教授が急病で講義が休校になった」
「なら、連絡してくれよ。この恰好でスーパーに行くと、不審者のように見られるからさ」
文句を言いながら雪斗が被っていたフードを取り、その下の帽子と、太い黒縁眼鏡とマスクを外す。
その瞬間、窓は閉まっているのに爽やかな風が室内を吹き抜けた。
光によっては金色にも輝く特徴的な淡い茶髪。色素の薄い大きな茶色の瞳。ツンとした鼻に、花弁のような唇。きめ細かく滑らかな白い肌はメイク担当のスタッフがいつも羨むほど。
十人すれ違えば、十人が振り返る美貌の青年。
雑誌で話題の新人モデル。
ただ、雪斗は自分の容姿が好きではなかった。
母は日本人だが、父は不明。幼い頃に亡くなったと聞いているが写真などはなく、自分の容姿から想像するに日本人ではなかったのだろう。
そのため、幼少時代は黒髪、黒瞳でないことをイジられることが多かった。
しかも、母は自分を養うために夜遅くまで仕事。それでも暮らしていくだけで精一杯。だから、心配をかけまいと明るく振る舞い、家事も積極的に手伝った。勉強は奨学金をもらうため、常に学年一位。
それは大学生になった今も続いている。
「でも、今回の仕事でかなりの金が入るだろ? それに、仕事が増えるかもしれないぞ」
「そ、それは……」
高校生の時、街で偶然スカウトされて始めたモデル。
少しでも家計の足しになれば、という程度だったが、上京した今では一人暮らしに必要な費用を自分で稼げるほどに。
「たしかに……世の中、金だ。金がなければ、生きていけない。だから、今回の仕事は仕方ないんだ」
雪斗は苦渋の決断をするかのように唸る。その様子に颯真は肩をすくめた。
「素直に喜べばいいのに」
聞こえないほどの小声だったのに、雪斗が素早く睨む。
「なにか言ったか?」
「いや、何も」
颯真はワザとらしく口笛を吹きながらギターを抱えた。
※
一人で過ごすことが多かった少年時代。
その時、たまたま見た海外のアクション映画。自分より少し大きな子役が空を飛ぶように駆け、大の大人を蹴り倒していく。
その光景に目を奪われ、釘付けとなった。
見慣れたはずのテレビ画面が新鮮に映り、今まで感じたことのない興奮に包まれる。
それから、その子役が出演している映画を探し、吹き替えではなく原作を見るために英語を猛勉強した。ずっと憧れていた、雲の上の存在。
いつか会えれば……という気持ちだったが、本当に実現するとは考えてもおらず――――――
撮影当日。
緊張と興奮で睡眠の浅い日が続いた雪斗は、高鳴る胸を押さえて撮影スタジオの廊下を歩いていた。
まるで遠足前の小学生のようにウキウキして、つい足取りも軽くなる。
「いや、いや、いや。落ち着け」
浮つく自分を誤魔化すように、ワザと不満を口に出す。
「人気モデルである僕が、俳優くずれのモデルと撮影なんて……」
そこに、背後から腰に響くような低い声が絡みついてきた。
「ほう? 俳優出身のモデルとは仕事できない、と?」
ギクリと肩が跳ねる。誰もいないと思っていたのに。バカ正直に『照れ隠しで言いました』なんて、山より高いプライドを持つ雪斗が言えるわけない。
「いや、そうではなく……」
言い訳を考えながら慌てて振り返る。
その瞬間、世界が止まった――――――
漆黒の闇を溶かしたような黒髪。魅惑的な輝きを放つ深緑の瞳。まっすぐな鼻筋に薄い唇。太い首に鍛えられた体。雪斗も背が高いが、それを軽く見下ろす人物。
(ライオネル、本人!?)
声も出せず呆然と見つめる雪斗。あまりにも自然な日本語だったため、ライオネルが話したとは思えず、頭は混乱しまま。
そこにねっとりとした甲高い英語が響いた。
『ライオネル、メイク室はコッチよ』
筋肉質な腕に細い腕がスルリと絡む。緩いウェーブの金髪がライオネスの広い肩にかかり、青い瞳がうっとりと見上げ、ぷっくりとした艶やかな赤い唇が誘惑するように微笑んだ。
そのまま甘く見つめ合う二人。まるで、恋人同士のようなベタベタとした距離。
この光景に、ストイックなアクション俳優のイメージがガラガラと崩れていく。
(……あの噂は、本当だったのか)
ライオネルはある日、唐突にモデルへの転身を発表した。
噂では、俳優よりモデルの方が楽に女にモテると公言したとか、してないとか。最初にその話を耳にした時、マスコミによるネタだと雪斗は鼻で笑った。
だが、実際に目の当たりにすると……
希望が失望へ。喜悦が悲嘆へ。光が闇へ。浮かれていた気持ちは、崖を転がり落ちて泥沼に沈んだ。
(こんなヤツに憧れていたなんて)
グッと両手を握りしめながら、雪斗は蔑むように軽い笑みを作った。
「言葉の通りですよ。女性に現を抜かしているようなヤツとなんか……んぐっ!?」
突如、背後から口を塞がれる。横目で確認したら、事務所の社長がいた。雪斗を直々にスカウトした本人で、元モデルという経歴の持ち主だ。
若さから渋みがある大人へと成長したイケオジ社長が悠然と微笑みながら頭をさげる。
「うちのモデルが失礼をしました。あとでお詫びに伺いますので」
そのまま有無を言わさない強さで雪斗を引きずり、二人はメイク室へ移動した。
「ちょっ……社長!」
解放されると同時に文句を言おうとしたのだが。
「雪斗ちゃぁぁぁんんん? うちみたいな弱小事務所がトラブルを起こしても、なぁぁぁ――――んにも特はないって、知ってるわよねぇぇぇ?」
先程までの渋いイケオジの姿が消え、強烈なおねぇ言葉が叩きつけられる。しかも、小指を立てた手を顎に当てたまま、顔面ドアップで。
「は、はい」
その迫力に押されて黙る雪斗。そこにイケオジもとい、おねぇ社長が淡々と諭す。
「これは我が事務所にとって、今後の命運が決まる、とぉぉぉぉぉっても重要なお仕事なの。頭の良いあなたなら、重々わかっているでしょ?」
「……はい」
「プロは仕事に私情を挟まない。あなたなら、できるでしょ?」
期待が込められた言葉に、フツフツと湧きあがっていた怒りが冷める。
(そうだ。他人の色恋沙汰なんて僕には関係ない。いつもなら軽く流していたのに……)
雪斗が大きく息を吐いて顔をあげた。
「はい。申し訳ありませんでした」
その様子に社長が軽く肩をすくめる。
「先方にはあたしが謝罪に行っておくから、雪斗ちゃんは仕事に集中しなさい」
「はい。すみません」
素直に謝った雪斗の頭を社長がくしゃくしゃに撫でると、スタッフに指示を出した。
「さっさと雪斗ちゃんのメイクとスタイリングを仕上げて。相手はあのライオネルよ。撮影時間は予定の半分しかないと思いなさい」
多忙なライオネルはスケジュールが分刻み。こちらの都合で遅らすわけにはいかない。緊張とともにスタッフたちがキビキビと動く。
こうしてメイクとスタイリングを終えた雪斗は複雑な内心を隠してスタジオ入りした。
何回か撮影したことがある雑誌の表紙。そのため、撮影スタッフも顔見知り。
だが、今日はいつもと雰囲気が違った。緊張と無言の圧が圧し掛かり、新人スタッフなどはその空気にのまれて動きがぎこちない。
「……大丈夫か?」
こういう時の嫌な予感は当たらなくていいのに当たりやすい。
ライオネルがスタジオ入りすると、一瞬で空気が凍った。それまでのざわつきが消え、鎮まり返るスタジオ。男性陣はゴクリと息を呑み、女性陣は緊張しながらも見惚れている。
このままでは、ライオネルの空気に呑まれる。
そう判断した雪斗は、この雰囲気を変えるために踏み出した。
「先程はすみませんでした。本日、一緒に撮影させていただく要 雪斗です。よろしくお願いします」
自己紹介をしながら笑顔で手を出す。
そんな雪斗を深緑の瞳が静かに見下ろし………………スッと顔を背けて離れた。
微妙な間だったが、少し離れた場所に移動したライオネルは右手で口元を押さえてブツブツと呟いている。
そのことに雪斗の中で戦いのゴングが鳴った。
(はぁぁぁぁ!? こっちが下手に出てやったのに! 噂通り、モデルになった目的は女か! 僕が女じゃないから不満なのか!? そっちがその気なら、こっちもヤッてやる! 見てろよ!)
先に失礼なことを言った自分のことは遥か彼方の棚に上げ、ライオネルを女好きの最低男へと評価を下げ、敵対心を燃やしていく。
それでも、今は大事な仕事中。
怒りを抑えた雪斗は、撮影の邪魔にならないように準備された椅子に座った。
スケジュールが詰まっているライオネルが先に一人で撮影をして、次に二人で撮影。そして、最後に雪斗が一人で撮影の予定。
そのため、お手並み拝見とばかりに足を組んで眺めていたのだが。
「……やっぱり、うまいな」
雪斗が表情には出さず、悔しさをこぼす。
モデルは俳優と違ってセリフや動きはない。カメラに収める、その一瞬、その瞬間ですべてを伝えなければならない。たった一枚の写真で読者を虜にする。それは、容易なことでない。
だが、ライオネルという男はそれをやってのける。
「いいね、その視線! もっと、こっちに頂戴! そう、その表情もいいね! 最高だ!」
最初は雰囲気に呑まれかけていたカメラマンも普段の調子で褒めながら次々とシャッターを切っていく。他のスタッフも最初は緊張していたが、最高の被写体にプロ根性が刺激され、ライオネルから最高のパフォーマンスを引き出そうと動く。
この光景に雪斗は口元に手を当てて呟いた。
「……並べる、か?」
この純然たる雄の雰囲気をまとったライオネルの隣に自分は立てるのか。
(見劣りするのでは…………)
思わず浮かんだ弱音。
「いや!」
頭を振って気持ちを振り払う。それから、両手を額に当てて俯いた。
「僕は世界一のモデル。僕は世界一のモデル。僕は……」
これまで見てきたモデル雑誌を思い出しながら暗示のように言い聞かす。
腹は立つが、この仕事が決まってからライオネルの写真集も買い、どの位置、どの角度なら自分が見劣りせずに輝くことができるか研究してきた。足を引っ張るなんて、絶対にしたくない。
見劣りするなんて、以ての外。
「じゃあ、次は二人で! 雪斗君、いけるかい?」
名前を呼ばれて顔をあげる。
「はい」
爽やかな笑顔で立ち上がる。
それだけでスタジオの空気が一変した。撮影のコンセプトである清々しい初夏の風が吹き抜ける。ライオネルが眩しい太陽なら、雪斗は涼しさが漂う清涼な小川。
相手に合わせ、求められるモデル像をそのまま作り出す。
これが脅威の新人モデルであり、依頼が絶えない雪斗の実力だった。
~※~
「いいね! もっと顔を寄せて! 目線はこっち!」
ライオネルの広い肩に手を置いた雪斗が軽く首を傾げる。少々、体重をかけても揺るがない体幹。服の上からでも分かる鍛えられた筋肉。正直、ポーズがとりやすい。
順調に撮影が進む中、カメラマンがスタッフに指示を出した。
「飲み物もってこい! 二人で飲んでいるところを撮るぞ!」
「は、はい!」
予定にない設定。新人が慌ててグラスに氷と炭酸水を入れて運ぶ。
「おまたせしまし……あっ!」
新人がバランスを崩してこけた。全員が注目する中、グラスは炭酸水をまき散らしながら宙を飛んで……
「チッ!」
舌打ちと同時に雪斗の体が引き込まれる。
柔らかな胸筋が顔に当たり、逞しい腕に包み込まれた。次に、温もりと柔らかく心地よい匂いが鼻をかすめ……
バシャ!
水が跳ね、グラスが転がる。しかし、雪斗はまったく濡れていない。
まさか!? と顔をあげると、そこには水も滴る色男がいて……
(うっ!)
同性の雪斗でも思わず胸が高鳴った。
雫が垂れる黒髪。艶美さが増した深緑の瞳。潤い艶めく薄い唇。精悍だが色香が漂う、色気の暴力の塊。
その姿に時を忘れて惹きつけられる。
「す、すみません!」
スタッフの震えた声で雪斗の意識が現実に引き戻された。
「すぐに着替えを準備しますので!」
「そんな時間ないぞ! あと五分で終了だ!」
ライオネルの事務所のスタッフが怒鳴る。
(クソッ! 僕としたことが、見惚れてしま……いや、今はそれどころじゃない。残りの撮影をしないと)
カメラマンと雑誌の編集者の様子から、納得のいく写真が撮れていないのだろう。
雪斗はライオネルの腕から抜け出すと、改めて現状を確認した。髪も衣装もベッタリと濡れており、あと五分では乾かすことも着替えることもできない。
(どうするか……)
悩む雪斗の視界に炭酸水が入ったペットボトルが入った。
「……やるか」
ペットボトルを手にした雪斗が全力でシェイクする。
「何をするんですか!?」
慌てる新人スタッフ。だが、雪斗の意図を悟ったカメラマンがすぐにカメラをかまえ、他のスタッフに離れるように指示を出す。
「行くぞ!」
思いっきり振った炭酸水の蓋を開ける。
ブシュッ!
想像通り細かな泡となって吹きだす炭酸水。蓋を外した雪斗はペットボトルの飲み口を指で塞ぎ、ライオネルへ噴射した。
「何をする!?」
叫んだのは、直撃を喰らったライオネルではなく、ライオネルのスタッフ。だが、雪斗は手を止めることなく炭酸水をすべて撒いた。
「……そうきたか」
耳に心地よい低い声が響き、ゆらりと黒髪が揺れる。
髪から滴り落ちた水が、汗のように太い首筋を流れ、男の情欲をかき立てる。腕から垂れる雫を赤い舌が舐めあげながら、深緑の瞳が獰猛に色素の薄い茶色の瞳を捕らえた。
それだけなのに、雪斗の体がゾクリと震える。触れられても、近づいてもいない。視線だけなのに、全身を舐められたような感覚に襲われる。
しかも、それだけではない。
今まで感じたことがない怖れと、高揚感。飢えた狼を前にしたような、今にも襲われそうな恐怖を感じているのに、この視線を独り占めしていることに心が躍る。
複雑な心境の雪斗に対して、白い歯を見せたライオネルが近くにあった炭酸水のペットボトルを奪い取ると、勢いよく振って反撃を始めた。
的確に頭から顔までグッショリに濡れた雪斗だが、すぐに新しいペットボトルを手にする。
「まだ、まだ!」
さっき以上に炭酸水を振り、勢いよくライオネルへ吹きかける。
「ならば、こうだ!」
すぐさまライオネルも新しい炭酸水で応戦する。
二人とも炭酸まみれのびしょ濡れ状態。髪をかきあげ、水遊びを楽しむ子どものように笑いあいながら炭酸水をかけあう。その間、シャッター音は止まることなく。
「時間です!」
ライオネスの時間切れ。次の現場に向かわなければならない。その前にシャワーと着替えが必須だが。
「良い絵が撮れたよ!」
満足そうなカメラマンの声に、雪斗は淡い茶色の髪をかきあげて息を吐いた。
途中から完全に撮影を忘れて楽しんでいた。こんなことは初めてだ。
そこにライオネルが近づいてくる。ボタボタと雫を垂らしながら笑う姿は、雑誌やテレビとは違う柔らかさが漂う。
「今日は楽しかった。また一緒に仕事がしたい」
その言葉にライオネルの事務所のスタッフがざわついた。どんな共演者であろうとも、こんなことを言ったことはない。
だが、そんなことを知らない雪斗は軽く口角をあげた。
「なら、頑張ってください」
これまでの行動でライオネルの評価は地に落ちている。それに加えて、世界一のモデル役の暗示が抜けていない、雪斗は自然と上から目線での回答していた。
スタジオの隅で見守っていたイケオジ社長が光速でライオネルのスタッフに謝罪する。
しかし、言われた本人は深緑の瞳を丸くした後、楽しげにフッと笑った。
「あぁ。君に指名してもらえるように頑張るよ」
嫌味でもなく、素直な返事。
その様子にライオネルの事務所のスタッフがあんぐりと口を開けたまま固まる。
「じゃあ、また」
そんな周囲を気にすることなくライオネルが雪斗の隣を抜けた。
「ん?」
去り際に触れた大きな手。気が付けば直筆で電話番号が書かれた名刺が雪斗の指の間に差し込まれており……
「……まさか、こうやって女性に声をかけているのか?」
上がりかけていたライオネルの評価が地下へと潜っていく。
そこにカメラマンが声をかけた。
「雪斗君、このまま撮影の続きをしてもいいかい? すっごく良いものが出来そうなんだ」
「いいですよ」
ここからは雪斗一人での撮影となり、スタジオはいつもの雰囲気に。心地よい緊張感の中で撮影が進み、写真チェックをして予定通りにすべてが終わった。
「はぁぁぁぁ……」
撮影スタジオにあるシャワーを浴び、服を着替え、意識をモデルから雪斗へ戻す。
普段ならここで晴れ晴れと家路につくのだが。
(あ――――――――!!!!!!!! いろいろ、やりすぎたぁぁぁ!!!!)
穴が合ったら入りたい。時間が巻き戻るなら、やり直したい。でも、それは不可能で。
心の中で絶叫しながら重い足取りのまま、ボロアパートへと帰っていった。
~※~
「最悪だ……いや、仕事としては良かったんだけど」
最後の炭酸水のかけあいはライオネルの活き活きとした顔を撮ることができた、とカメラマンや雑誌の編集者から褒められた。
ただ、あれから雪斗の心臓が、心が、落ち着かない。
「何なんだ……」
野生の狼のような、底が見えない深緑の瞳が忘れられない。思い出すだけで、ドキドキするような、胸が苦しくなるような、感じたことがない感覚。
これまでは、どんなことがあろうと仕事が終われば意識を切り替えてきた。普段の生活に、特に学業に影響を残すことはなかった。
それなのにライオネルとの撮影後から、いろんなことに身が入らない。
大学の講義は上の空。どうにかノートだけは取っているが肝心の内容が入ってこない。
特売の野菜を買うためにスーパーに行った時は、変装を忘れて大騒ぎの一歩手前になった。あまりのドジの連発に心配した同居人の颯真からは、大学とバイト以外は外出するな、と言われる始末。
「はぁ……なんで、こんなことに」
ボロアパートにある自室。
深いため息とともに持っている名刺へ視線を落とす。力強く書かれた直筆の電話番号。これを見るだけで、撮影の時に抱きしめられた記憶が蘇る。
(……いい匂いだったな)
クラリと眩暈がするような強い雄の香り。そこに、柔らかくも厚い胸板と、自分を支える鍛えられた逞しい腕の感触。鮮烈すぎて簡単には忘れられない。
(どこの香水だろう……僕も同じ香水をつけたら、あんな風になれるのか……)
と、考えているとスマホが鳴った。
慌ててスマホを手にすると、画面には名刺の直筆と同じ番号が。
「え? えぇ!?」
驚きながらも、ほぼ反射で通話ボタンをスライドさせる。
「あ、あの……」
『やぁ、ユキ君かい?』
その声にキュッと胸が締まる。何度もテレビ越しに聞いていた声が、自分のスマホから聞こえる。
緊張と、喜びと、驚きと、様々な感情の波に襲われながらも頭は妙に冴えていて。
「僕の名前は雪斗ですが」
ここでツンデレのツンが発揮され、不思議なほど冷えた声が口から出ていた。
『あぁ、ユキ君のほうが呼びやすいと思ったんだが、ダメか?』
まるで長年の友人のような馴れ馴れしさ。だが、そのことに嫌悪感はなく、むしろ嬉しさが募って。
「……し、仕方ないですね。呼びやすいように呼んでいいですよ。で、何か用ですか? いえ、その前にどうやってこの番号を知りました?」
ツンデレのツンというか、ついプライドが邪魔をして偉そうに話してしまう。
だが、電話の先のライオネルは気にした様子なく。
『君の事務所の社長から番号を聞いたんだ。いつまで待っても連絡がなさそうだから』
(僕からの連絡を待っていた!?)
予想外の言葉に驚きながらも、平静な声音で話を進める。
「撮影から二日しか経っていませんが?」
『もう二日だよ。それで、もし君の予定が空いていればなんだが……今夜、一緒に食事でもどうだい?』
食事という言葉に雪斗の眉がピクリと跳ねる。世界的なモデルとの食事なんて、どれだけの金を積んでもあり得ない事態。
素直に「はい」と返事をすればいいのに、ここで雪斗の面倒な性格が顔を出す。
「……えらく急な話ですね」
不機嫌混りの声と言葉に対して、ライオネルはすまなそうに会話を続ける。
『なかなか時間がとれなくてね。難しいなら、君の予定が空いてる日を空けるよ』
相手は世界的な売れっ子モデル。日本にいる間、食事をしたいと誘ってくる相手はいくらでもいる。それを自分のために時間を空けるなど贅沢すぎる。と、いうか先約が泣くことになるし、盛大に恨まれる。
少し間を置いた雪斗は決まっていた答えを口にした。
「今夜で大丈夫ですよ。どこに何時に行けばいいですか?」
『そうか! じゃあ、今夜7時に……』
スマホ越しでも相手の空気が明るくなったのが分かる。
雪斗は食事をする店の住所と時間をメモすると、スマホの通話を切った。それから、夢じゃないことを確認するために頬をつねり……
「イテッ! …………マジか」
半信半疑の声が古びた畳に落ちた。
~※~
「……本当にここか?」
ライオネルが指定したため、どんな高級店かと身構えていたら、教えられた場所は一軒の古民家だった。
石造りの塀に囲まれ、人を拒絶するような雰囲気さえ漂う。
「看板もないし、間違えたか?」
そう考えてもおかしくないほど周囲は普通の住宅街。高級住宅地とかではなく、ごく普通の家が並んでいて、近くには公園もある。
むしろ、この古民家が浮いているのだ。たぶん、この辺りが畑だった頃からあり、時代の流れで周りが住宅地になったのだろう。
「ライオネルがここに住んで……いるわけないよな」
入るか迷っていると、塀の奥にある横開きのドアがガラガラと開いた。
黒髪が風に揺れ、サングラスの下にある深緑の目がこちらを睨む。その様子にライオネルが暗殺者の役を演じていた映画を思い出した。その時と同じぐらい殺気を振りまき、警戒している。
その迫力に雪斗の足が思わず下がったところで、ライオネルの顔が明るくなった。
「やあ、待っていたよ」
雪斗に気づくと同時に空気がガラリと変わる。両手を広げ、久しぶりに再会した長年の友人のような笑みで近づく。
「入ってくれ」
さりげなく雪斗の腰に手をまわし、自宅のように招き入れる。
(まさか、本当に住んでいるのか!?)
半信半疑のまま、ゆっくり足を踏み入れると……
「いらっしゃいませ」
着物を着た店員に迎えられた。
そのことに雪斗がホッとするが、ライオネルは店員を無視して自宅のように案内をする。
「靴はそこで脱いで。こっちだ、こっち」
慣れた様子でスタスタと廊下を進む。
古民家を改装した店で、ふすまを外した広い部屋にテーブルと椅子が並び、その先にはライトアップされた日本庭園という落ち着いた大人な様相。
そこで、廊下の奥から食欲をそそる匂いが漂ってきた。醤油の煮付けの香りに空腹が刺激される。
(絶対に鳴るなよ、お腹!)
人前でお腹を鳴らすなど雪斗のプライドが許さない。
気合いを入れて歩く廊下はテカテカに磨き上げられた板張りで、歩くたびにギシギシと軋む。
(そういえば、人が歩いていることが分かるようにワザと軋んで音がするように造られている武家屋敷とかあったな)
空腹から気をそらすため、他のことを考えながら進んでいく。
こうして案内された先は、六畳ほどの個室だった。畳の上に座椅子とテーブルが置かれている。
「座ってくれ」
さりげなく上座を勧められ、雪斗は戸惑った。
(上座なんて知らないだろうけど……)
説明するか、そのまま座るか悩んでいるとライオネルが言った。
「君は俺が招待した客人だからな。奥に座ってくれ」
これは意味が分かっているヤツだ。
ライオネルの博識に感心しながらも雪斗は当然のように頷いた。
「では、お言葉に甘えてそうさせてもらいます」
ボロアパートの毛羽立った畳とは違う、い草が漂う滑らかで上質な畳の上を歩く。
そこで、ふと床の間にさりげなく飾られた花瓶が目に入った。傷つけたら何十回分のバイト代が飛ぶか。考えるだけでも恐ろしい。
雪斗が心持ち花瓶から離れて座ると、ライオネルは長い足を収めながら座椅子に腰をおろした。
「椅子の方が良かったのでは?」
「いや。この方が畳を感じられるからな」
意外な発言に色素の薄い目が丸くなる。
(日本文化が好きなのか? ……悪い気はしないな)
自分の国を好意的に見られたことで、こぞばゆいような、誇らしいような複雑な気持とともに、地下に潜っていたライオネルの好感度が地面から芽を出す。
そこへ店員が注文を聞きに来た。
「俺はいつもので。君は、どうする?」
「僕はお茶で」
「かしこまりました。料理はどうしましょう?」
その言葉でライオネルが雪斗に訊ねる。
「食べられないものはあるか?」
「いえ」
「じゃあ、お任せでいいな。料理もいつものを」
「かしこまりました」
スッと店員が下がる。足音が遠ざかったところでライオネルが訊ねた。
「酒は飲めないのか? 成人しているんだろう?」
「多少は飲めますが、明日も学校がありますので」
「そういえば大学生だったな」
そう言いながらライオネルがふわりと目を細くする。どんな雑誌でも見たことがない、柔らかく甘い顔。その表情に、雰囲気に、雪斗の胸がドキリと跳ねた。
(な、なんだ!? い、いや。これはこれで、技術を盗むチャンスだ! この笑顔がカメラの前でできたら……)
耳が熱くなるのを感じながら目の前にいる色男を観察をする。
闇夜の主のような漆黒の黒髪から覗く、深緑の瞳。底の見えない怪しい輝きに惹き付けられる。それに加えて彫刻のように整った端正な顔。
座っているだけなのに、独特の存在感がある。
(悔しいけど、目の保養になるんだよな)
少し視線をさげれば、長い手足に服の上からでも分かるほど鍛えられた体躯。これだけ均整がとれた体は海外モデルでも、なかなか見かけない。
(筋トレメニューを増やすか。いや、回数を増やした方がいいか?)
悩む雪斗を無言で見守るライオネル。
ニッコリと笑顔を作っているが、その目は撮影の時のようなトゲがない代わりに隙もない。むしろ、何かを狙っているようにも見える。
そこに店員が日本酒とお茶を持ってきた。
「失礼いたします」
それぞれの前に飲み物が置かれる。
ライオネルは日本酒が注がれた江戸切子のグラスを手にした。
「今日は来てくれて、ありがとう。君とは、ゆっくり話をしたいと思っていたんだ」
「そ、そうですか」
グラスを傾け乾杯の仕草をされたため、応えるようにお茶が入った湯呑を持つ。そのまま軽く乾杯をして、次々と運ばれてくる料理に舌鼓を打った。
※
最初は緊張もあったがライオネルの話はモデルとして興味深いことが多く、かなり勉強になった。酒は飲んでいないのに、ふわふわとした心地よい気分になる。
雪斗は頬を緩めて本心から会話を楽しんでいた。
「正直なところ、高級なお店での食事って緊張してお腹いっぱいにならないのですが、このお店は美味しい上にお腹いっぱいになって幸せです」
素直な褒め言葉にライオネルが頷く。
「だろう? ここは祖母が里帰りをするたびに通っていた店なんだ」
「日本へ里帰り?」
「あぁ。祖母が日本人でね」
「それで日本語が上手なんですね」
「日本語の発音と作法に厳しい人だった」
ライオネルが懐かしむように日本酒を口につける。それから、雪斗の方へ顔を向けた。
「おかげで、こうして君と会話を楽しむことができる。祖母に感謝だな」
穏やかだが、真剣な眼差し。その瞳に見つめられると心がざわつく。
雪斗はそんな気持ちから逃げるように湯呑みへ視線を落とした。
「べ、別にあなたが日本語を話せなくても英語ぐらい話せますから」
「おや、そうだったか。それは失礼した」
目だけで覗き見れば、大人びた笑みをしているライオネル。
その笑顔に胸の奥が熱くなり、なんとなく恥ずかしくなった雪斗は無言のまま俯いた。
こうして美味しい食事と、心地よくも魔法のような時間はあっという間に過ぎ去って――――――
すっかり暗くなった住宅街。
料理を食べ終えた二人はタクシーが走る大通りまでのんびり歩くことにした。
「楽しい時間だったな」
「……それは良かったです」
僕も、という言葉を呑み込む雪斗。
隣から伝わる温もりが優しく感じるのは、陽が落ちて肌寒くなってきたから。
決して……
「君と離れるのが惜しいぐらいだ」
考えていたことを言われて胸がキュッとなる。
雪斗は誤魔化すように軽く笑った。
「酔っているんですか? 日本酒は飲みやすいですし、結構飲んでいましたもんね。あ、そこの自販機で水を買って、公園で飲みましょう」
薄暗い道の中でぼんやりと輝く自販機。
急いで駆けた雪斗は水のペットボトルを買って戻った。
「はい、どうぞ」
すぐ近くにあった公園のベンチに二人で座る。
「ありがとう」
水を受け取ったライオネルはそのまま蓋を開けて一口飲むと夜空を見上げた。
「……ここは、あまり星が見えないんだな」
「住宅街で明るいですから」
「祖母が幼いころは、この辺りは田んぼばかりで夜は星が綺麗だったそうだ」
「そうですか」
少し冷えた風が吹く。
それが少し火照った頬には丁度良くて。
(このまま、時が止まってしまえばいいのに)
と、柄にでもないことが浮かぶ。
(いや! いや! いや! 何を考えているだ!)
ブンブンと頭を振ったところで、ライオネルが声をかけてきた。
「どうした? 虫でもいたか?」
「いえ、なんでもないです」
すぐに澄ましたモデル顔で答える。
そんな雪斗にライオネルがふわりと笑った。
「君といると楽しいな」
「ど、どういう意味です!? そんなに変なことばかりしてます!?」
初めての撮影でやらかしたのは認める。だが、それ以降は普通に対応したはずだ。
「いや、そう意味ではなく……そうだ。これは、内密の話なんだが」
「なんです?」
モデルの仕事は表に出るまでに時間がかかることも多く、守秘義務の情報も多い。そこら辺の事情は同業者として理解しているつもりだ。
「とある日本企業からCMのオファーが来ているんだが、そのCMの曲選びに難攻していてな。なかなかイメージに合う曲がないんだ」
「はあ」
話の流れが見えない雪斗が生返事をする。
「そこで、ネットに投稿されていたイメージにピッタリな曲をたまたま見つけたんだが、配信者について調べたら君の同居人だった」
「え?」
幼馴染でもあり、同居人でもある颯真は自作した曲をネットに投稿していた。趣味の延長で有名ではないが、固定のファンもいる。
そして、颯真には言っていないが、雪斗はこのことについて裏で駆け引きを持ちかけられたこともあった。
幼馴染の曲を仕事として採用する代わりに体の関係を迫られ……
「君の答え次第では、彼の曲をCMに推薦しようと考えているのだが、どうだ?」
その時のおぞましい記憶が一気に蘇る。ゾワリと全身の毛が逆立ち、怒りが込み上げてきて。
「…………おまえも、あいつらと同じか」
先程までの食事で回復しつつあったライオネルの評価が再び落ちる。己の欲望のために相手の弱みにつけこむ、最低な人間。
「あいつら?」
疑問の声をかきけすように雪斗が叫んだ。
「そうやって、利用するのか!」
勢いよく立ち上がり、ライオネルを見下ろす。
淡い髪が怒りに燃えあがり、色素の薄い茶色の瞳が鬱憤に染まる。
「颯真には才能がある! そんなことをしなくても、あいつは実力でメジャーデビューする! 僕の体が目的なら、そう言え! あいつの曲を利用するな!」
怒鳴った雪斗に深緑の瞳が丸くなる。それから、顔をそらすことなく真剣な眼差しで言った。
「彼には才能がある。だが、俺は君の同居人について詳しくない。だから、CM曲に推薦してもいい人物なのか訊ねた」
思わぬ答えに雪斗が言葉に詰まる。それから、自分の早とちりに気付き、顔が真っ赤になった。
「え? あ、そういう意味……? そ、それなら、その……」
ごもごもと気まずそうに言葉を探す。
その一方で、ライオネルからは表情が消え、ドス暗い空気が放たれた。
「もしかして、君にそういう不埒な交渉をした者がいるのか? そいつは、どこのどいつだ? 詳しく教えろ」
映画の暗殺役の時と同じ不穏な空気になったライオネルを雪斗が慌てて止める。
「だ、大丈夫ですから! あの時は、そういう予感がしていたので、事前に会話はすべて録音していましたから! そうしたら、社長がそれを元に脅し……いや! 二度と僕に近づかないって誓約書を書かせました!」
この一件のおかげで相手は雪斗の事務所に貸しができている状態のため何かと都合はよい。
「本当か?」
「本当です!」
力強い断言にライオネルがホッとする。
それから少しだけ俯いてポツリと呟いた。
「まぁ、俺も下心がまったくなかったかというと、そうでもないがな」
「え?」
目を伏せたままライオネルが言葉を続ける。
「君が、喜ぶと思ったんだ」
「え?」
「俺は君の同居人について詳しくはないが……その、幼馴染なのだろう? 幼馴染の曲がCMに起用される話が出たら、君の喜ぶ顔が見られると思ったんだ。まさか怒らせることになるとは思わなかった」
そう言ってライオネルが顔をあげる。いつもは自信にあふれた目が不安に染まり、まるで捨てられた子犬のようにこちらを窺っていて。
深緑の瞳が上目遣いのまま真っすぐ見つめる。
「すまない」
素直に謝る姿が雪斗の胸を射抜いた。
(なっ!? 可愛いが過ぎるだろ! え? なんだ、この可愛いすぎる生き物は!?)
カァァァと顔が熱くなる。雪斗は赤くなった顔を隠すように背中をむけた。
(僕が喜ぶと思った!? そりゃあ、幼馴染の実力を認められたら喜ぶだろ。それより、普段の自信満々な態度はどこにいった!? これが巷で噂のギャップ萌えとかいうやつか!? だけど……)
チラリと覗き見すれば、待てをしている子犬のように心配そうに自分を見ていて……
ズキューン!
変な音をたてた胸を押さえ、俯く。そこに心配そうな声がした。
「どうした? 調子が悪いのか?」
「だ、大丈夫です」
気を取り直した雪斗がライオネルと向き合う。
「えっと、曲は推薦して大丈夫です。あいつの人間性は僕が保証しますし、あいつも喜びます」
「そうか。なら、よかった」
安堵したように深緑の瞳が細くなる。その表情に雪斗は再び胸を押さえた。
(な、なんだ、これ!? なんで、こんなにドキドキするんだ!?)
百メートル走をした後のように心臓が早鐘を打つ。
そこでライオネルのスマホが鳴った。メールだったらしく、画面を確認しただけで収めた。
「タクシーが来たようだ」
「え?」
視線を動かせば公園の前にタクシーが停まっている。ライオネルがいつの間にかタクシーを手配していたらしい。
手際の良さに感心しつつ、雪斗はふと訊ねた。
「あなたの行先は? 遠くなら、あなたが先に乗って帰ったほうがいいですよね?」
世界的モデルの来日だ。明日も朝からスケジュールが詰まっているだろう。
そう考えての配慮だったが、ライオネルは親指で大通りを指さして軽く言った。
「俺はこの先の大通りにあるホテルだから、もう少し歩くよ」
「そうですか」
名残惜しい気もするが、明日も大学がある。
タクシーの前まで歩いたところで雪斗は意識を切り替えて笑顔を作った。
「今日は、ありがとうございました。とても、その……たのしかったです」
簡単には会える相手ではないし、次があるかも分からない。むしろ、これで最後だし、と開き直って気持ちを言葉にしてみた。普段なら決して見せない、ツンデレ雪斗の貴重なデレ。
それを本能で感じたのか、ライオネルが雪斗の腰に手をまわす。
「え?」
グイッと力強く引き寄せられ、厚い胸板に体が触れた。逞しい腕に閉じ込められ、動けない。アルコールが混じった匂いに包まれ、酔いそうになる。
状況を把握する前に、薄い唇が耳に触れた。
「また、すぐに会える」
腰に響くような深い声に頭が痺れる。
魂が抜かれたような状態のままタクシーに乗った雪斗は、気が付いたらボロアパートの前に立っていた。
~※~
それからライオネルは多忙なスケジュールをこなして帰国。
その間に雪斗と会うことはなかった。
「何が、またすぐに会える、だ!? やっぱり口だけじゃないか」
ぶつぶつと不満を口にしつつも、心にぽっかりと穴があいたような、物寂しさが身を包む。
だが、時間は容赦なく過ぎていき。
「まあ、颯真の曲については連絡がきたけどさ」
あれから颯真に某有名企業からネットにあげている曲について打診がきた。当初は半信半疑だったが、少しづつ話は進んでいるらしい。
「僕も負けていられないし!」
奨学金が必要な雪斗はテストの順位を落とすわけにはいかない。モデルのバイトをしながら、気合いをいれて勉強する日々。
その日も夜遅くまで勉強していたため、朝は惰眠をむさぼっていた。
しかし、予定外の騒音に起こされ、苦情を言おうと外に出れば引っ越し荷物が運び込めずに右往左往している配達人。
そして、引っ越し主は世界的モデルの……
「隣に引っ越してきた。よろしく」
当然のように宣言するライオネル。
どう考えても、いや、考えるまでもなく、場違いすぎる。
雪斗は宇宙へ飛んでいた意識を戻して吠えた。
「隣って、何考えてるんだ!? こんなセキュリティーのセの字もないボロアパートにあなたが住んだら……」
久しぶりに会えた喜びもあるが、それよりもこれからのことへの不安が勝つ。こんな世界的モデルが隣にいて安穏とした生活が送れるわけない。
しかし、原因であるライオネルは肩をすくめて悪気のない様子で言った。
「いや、君の事務所に移籍しようとしたら無理だと言われてな。だから、拠点を日本にすることにしたんだ」
「ちょっと、待ってください! いろいろおかしいでしょ! それで、なんでここに引っ越すことになるんですか!?」
ここで雪斗のスマホが鳴る。
ライオネルに背をむけて電話に出ると、大音量の野太い泣き声に鼓膜を殴られた。
『雪斗くぅぅぅんんん!! すぐに引っ越してぇぇぇぇ!!!! 引っ越し代も家賃も事務所で持つからぁぁぁあ!!!!!!!』
「へ? はぁぁぁぁ!?」
おねぇ社長の泣きが入った懇願とともにセキュリティが万全なマンションへ引っ越すことになった雪斗。
隣はもちろん世界的モデルのこいつ。
本当になんで、こうなった!?