魔女の戯れ
フヴェルゲルミルの泉の脇に続く、連なる針葉樹を縫うように、テュポーンはひたすらに戦場から逃げていた。針の筵など痛くもない、王の体裁など眼中外。最強の冠ですら釣り合うには軽すぎる、生涯を懸けた使命感を胸に。
この戦いに於いての最大の収穫、それは転生者の存在を知れたことにあった。数々の脅威を目の当たりにしたテュポーンは、我王や宮の力の所以が、転生にあると確信する。中でも素質を有する我王を、イゴールが戦場から逃がす場面も確認できた。
だからこそ死ねない、こんなところで死ぬ訳にはいかない。必ずこの場を生き伸びなければ、全ての行為が無に還る。だいぶ戦場からは離れたが、背には迫る魔力も感じている。森へと逃げ込む間際にはイゴールが追跡をはじめており、仮に万全であれば迎え撃つこともできるはず。しかし今は疲弊しており、むしろ万全なのはイゴールの方。戦うか、このまま逃走を続けるか、そんな二択の天秤は、思いもよらぬ結果に傾くことに。
その答えは均衡。戦いもしないし逃げもしない。イゴールとの一時休戦を願い出ようとテュポーンは考えた。突然に現れた転生者たちだが、まるで連携を取れないところを見るに、恐らくイゴールやロキにとっても想定外なのだと思えたからだ。
真の敵はミネルヴァだろうと、テュポーンもそれに勘付いている。イゴールも一筋縄ではいかないだろうが、力の全容は知れている。目的も明確だし、説得の余地は残されているように思える。しかしミネルヴァは――
得体が知れず、底も見えない。ミネルヴァの話は鵜呑みにできない。企みも不明確で、交渉の余地すらも危うく、まだイゴールの方が信用に足る。しかし現時点でイゴールの恨みは買ってしまって、激情のままに襲い掛かる可能性も否定はできない。よって第一声が肝心で、いかに素早く、イゴールを納得させる言葉を持ちうるか。イゴールの目的は国の繁栄、ならば国民を出汁に交渉するのが得策かと、そう企むテュポーンは、覚悟を決めて足を止めた。
だがテュポーンは、用意した言葉を用いることすらできなかった。考え得るケースを逸脱した、異常事態を前にして、ただただ途方に暮れる羽目となる。
「ミネルヴァ……」
「あらぁ、こんなところに立ち止まって、戦う覚悟ができたのかしら? それとも誰かさんと待ち合わせぇ?」
悪戯に首を傾げてみせて、あざとく後ろ手を組む艶女ミネルヴァ。背後には、ラーヴァナとヴィージャーの二人の魔人も控えている。
「イゴールは……追って来ていたのは、イゴールのはずでは……」
「あぁ、イゴールと待ち合わせでしたの? だったら彼は、ここにいますよ」
魅惑の仕種を崩すと、その手をテュポーンの前に差し出した。ミネルヴァの手には黒糸が握られ、伝った先には、冷えたイゴールの首が揺れ動く。
「あ……あぁ……」
「テュポーンくん、君も一緒に死んではみないか」
遺体を愚弄し、顎を上下に弄び、くだらぬ声真似に興じるミネルヴァ。なんの意味も持たないが、ただ一つだけ分かること。それは情や慈悲を求めたところで、絶対に救いはしないということ。
「ま、待つんだ……ミネルヴァ。俺を殺したところで、アーリマンはどうするつもりだ!? アーリマンの力は強大だ、俺の力なくしては――」
ふ……
うふふ……
「ほぉおおっほっほっほっほっほ!!!」
「あぁああっはっはっははははは!!!」
「おほほほほほほほほほほほほほ!!!」
一斉に噴き出して、高らかに嘲り嗤う魔人たち。神を騙るミネルヴァの姿は、女神でも魔人でもなく、闇を依り代にする、邪悪な魔女の姿そのものだった。
「なぁに寝言を言ってるのかしらぁあああ」
「私たちが、ミネルヴァ様が、それをご存知ないとでも思っててぇ?」
「ま、まさか……」
「アーリマンの真実など、とぉおっくの昔に知ってますのぉぉぉ。だからテュポーン、心安らかに死になさぁい!」
「く、くそ……」
これら三人を相手にすれば、万全のイゴールですら歯が立たない。手負いのテュポーンの力では、既に結果は見えていた。
恐怖に怯えて後ずさり、そして遂には背を向けて、テュポーンは必死に生を求めた。体は軋み、悲鳴を上げ、その身が雪泥に塗れても、それでもがむしゃらに逃げ惑う。追う魔女たちはそれを喜び、狩りでも楽しむかのように、逃げる獲物を嘲笑う。
「あぁあっははははははははは!」
「ほぉおっほほほほほほほほほ!」
気の触れた高らかな哄笑。
「待ちなさぁあああい!!」
「置いてかないでぇえええ!?」
お遊び故の残虐が。
「待て待てぇえええ、テュポォオオン!!!」
「構って構ってぇぇぇ、テュぽぉおおおあはははははは!!!」
振り向けばすぐそこに――
「つぅうううかまぁあああえたぁあああ!」
ミネルヴァの魔の手が、テュポーンの首を捕える間際のこと、唐突に辺りを薄暗い影が差した。気配に気付いたミネルヴァは、直ちに天を見上げると――
「上から来るわ! 退きなさい!」
大地に落ちた影の正体、それはミネルヴァをこの地に運んだ、怪鳥ジズ。その巨大な骸が、寸での間合いを引き裂くように、空から降ってきたのだった。
落下の衝撃に雪は散り、視界は阻まれ、あと一息のところで三人はテュポーンを取り逃がす。見失しなうことを恐れて、ラーヴァナとヴィージャーは直ちに追跡の再会を試みるが――
「待ちなさい!」
踏み出した二人を呼び止めるミネルヴァは、周囲に鋭く目を凝らす。
「し、しかし……このままではテュポーンを!」
「お黙り! 問題はありません! あのようなくたばり損ない、すぐに見つけて殺してやります。それより今は、ジズを倒されたことが問題でしょう」
怪鳥ジズは、ベヒーモスやヨルムンガンド、そしてリヴァイアと同じく、テルミナレベルに達する稀有な魔物の一匹だ。魔人でさえも苦戦する相手であれば、そう易々と倒されることはありえない。
「何者ですか! 出てきなさい!」
お遊びから一転して張り詰める緊張。そこに劇的な登場はなく、老木の陰より姿を現す、細く頼りない一人の女性。元来の美髪は血に固まり、華奢な身体は呼吸に合わせて上下に揺れる。
闇代閏は吐く息を凍らせながらに、魔女の前へと立ちはだかった。




