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屋根裏部屋のオルゴール

屋根裏部屋に仕舞い込んだオルゴール


壊れて音が鳴らなくなったと思っていた。


 ほとんど段差のないげんかんも、台所のすぐとなりのせまいトイレもにがてだった。

 にがてってだけでべつにコワイわけじゃないんだ。ただ、げんかんできちんとぬいだつもりのクツが、いきおいよくひっくり返って知らないうちにげんかんマットの上に乗っかっていてしかられたりだとか、トイレって言ってるのにだれも付いてきてくれないだとか、まあ、べつにいいけどね。いそがしいんだってわかってるし。

 とうさんもかあさんもマイホームってもくひょうに向かってがんばってるからおまえも勉強がんばれって言われてもさ。もう小学生になったんだからよゆうだって。

よゆうだけどトイレのとき、顔くらい見せてくれたっていいじゃん。そんでちょっとだけ付いてきてくれたっていいじゃん。


 あたらしいお家は二階建てって、聞いた時はびっくりした。だって今住んでいるウチは三階だし、ニイちゃんちは上の四階だし。え、二階しか無いの?って聞いたらちょっとびっくりされちゃった。団地じゃなくて一戸建てっていうんだって。一個建てじゃなくて一戸建て。一戸建ては団地ほど大きくはないけど、建物ぜーんぶがウチなんだって。すごいや。

 でもまだナイショだからニイちゃんにも先生にも言ってない。言いたくてうずうずしちゃうけどそこはガマンだぞってとうさんに言われた。どうしてもガマンできなかったら?って聞いたらこっそりと、まず目を閉じてゆっくり瞬きをするんだよ、一回、二回と数えながらね、と教えてくれた。瞬きをゆっくり数えると、うずうずも消えちゃうよと。

 生まれてからこんなにまばたきしたことはないんじゃないかっていうくらいがんばったよ。とうさんのたんじょう日、サプライズしたくて、かあさんと二人でこっそりプレゼント用意してたときくらいにね。あの時はまばたきすること知らなくてバレそうだったけど。あれ、バレてたか。バレバレだったけど目を細めてよろこんでくれてたっけ。

 そういえばあの時あげたオルゴール、全然音鳴らさないなぁなんて思ってたけど、ちがうんだって。とうさんったら寝るまえにいつも見てるのよって、かあさんから聞いてびっくり。フタを開けたらみんな起こしちゃうからそっと出して見て、それからまたしまってるんだって。そんなの気にしなくていいのに。オルゴールの音くらいで起きるわけないじゃん。

 ホントはいっしょに聴きたいんだよね。渡した時に一緒に聴こうねってぎゅって指にぎったし。でもとうさんてば、なかなかに忙しそうなんだよね。おうちルールで朝ごはんか晩ごはんかどちらかかろうじて会えている感じかな。学校のしゅくだいでおうちの人にしごとの話を聞こうって言われていたことだし、じっくり話を聞こうと思ってる。いつ聞けるかな。


「行ってきます」

「いってらっしゃい」

 気をつけて、と言いかけた時にはもうしっかり玄関に鍵がかけられ門を閉める音が響いてきた。

 相変わらずせっかちだな、いやせっかちと言うよりは出かける事に慣れてないからバタバタしてるんだろうなと、玄関入ってすぐ隣にあるキッチンで牛乳を飲みながら思う。忘れものしてなきゃいいけど。

 いわゆる在宅ワークというやつだろうか、かあさんはほとんど引きこもりと言っていいほど一階の仕事部屋にいる。うん、もしかあさんが図鑑に載ったら、生息地は一階仕事部屋と記載されるに違いない。なにしろ小学生の時に引っ越してきてから五年ほど経つが、数えるほどしか出かけるところを見たことはないのだ。といっても現役の中学生である自分にとって朝の八時から夕方まで何してるかなんて謎だけど。まあ、部活から帰ってきて仕事部屋を覗くと、まるで居眠りから目が覚めたかのような慌てっぷりでおかえりと言うくらいだからそういう事なんだろう。買い物も基本はネットに頼っているし。団地住まいだった頃はいつも一緒に外に出かけ、道行く時は野花の名前を、スーパーでは美味しい野菜の見分け方なんかをご教授頂いていたもんだったが、それも懐かしい思い出になってしまった。

 変わったよね、ちょっとだけ。まあ多分、この家を留守にしておきたくないんだろう。いつ帰ってきてもこの家でおかえりと言えるように待機状態だなんて、我が母ながらなかなか健気だよね、なんて考えながらゆっくり目を閉じかけた時だ。聞こえないはずの音が耳に触れた。

 この旋律…懐かしくもやさしい金属音。ぶわっと感情が波立ち、持っていたコップをテーブルになんとか置くことができた。飲み切っていて良かった。牛乳だけはこぼしたくない。拭いた後の雑巾、臭くなるんだ。いや、そんな事よりも、上階から聞こえてくる金属が奏でるこの音。てっきり壊れて鳴らなくなったと思っていたのに。震える足を落ち着かせようと目をいったん閉じ瞬きを数回、意を決してそのまま二階へ、さらに屋根裏部屋へと向かう。


 えー二階建てじゃなくて四階じゃん!一戸建てってすごいんだね!浮かれまくって走り出そうとしたところをしっかり捕まり、はい、これ運んでとダンボールを渡された。そして、四階なんて立派なもんじゃあないよ、倉庫がわりの地下とそれから二階の上は屋根裏部屋って言うんだ。ほら、ちょっと天井が低いだろう?ふふ、まだまだ高く感じちゃうかなと目を細めてほくほくと笑いながらとうさんが教えてくれた。その横からニイちゃんはおまえの背じゃなーそりゃ高く感じるよなーとからかってくる。

 よし、決めた。ぜったい抜かす。ニイちゃんを上から見下ろしてやることがマイホームの次の目標だ!と宣言し意気揚々とダンボールを運ぶ。

 一階には台所…じゃなくてキッチン!すごく広いんだ。テーブルとイスも置けちゃうくらい広いからね。だから食べるところもここ。それからかあさんのおしごと部屋と、これまた広くて窓付きの明るいトイレもある。おっきな鏡とね。二階にはなんと言ってもあこがれのこども部屋!ホントはやねうら部屋ってヤツを一目見て気に入ったからそっちがいいと言ったけど、そこはもうとうさんの部屋に決定されていた。ざんねん。でもとにかくじぶんの部屋があるってことに感動しすぎてどっちでもよかった。


 冷静になって考えてみれば、屋根裏部屋って子供部屋か物置きになるのが相場だよな、普通。とうさんが言っていたとおり屋根裏部屋は天井が低い。小学生ならともかく背の高かったとうさんがわざわざ天井の低い屋根裏部屋を自分の部屋にするなんてなかなか考え難い。なぜ、敢えてそうしたのか。そうだ。まるで、わかっていたかのようじゃないか。予め、ここが物置きになってしまう事が。

 まるで推理小説に出てくる探偵にでもなったかのような錯覚を覚え、ぎいぎいと踏みしめるほどに鳴る階段に、鼓動も高鳴る。今までぼんやりとしていた思考が階段を昇るごとに真実味を帯びてくるようで、身震いを感じながら物置き部屋となってしまった屋根裏部屋へと近付いていく。

 徐々にはっきりしてくる金属の旋律とともに頭の中をよぎるのは、ずっと帰ってこないとうさんと壊れて鳴らなくなったはずのオルゴール。引っ越してきた日の夜、段ボールから大事そうに出しているところを見つけて一緒に聞きたいとねだったのに、今音が出ないんだよと言われたあいまいな記憶とうろ覚えで曲名がわからない旋律とが頭の中を飛び交い内心おだやかではいられない。

 だがおそらく期待の方が大きかったのだろう。屋根裏部屋を覗き込んだ時には安堵と落胆の複雑なため息をこぼした。そこには開け放たれた窓と床に転がっているオルゴールがあった。

 何のことはない。窓を締め忘れたため吹き込んだ風で床に転がり落ち、その衝撃でフタが開きそのその衝撃で音がたまたま出たのだろう。さっきまで名探偵気分で盛り上がっていた自分が恥ずかしくなった。気を取り直すように窓を閉めて視線を床に戻す。

「え、」

 思わず瞬きしてしまった。転がっていたはずのオルゴールがきちんと正座するかのように座っていたのだ。ご丁寧にフタまで閉まって。

 おかしい。確かにフタが開いた状態で床に転がっていたのに。音も、確かに聞こえてきたのに。

 そこでようやくおかしさに気付く。せっかちではあるが、几帳面なかあさんが窓を締め忘れる事も、大事なオルゴールをこんな簡単に落ちてしまうような場所に置く事も考えられない。

 おかしい。何故?

 不思議に思いながらオルゴールに手を伸ばそうとして不意に視界に眼鏡が映る。

 眼鏡?何故?さっきまで無かった?

 相変わらず疑問符だらけの頭を抱えながら何故かそのまま無意識に眼鏡をかける。

 歪む。歪む。歪む。

 眼鏡のレンズによって歪む世界のなか、ただオルゴールだけが、歪んでいなかった。フタに描かれた模様が目に焼きつく。それが、それだけが、まるで世界唯一の拠り所であるかのように。


 だから、そっと、手に取り、そして、フタを、開けた。


 一番最初に感じた事は暗い。それから、ああそれから誰だっけ、この人。自分を見下ろす人影を知っている様な気がする。暗いと思ったのはこの人が心配そうに覗き込んでいるからだ。そしてどうやら自分は横になっているのだとようやく気付く。

 視線を巡らせ一呼吸置いても、ゆっくり目を閉じ瞬きを何度しても目の前にいる人物もこの場所もまったく心当たりがない。だってあまりに無機質だから。何がってもう目に入るもの全てが無機質なのだ。答えを求めるように唯一無機質ではない目の前の人物を見上げると、その人は懐かしそうに目を細めて言った。そうやってゆっくり瞬きする癖、変わらないねと。

 それでわかった。ただの閃き。でもそんな表情でそんな喋り方でそんな事言うのはとうさんだけだ。目の前の人物はどう見ても女性なのにそう確信した。


「なにしてんの、とうさん」

「開口一番がそれかい?まいったね。」もっと他に訊く事あるだろうにとその女性はやれやれと言わんばかりにごく当たり前の感想をそれでも感心したようにこぼした。

 言われて初めて、ここは何処なのか、何でここにいるのか、何でそんな格好をしているのか、何で急にいなくなったのか、何でが溢れてきた。

「うん、そうだよね。いや、言いたい事はわかるよ、うん、わかるんだけど、まずこちらから訊いていいかい?といってもどうやってここに来たかはわからないようだから、こう訊こうか。ここに来る前何があった?」

 訳がわからなすぎて何をどう訊いたらいいかわからないのを見越した質問の仕方だ。さすがとうさん。

「かあさんが珍しく出かけた後、オルゴールの音が聞こえた気がして屋根裏部屋に行ったんだ。そしたら何でか知らんけど窓が開いてて床にオルゴールが転がってて。それで窓を閉めてオルゴールを拾おうとしたら転がっていたはずなのにちゃんとフタが閉まってるし。で、何でか知らんけど眼鏡があったからかけてそのフタを開けたんだ。」

 自分でも何を言っているのかよくわからない。ちゃんと状況説明出来たのか不安だったが、目の前の女性は側にあった椅子に腰をかけながら、うんうん、と相変わらず感心したように頷いている。見た目、高校生か大学生かと思えるほど若々しい女性なのに、ほくほくと目を細めるその姿はやはりとうさんにしか見えない。

「さて、まずはここへ来たきっかけだが、薄々勘付いているようにオルゴールだよ。オルゴールがあちらとこちらの橋というか、門というか。そしてもちろんただオルゴールのフタを開けただけじゃあ作動しない。鍵とでもいうのかな。条件がある。」

「眼鏡?」

「賢いなあ。とうさん、嬉しいよ。でもまだそれだけじゃあない。眼鏡をかけてオルゴールのフタを開けるなんて誰でもやりそうじゃあないか。そう簡単に行き来できたら危険だからね。条件は三つ、もう一つとっておきの鍵があるのさ。」ほくほくしながら答えを催促するかのように見つめてくる姿は悪戯っ子のようだ。もちろんご期待に応えて即答したいところだが、眼鏡をかけてフタを開けた事以外何も思いつかない。

 ゆっくり起き上がりながらうーんと首の後ろに手を当てて考えていると、ほらほら、かあさんを見送った時、オルゴールの音がした時、何をしてたんだいとベッドに頬杖をつきながら訊いてきた。

「牛乳?」

 大正解!と抱きつきながら頬を寄せてきた。姿は全く違うけど、なんていうか懐かしい匂いだな。

「ふふ、やっぱり良かった。眼鏡をかけてフタを開けるのは誰でも思いつくけど、牛乳飲んでからそんな事するのは、可愛いウチの子くらいだからね。ようこそメトシェラへ。」

 それでようやく自分が自宅でも日本でもなく、不思議な響きのあるメトシェラというところにいるらしい事がわかった。

「良かった?それは設定して良かったと聞こえるけど?つまりとうさんがオルゴールと眼鏡と牛乳という条件を設定したって事?それも行き来できるって言った?」

 あふれる疑問を我慢できない。

「うんうん、元気そうだね、なによりだ。立てるかい?そう、ゆっくりね。説明しながらここを案内しよう。」

 とうさんに支えてもらいながら立ち上がった。それまでかなり冷静さを保っていると自負していたが、ここにきてさすがに叫び出したくなった。

「待って待って、え、うそっええ?」

 逆に何で今まで気がつかなかったのか。目に映る自分の姿に違和感しかない。手をためつすがめつ眺め、その手を膝、腿、腰、そして髪の毛へ。

「なんでなんでなんで小っちゃいのー!」

 さすがに叫んだ。中学ではそれほど背が高くも低くもないほうだが、これではまるで小学生だ。

「えー。とうさんがこーんなキレイなお姉さんになっててもたいして驚かなかったくせに。今更だなあ。」

 相変わらずほくほくと目を細めて笑うとうさんはぬけぬけとそんな事を言う。

「え、だってとうさんはとうさんじゃん。」

「嬉しい事、言ってくれるねえ。」

 差し出された手を取り、横に並んで歩きながら部屋を出ると廊下のようだった。ひたすら無機質で細長い通路を手を引かれるまま歩く。

「何て言ったっけ?メ…」

「メトシェラ。うーん、まあざっくり一番遠い星って意味だと思ってくれていいよ。少なくともここではそう使っている。」

 どうやら日本どころか地球ですらないらしい。

「星ってことは、もしかして宇宙旅行でもしちゃったわけ?」

「宇宙旅行というよりはパラレルワールドが近いかな。最適な言い方が何か難しい所だけれども。」

「パラレルワールド?」

「こちらとあちらが同時に存在しているんだ。並行世界とでもいうのかな。物理的な距離はものすごーく遠いはずなんだけどね、時折まざる事があるんだ。偶然ね。ただその偶然を人為的に起こす事もできる。」

「人為的に?」

「簡単な事ではないけどね。」

「地球より科学が進んでいるの?」

「地球よりずっと前に生まれた星だからねえ。科学というか進化というか。」

 窓ひとつない無機質で変わり映えのない通路が続く。灯りも無いのに通路全体がぼんやりと光っているかのようだ。立て続けに非日常的な事が起こっているせいか頭がしびれてきて、訊きたい事も忘れどうでもいい事を口にする。

「手、つなぐのなんて久しぶり。」

 長身のとうさんと並ぶとちょうど腰くらいの位置に自分の頭があるのでなんだか本当に小学生の頃へ戻った気分だ。

「懐かしい。」二人声が揃った。思わず顔を見合わせる。

「思い出すなあ、引っ越した頃。まだ小さいのにダンボール箱いっぱい運んでくれて。張り切ってたよねえ。ああ、そこ足下気をつけて、段差あるから。」そういうと、ひょいっと繋いでいる手を軽く上に引っ張り上げてくれたので、それに合わせてぴょんと跳ねる。難なく段差を乗り越えると、バルコニーのような場所に出た。眼下に広がる光景にわあと思わず声が出る。

 建物の外を行き交う大勢の人々、青空市のような店々。

「すごい人だね、お祭りみたい。ん?ヒト?え?着ぐるみ?」よくよく見ると歩いている人達はとにかくいろんな格好をしていた。いや、ヒトといっていいのかよくわからないのだが、それも二足歩行だけでなく、四足歩行であったり、動物のような恐竜のような生き物たちもごく普通に楽しそうに会話しているのが見てとれた。そうそれはまるでメルヘンかファンタジーの世界。

「まるで異世界だろう?」ほくほくと笑いながらとうさんは続ける。「ここには本当に色んな人達がいるんだ。とうさん達みたいに地球からきた人達はどういうわけか地球での姿形じゃあなくなるんだよ。変身するみたいでおもしろいだろう?と言っても別になりたい姿になれるわけじゃあないんだからそんな目で見ないように。こらこら。とうさんの見た目が変わったのは自分で望んだわけじゃあなく、決して不純な動機じゃあないよ。その証拠に自分だって小学生に戻りたかった訳じゃあないだろう?」

 それはそうだ。中学生になってせっかく成長期というものを実感できるようになってきたというのに、まるですごろくでふりだしに戻った気分だ。

「うん、まあ。みんな、楽しそうだね。」

「外も歩いてみたいだろうけどそれはまたの機会にして次はそうだな、」と勿体つけて続ける。「あそこから行こうか。」


 「そろそろ喉乾いてないかい?」と声をかけてくれたのは、とうさんに付いてあちこち見て回っていたものの頭の許容量が限界を超えそうになる実にいいタイミングでだった。

 案内されたのは上半分だけ透明な曇りガラスのドアの前。自動で開くドアを抜けるとそこは落ち着くカフェだった。

 焦げ茶色を基調としたインテリアに青竹色のテーブルと椅子。カウンター席も多いが、ボックスの四人席がメインの開放感がありつつプライバシーに配慮した店内。

 ようやく人心地がついた気がした。なにしろ案内されるところ皆が皆、実にぶっ飛んだところだったのだ。無機質だったのはここに来て目が覚めた時に横になっていた部屋の建物だけで、それ以外の場所はおよそその範疇から外れたところにあった。

 とうさんに勧められるまま注文を済ますと、知らず緊張の糸が切れたようで大きく息を吐いた。

「はー、まるで映画のセットの中にでも入りこんだ気分だよ。楽しいけどさすがにちょっと疲れたな。」

「気になるところはあったかい?」

「いやいや、気になると言えば全部でしょ。」と言いつつも落ち着いてきたおかげかひどく現実的な質問をしてみる。

「今、何時くらい?うちには帰れるの?」

「冷静だね。あれだけの情報量にさらされて、さぞ頭の中は混乱しているだろうに、たいしたもんだ。」

 とうさんは運ばれてきたほうじ茶をこくりと飲み、音も立てずに見事な所作でカップを置くと、ふっとテーブルに乗り出して両手を組み、あごを乗せて言った。「相談があるんだ。」

「いやいや、そんなどこぞの司令官みたいなポーズでどうしたのさ。」

「しばらくこっちで暮らしてみないかい?」

「それはもしかして帰れないとかいう意味じゃないよね。」とてつもなくイヤな予感がして、おそるおそる聞いてみる。だが、杞憂だったようだ。

「それはない。ちゃんと帰れる。」

「じゃあなんでとうさんは帰ってこないの?」

 ずっと抱いてきた疑問だった。

「ああ、すまない。順番を間違えてたね、まずは説明だよねぇ。うん、本当に大きくなったんだなあ、可愛いうちの子は。」

 込み入った話は上でしようと、席を立ちあがる。歩きながらカフェの二階は個室スペースとパントリーがあり、さらに三階より上は住居スペースになっているのだと説明を受ける。二階までは階段で昇れるのだが、それより上、三階からは階段がないのだとも。

「どうやって三階に昇るの?」

「ほらここ、床にマークがあるだろう?ここに立って、そう。それから上の階に行きたい時は手のひらを上に向けて、下の階に行きたい時は下に向けて行きたい階数を唱える。必ず声に出してね。」そう言うとマークの上に二人で立つ。

「見覚えあるような…これ、オルゴールのフタの模様に似てる?」

「おお、さすがだね。観察力があるのは素晴らしいことだ。」

 褒められてくすぐったい気分になりながらも冷静を装って聞く。

「何か関係あるの?」

「まあね。ではとりあえず三階に行こうか。はい、手のひらを上に向けて、うん、両手ね。」そうして声を揃えて三階、と言う。

 視界が一瞬揺らいだかと思った時にはもう場所を移動していた。

「すご…本当にファンタジーだ。」

 ただ見るのと実際に体験するのはやはり違う。いままで違う世界にいるとはわかっていても漠然としていまいち現実味がなかったが、こうして魔法のような体験をすると一気に現実味が増す。

「もっかい…もう一回、やってみてもいい?」

「いいけど。ふふ、気持ちはわかるけど慣れないうちにあまり頻繁にやると酔ったり気分悪くなるから気をつけて。しばらくは一人だけでやらないようにね。」そうは言われたがその後、上へ下へ三往復してしまった。


「で、どうだい?考えはまとまったかい?」

まるで乗り物に乗りまくった遊園地の帰り道に、足元がふらつくような感覚を覚えながらも平気なふりをして、「条件は三つだね。」と応えてみせる。

「三つ?」

「まず何より大事なことは、かあさんに連絡できること。」

 ずっと気になっていた懸念事項を伝えたが、あっさり解消された。

「当然。何を隠そう、かあさんとは今でも連絡を取り合っている。」心なしかドヤ顔で言われた。

「は?聞いてないんですけど。」自分だけ蚊帳の外だったことに対する衝撃でドヤ顔に腹が立った。

「なに?どういうこと?」

「ごめんよ、ずっと話したくて仕方がなかったんだよ、それはもう。」と目をしぱしぱさせながら申し訳なさそうに、時期を待ってたんだ、と言う。

「移動にはかなりのダメージが伴うんだよ。たかが2階から3階に移動しただけでもちょっと振らついているだろう?尋常ではない、それこそ天文学的な距離となるとそれを跳ね除けるだけの体力、精神力は簡単に備わるものじゃあない。あのオルゴールの音が聞こえるかどうかも一つの指標なんだよ。あれは特殊な音でね。」

 あれ、じゃああのオルゴール、壊れてたわけじゃなかったのか。

「さてさて、残り二つの条件は?」

「え?あー、もう別にいいかな。どうせとうさんの事だから学校とかそういうのも問題ないとか言うんでしょ?」

 条件は三つとか言ったけれど、つい言ってしまったけれど、そう言ったのは何かその方がカッコいい気がしたからそう言ってみただけで、正直あまり考えていなかった…だなんて言えず、とりあえずそう誤魔化してみる。

 ふふ、とまるで見透かしたように笑ったとうさんは「本題に入ろう。」と言いながら椅子に座るよう促し、続けた。

「じゃ、打ち合わせといこうか。早速だがさっきまで居た下のカフェを手伝って欲しいんだ。しばらくの間ね。」


まほろばのカフェ



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