兄妹喧嘩
翌日、朝早くからアジトへ向かう我王と宮。宮は昨夜のことは語らず、普段通りの穏やかで、のほほんとした横顔を見せている。我王には逆にそれが不安であったが、介入し過ぎるのもそれはそれで心を乱すだろうと、安易に触れることはしなかった。
到着すると、中は既に団員達で溢れ返っている。ここにいる全ての人間が目的地へ向かう訳ではないのだが、いやはや、規則に厳しい世界に生きた我王と宮をして、朝の早い連中である。バルカンの民というものは、ドイツ的なタイトさを持ち合わせているのだろうか。
否、彼らの中には日常でいえば時間に疎かな者もいるし、約束を不意にする者だっている。しかし遠征前に限っては違う。誰が言わずとも、皆自然と早くにアジトを訪れる。何故ならそれは、知っているから。その日を境に二度と会うことが叶わず、後悔しても遅いということが、嫌というほど身に染みているから。もちろん遠征前は気合を入れるし、誰一人として卑屈な言葉や不安を煽る言動は慎む。しかし心の奥底では別れを恐れ、共に過ごす時間を一時でも大切にしたいと、そう考えているのだ。
マルスは訪れた団員達と挨拶を交わしている。加えて不在の間の指示も出しているようだ。そんなマルスの目が二人に向くと、話半ばにずかずかと、人集りを割って向かってきた。
「ちゃあんと、遠征内容は宮に伝えたか?」
「ああ」
「よし。宮、てめぇは戦う必要はねぇ。サポートとして何が必要か、しっかりヒカリから学べ」
「わ、分かりました……」
宮の顔には、再び昨日の不安の色が浮かび上がる。大丈夫だと伝えたいが、何をもって大丈夫なのかを我王に伝える術はない。安心させたくとも、思うような言葉が出ない我王だが、そこにマルスが口を挟んだ。
「肩肘張るなよ。気持ちは分かるが、怖え気持ちはいずれ薄まる。未知なる恐怖の実態を理解して、真正面から向き合えるようになるからだ。慣れて麻痺するわけじゃねぇ、精神の成長だ。安心しろ、宮。戦わなくてもな、てめぇは必ず強くなれるよ」
マルスは諭す。それは根拠のない出任せではなく、正しく意味を持った言葉によって。強いマルスが根拠を持って、強くなれると言い切った。それは下に付く者からしたら、なんと心強い言葉だろう。力強い視線に合わせて、俯く宮は前を見る。青白く冷めた肌には、徐々に血の気が通い始める。士気を上げ、不安を取り除くマルスは、やはり組織を担うリーダーの器が備わっているのだろう。
「つうかよ、代わりにヒカリには男っつうもんを教えてやってくれよ。エメルダの性を名乗るには不相応な純情ぶりだぜ」
「な、何を言ってるんですか! マルスさん!」
途端に血流が立ち昇り、紅潮する宮は茹蛸の如し。
「ほうら、顔に血の気が戻ったぜ。それでこそ勇ましき男の顔だ。ヒカリを悦ばせるには十分――ッ!」
すると、唐突に下を向くマルス。何が起きたかと思えば、彼の頭上には白く繊細な、ヒカリ・エメルダの掌が。
「さ、最低! 信じられない! それが兄の言うことなの!」
声を荒げて激昂するヒカリ。リーダーとしての器は十分なマルスだが、兄としての器は持ち合わせてはいないようだ。
「叩くこたぁねぇだろうが! それにこんな兄が気に入らねぇならよ、とっとと妹なんかやめちまえ!」
「――――ッ!」
唇を噛みしめ、じわりと涙を浮かべるヒカリの眼。下品な話題も然ることながら、ヒカリにとって最も繊細なコンプレックスを、マルスは土足で踏みにじる。
「う……ぐ……酷いよ……兄さん……」
「泣くな! 俺の妹を名乗るんならよ、涙は流すな!」
マルスの妹としてあり続けたいヒカリは、滲み出る感情を必死に堪える。悔しさは行き場をなくしてヒカリに返り、衣服越しに爪を突き立てれば、見るべくもなく大腿を深々と刺している。
「そしてよ、立場を弁えずに、皆の面前で俺の頭を引っぱたくとはいい度胸だ。頭を出せ、ヒカリ」
マルスの発言にヒカリの肩はびくりと震える。当然、差し出した愛妹の頭を撫でてやる、なんてことはありえない。これは躾であり、団長としての体裁でもある。
「や、やめ――」
「宮は黙ってろ。ヒカリは仮にも俺の妹を名乗ってる。ヒカリへの甘やかしは贔屓に繋がり、引いてはチームの不信に繋がる。分かったなヒカリ。頭を、出せッ!」
固く目を瞑り、恐る恐る、栗色の頭を差し出すヒカリ。その様を団員全員が見ている。マルスの躾は行き過ぎだ、しかし体裁の為には仕方がない。身内の贔屓はいつどんな時代でも横行し、マルスはそれを良しとしない。皆それを分かっていて、憐れみながらも、黙って一部始終を見守るのだ。
高々と拳を振り上げるマルス。それは我王や団員達を引っぱたいた拳より、遥か固く握られており、それを容赦なく振り下ろすと、ヒカリの頭は勢いのままに床へと強く叩きつけられた。
大音を立てた床板は軋み、体は宙へと跳ね返る。呻くヒカリの額からは血が流れ、木目に沿って床を伝った。
「う……うぅ……」
「いつまで寝てんだ、汚した床はヒカリが掃除しろ。そして最後に、言うべき言葉を忘れてねぇか?」
「ご、ごめんなさい……兄さん……」
「それでいい」
這いつくばるヒカリを一瞥し、踵を返してその場を去る。出発の時刻まで一度、部屋に籠ると言い残して。あまりに非情な躾に、果たしてマルスは何を思うのか。
「だ、大丈夫ですか!?」
マルスが部屋に戻ったことを確認し、宮は即座に駆け寄る。同時に静観していた団員達も、ヒカリの下へと集まった。
「派手にやられたねぇ」
「俺なんか、気絶するまで殴られ続けたこともあるぞ」
「ヒカリ? 泣いてもいいのよ? 今はマルスには聞こえない」
我慢の限界が訪れ、ヒカリの頬には涙が伝う。しかし決して喚いたりはしない。我王より幼い年頃なのだ、泣き喚いたって仕方がない。それなのに、気丈な少女はそっと涙を流すのみ。
これが、マルスがヒカリに与えられる最大限の情。自身から与えることはできない。その場に残っては団員達も手が出せない。故にマルスは姿を消したのだろう。