最大戦力
地獄より這い上がるその者は、この世の力の双璧を成す。赤々と燃える炎の髪より漆黒の双角が立ち昇り、金色に漲る瞳は安易な逃走を許さない。
「こ、こいつがテュポーン……」
「正解だ。褒美に死をくれてやる」
予測の範疇外の出来事だが、判断は直ちに下さなければならない。しかし我王は呆気に取られ、完全にその身を硬直させてしまっている。その点、マルスはそうはならない。決して想定していた訳ではないものの、想定外そのものに慣れている。それは我王には足りない経験が由来し、反射とはまた別の反応速度だ。
「はっ、褒美ときたか。お気遣い痛み入るが、受け取り拒否はできんのかよ」
「できんな、相応の力があれば話は別だが。故に今まで、みな快く受け入れている」
一見すれば下らないやり取り。意味もなさそうに思えるが、この僅かな言葉の応酬が我王の意識を追い付かせる。それがマルスの狙いであり、しかしテュポーンからしてみれば焦る必要など何もない。更に目の前の者が捕虜ではなく、イゴールの命を受けし者なら、命乞いとした戯言にも信憑性が生まれてくる。
「だがな、その前に白状しろ。イゴールに遣わされているのなら、その狙いを、戦略を、嘘偽りなく全て話せ。そうすれば楽に殺してやると、それだけは約束してやる」
有無を言わさぬ圧力には、何者であろうと遜るしかない。しかし相手は魔物を倒せる例外で、怖気を知らない異色の二人だ。
「誰が貴様なんぞに……」
「まぁ待てよ、我王。向こうさんは、せっかく対話を望んでんだ」
改めて向き直すマルスを見て、潔く話すのかとテュポーンは思った。しかし口を開けば白状とはほど遠い、矢継ぎ早な質問を浴びせたのだ。
「なぜてめぇがフヴェルゲルミルにいる? 居城を離れた理由はなんだ? てめぇがここにいるってぇことは――」
「おい、聞いているのは俺の方だ。貴様に質問する権限などない」
「随分ケチな野郎だぜ。だったらこちらも同じだよ、話すことは――何もねぇ!」
マルスは三度テュポーンに、重力の負荷を押し付ける。しかし奇襲であったからこそ通じた力で、臨戦態勢に入った今となっては、真っ向からの圧力は通用しない。
「無駄だ。強力なパワーだが、先程は不意を突かれたに過ぎん」
過重力に逆らい、悠然と直立するテュポーン。そして魔人の持つ心臓ならば、血流すらも逆らえてしまう。そんな未曾有の事態を前に、マルスはかざした掌の四指を握ると、残る一指は天を向いて――
「知ってるよ、んなこたぁ。端から狙いはてめぇじゃねぇ」
「はっ!?」
気付いた時には既に手遅れ。崩れる天井がテュポーンを叩き、間合いを瓦礫の山が埋めていく。
「生き埋めにしてやるよ。てめぇが死ぬとは思えねぇが、果たして弱い人間を、魔力のない俺たちを、探すことはできるかねぇ?」
瞬く間に崩れゆく要塞。いかに強固であろうとも、だからこそ重量も伴い、そして重力の負荷とは一定の重さを加えるのではない。仮に十倍ならば、一円玉なら十グラムにしかなりえないが、人間ならば数百キロに至り、建物は更に上回る。増した自重に耐えるような、建築設計はされていない。
「しかし、生き埋めというなら貴様らも――」
無事では済まないだろうと、そう考えるのが自然である。しかしそれを口にする間際のこと、崩れゆく瓦礫の合間にテュポーンは確かにその目に見た。マルスを中心にして宙に漂う、瓦礫の破片の数々を。
「こ、これは……これが……スキル……」
一度崩してしまえば自壊する。マルスは崩壊がはじまると同時に、身の回りの重力のみを反転させていたのだ。
「一旦退くぜ、イゴールにこのことを伝えねぇとな」
「しかし、なぜテュポーンはこの場に……」
「知らねぇよ、元はイゴールの推測だ。それが外れたとしか今は言えねぇ」
扉を抜け、そして要塞内部を西に駆け出す。落下しはじめた瓦礫の慣性は止められない、しかし重力の加速は止められる。崩壊を前に行く手を遮る魔物はなく、落下物の合間を縫っては、外の明かりを目指し走り抜ける。正門は既に開かれており、逃げ出す魔物でごった返していた。それをマルスはまとめて圧し潰すと、骸の山を飛び越えて、転がるように外界に飛び出した。
直後に、要塞は爆風を伴い倒壊する。振り返り際に、飛び散る飛沫へ過重力を。これにて無傷での生還を果たすが、それを許さぬのが瓦礫の山の大将、テュポーンの存在だ。
「まったく……勝利に浮かれた油断を突くつもりだったのだが、台無しだな」
爆砕ともいえる倒壊は、テュポーンの力に依るものだった。巨獣と比べれば体躯は小さい、しかし身に迸る魔力は、遠目に見るイゴールからしても、絶対の存在感を見せつける。
「テュ、テュポーン……貴様、なぜここに……」
「何を驚く。領土を攻められたから守るまでだ」
その返答はイゴールの求める答えとはなっていない。テュポーンの発言は常識であり、それをできないのが彼の事情。そういう狙いのはずだったのだから。
「東を空ければ、それをアーリマンが見逃すはずは――」
「理由はある。だが貴様が知る必要はない。イゴール、ここでお前は死ぬからだ」
強大で尊大なるテュポーンの魔力、向けられたイゴールには汗が滴る。同じテルミナレベルでもその差は歴然、真っ向勝負で敵う相手ではない。緊張に空気は張り詰めるが、そこに割って入る白い影。それは大狼フェンリルと、上に跨る霜の魔人。
「テュポーン、お前はこのロキが相手してやる!」
「誰かと思えば出来損ないの魔人か。術式すらも組めん阿呆に、俺の相手が務まるとでも思ってるのか?」
「確かにロキは馬鹿だけど、状況はお前が悪いぞ。覚悟しろ、テュポーン!」
ロキの号令の下にヨルムンガンドが訪れる。口から覗くのはニーズヘッグで、既に全体の九分を吞まれながらに、無残にも尻尾を振っていた。
「のこのこ出てきたが、お前にまとめて相手できるか?」
これがロキの最大戦力、その全てをテュポーンにぶつける。いかに最強の魔人といえども、苦戦を強いられることは否めない。それを分からぬテュポーンでもないが、だからこそ歪な笑みを浮かべはじめる。
「それはこちらの台詞だ。よもや単身で戦場に訪れたと思っているのか?」
要塞フヴェルゲルミル、その由来は隣で凍てつく泉の名称。溶けることのないその氷上が、みしみしと大音を立てて亀裂を刻む。
「ま、まさか……その泉の下には……」
「最高の生物には、水も陸も関係ない」
氷の岩盤を貫く巨大な双角、永久凍結の封印を解くのは、伝説の魔獣ベヒーモス。
「あ、あれが……ベヒーモス」
これまで幾多の魔物を目にした我王をして、なお圧倒される特異な容姿。象牙の如き凛々しい角に、カバを思わせる巨大な顎。サイに似た硬質な皮膚に、獅子を彷彿とさせる勇ましい顔付き。そしてそれをウン十倍、ウン百倍ともした、怪獣と違わぬ極大の生命体。
そんな雄々しき登場の背後に、空は黒色の陰りを見せはじめる。それは決して雲ではなく、正体は夥しい数の魔物の群れ。その中にはテュポーンの持つとされる、七頭の龍までもが含まれる。
「ま、まじかよ……」
「進軍を躊躇うどころか、全力ではないか!」
敵対するテュポーンの持つ武力、その最大戦力がフヴェルゲルミル一か所に集められる。これでは居城の守りはゼロに等しい。愚策だが、それが我王たちにとって好転となることはありえない。
「まずいね……これは。この私もここまでは、予想だにしていなかったよ……」
「残念だったな、イゴール。愚かな蛮行の償いは、命をもって収めようぞ」




