表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/115

理想と現実

 暫くの後に、マルスは階下に降りて来た。一時の緊張が走るが、何事もなかったように皆を纏めるとアジトを出て、そして町を出る。移動手段は自らの足。この世界にも馬と似た生物は存在するし、それを使った方が早く着けるようにも思えるが――


 江戸時代の人間は一日に九里から十里、およそ三十から四十キロメートルもの距離を歩いたそうだ。彼らが特別選りすぐりのエキスパートという訳ではなく、宿と宿を繋ぐ距離がそのくらい。よって、誰しもが通らなければならない普通の距離。更に隣宿が目的地という訳ではなく、江戸から京都までは約五百キロメートルもの距離に及ぶ。であれば毎日同様の距離を、十数日かけて歩き続けたという訳だ。勿論エキスパートとなれば更にその上を行く。飛脚はリレー方式ながらも、その行程を最短で三日で渡り切ったそうだ。


 人は自然界において弱者とされることが多い。確かに腕力や闘争でいえば人間は野生動物より非力だし、爪や牙などの武器も持たない。頭を使わなければ戦えず、フィジカルで勝る部分など何もないように思える。


 しかし、人間は持久力に優れる。それは他の追随を許さないほど圧倒的に。その強さたるや馬すら超える。二・三千メートルの短距離では馬に勝てるはずもない。しかしそれが長距離ともなれば、十キロを超えた時点で馬と人との差は徐々に埋まりはじめ、三十キロ地点に至る頃には人は馬に追い付く。持久力の限界を迎えた馬はその後を進むことはできず、仮に進めば馬には死が待っている。体力云々以上に、四肢を痛めれば死活問題となる馬にとって、先を行くことは不可能なのだ。しかし人間はフルマラソンを完走し、記録を狙わず体力配分を鑑みれば、百キロの距離すら移動することが可能なのだ。


 鍛えられた団員は皆健脚で、三百キールというおよそ三十キロメートルの距離ならば速歩で五時間、その後に戦う体力も残したまま歩き続けることができる。馬を使えば、確かに体力に余裕はできるかもしれないが、早くなる訳でもなければ大荷物を運ぶ訳でもない。おまけに荷物の重量はマルスのスキルで変幻自在だ。


 であれば馬に使う費用は無駄金で、都会を生きてきた宮には酷に思えるかもしれないが、団員の中でもファーストレベルに到達している者はそうそういない。その中で宮は、転生の恩恵でファーストに位置する肉体を有している。だから数値で測れる体力に於いては、団員の中でもトップクラスに位置するはずなのだが。


「辛いか? 宮」

「大丈夫、って言いたいけど、ちょっとね。でもこれは多分、思考の問題なんだと思うよ。長距離を歩くことは辛いっていう考えが頭にあるから、それが体に影響してるんだと思う。慣れたらきっと、問題無く歩けると思うよ」


 体力とはそういうもの。例え強靭なスタミナを持つ者でさえ、日々の辛くて億劫な仕事にはどっと疲れる。反面、貧弱な体力であるはずの者が同様の仕事を軽々とこなしてしまう。それは物理的な負荷ではなく精神に依るところで、想い一つで人間の体は疲れを感じてしまうのだ。


「分かりますよ。宮さん」


 割って入るのはヒカリ。頭には血の滲む布を巻いており、なんとも痛々しい姿だが、朱に染まる布を巻くその姿は、なかなかどうしてマルスと被るところがある。


「あは、てっきりマルスさんかと――」


 勿論、被ったところでマルスとヒカリを見間違うことなんてことはない。そもそも体格が全然違うし、似てると言えば髪質のみで他はまったく相反する。しかし、共通点があればそれを似てると、芸能人のヘアスタイルを真似れば、それを似てるとお世辞をいうのも、人間ならば割と自然に出る言動だ。


 宮の場合はお世辞というより何気ない一言だったが、その言葉を耳にしたヒカリは薄く赤らみ、気恥ずかしそうに俯いた。あれほどの行いをされても揺るがない、ヒカリの心は常にマルスへ。


「ヒカリも、はじめは長い距離を歩くのは辛かったの?」

「はい、それはもう。町の外を歩くなんて緊張するし、余計に気を遣ってしまって、途中でバテて倒れちゃいました。その時は団体も小さく、メンバーはたったの五人だけ。私と兄と、ユリアさんにシャルさん、バンデッドさん」

「マルスさんは――」


 怒ったの? と言いかけて止まる。マルスの性格だ、足を引っ張れば激昂するに決まってる。自分の足で歩けと、できなきゃ置いていくと。そんな辛辣な言葉を放つ姿しか宮には想像することはできない。しかし事実はそうではなかった。


「その時の兄は、リーダーとか団長という肩書より、どちらかというと兄貴分といった感じで、心身ともにへとへとになった私をおぶってくれました。仕方ねぇなと言いつつも、長い距離を辛抱強く歩き続けてくれました」


 あのマルスがヒカリを気遣い手助けする。先程の一件からは想像も付かない行動に宮は驚くが、それを疑うような発言は慎んだ。これは恐らく、ヒカリにとって最も大切な記憶だから。


「そっか、優しいね。でも、マルスさんは重力を操れるものね。それほど負担じゃないと思うし、迷惑だとも思ってないんじゃないかな」


 きっとマルスはヒカリを邪険にはしていないよと、そう言いたかった宮の言葉だが。実は当時のマルスは能力を使わなかった。しかしヒカリは負担になってしまったことがかえって嬉しく、光栄で、かけがえのないものとして強く心に刻まれたのだ。


「それが、その時の兄は能力を使わなかったのです。使えなかった訳ではなく、使わなかった。使ってと言う私に対して、なんて言ったと思います? きっと信じられないと思いますよ」


 ”ヒカリは物じゃねぇ。だから荷物みてぇに軽くはしねぇ。妹の重みは兄が背負う。それが兄妹ってもんだろうが”


「兄の温かい背中に体の重みを預ける私。迷惑を掛けてるとは知りつつも、とても幸せな時間でした。そんな兄の背中を、今では大組織を担う大きな背中を、私は変わらず今も、追い求めているのです」


 戦術としてなら人体を軽くはしよう、だが兄としては違う。団長としてのマルスと兄としてのマルス、どちらが真と言われればどちらも。しかし今のマルスはあまりにも――

 

 口は挟まず、傍らで聞いていた我王は思いあぐねる。団員ですら不憫に思う今のヒカリへの態度。贔屓から生まれる不信を恐れるのは分かるが、現状は平等を超えて冷遇に近い。マルスは馬鹿ではないし、むしろ頭の回転は早い方だ。それがやり過ぎだと気付ける視点も持ち合わせているはず。


 しかし、仮に我王がそれを伝えたところで、マルスはヒカリへの態度を改めはしない。それは生涯を通してすら譲るつもりはない。ヒカリが憧れ、夢に描き続ける兄妹関係は、二人を別つその時に於いてすら、築かれることはないのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ