正義の女神
次なる目的地はシャマルより東の方角、ミネルヴァの住まう国。訪れるのはこれが初めではなく、世界が違えば、我王は幾度かミネルヴァの領土を訪れている。
幾多の島々から成る国には、選ばれし民が住む。その中心の水の都を形成する島。ミネルヴァはその島の更に中央、信仰の聖地たる教会に身を置いている。
「水に溢れ、運河の張り巡らす美しい町」
「荘厳な教会に、七色のステンドグラス」
「とっても綺麗なんだけど……」
閏にユリア、そしてヒカリ。女性陣の感性をして美しいと言わしめるその光景。しかし嫌でも目に映るのは――
「は、恥ずかしくねぇのか……俺にはとても、真似できねぇ……」
「それは私もだよ。険悪なれば一度も訪れたことはないが。こうも悪趣味極まるとは知らなんだ……」
この国を象徴する巨大な偶像。それはミネルヴァの形を成し、遥か高みから町を見下ろしている。己を模るなど馬鹿馬鹿しいが、しかしミネルヴァは魔女。計算高く思慮深い。決して油断してはならないと、ミネルヴァを知るイゴールは警戒する。
扉を開き身廊へ。その先の内陣に立つ者は、大群の訪れに目を丸めた。
「あ、あなた達は……イゴール、それにロキまで……」
前世界では策謀を巡らせたミネルヴァ。数多の屍を築き上げた災厄の魔人。
「ミネルヴァよ、お前の力も借りたい。協力してくれないか?」
「ま、待てよ。我王くん! 幾らなんでも、この女と協力するのなら私は降りるぞ」
ヘルとの一件。それを見たイゴールは、我王に対し信頼を寄せはじめていた。しかしさすがにミネルヴァはと。当然ミネルヴァにもその気はなく、イゴールには冷めた視線を向けている。
「ロキは、何があろうと我王に協力するぞ。ミネルヴァがいてもだ」
「有難うロキ。お前は純粋だな、ミネルヴァと同じで――」
我王の言葉に、咽たイゴールの咳がアトリウムに響く。
「それは褒めているのですか? 貶しているようにも聞こえますが」
「皮肉のつもりはない。お前は誰よりも純粋で、故に世間知らずの、神を気取った無邪気な子供なのだ」
眉間に深い皺を寄せるミネルヴァ。明らかに不服だが、この場で怒鳴り散らすような醜態は晒せない。あくまで冷静に、理性的に。
「初対面なれば、礼節は重んじるものですよ。気取るなどと、私はイゴールのような私欲に塗れておりません。現にこのように慎ましく――」
「おいおい、ミネルヴァ。冗談はよせよ」
「なんですかイゴール。何も冗談など――」
言ってないと、ミネルヴァはそう意見したかったのだろう。しかしイゴールの後ろに続く、数多の不可思議の注目。多くの疑惑の視線を向けられて、自身の発言に過ちはないかと思い返す。
しかし、ミネルヴァに思い当たる節はない。であれば何かと、思慮を巡らせるミネルヴァだが、そこにイゴールが反論する。
「君、私より良い生活してるよ。平等を語りながらに、なかなか阿漕なことしてるじゃないか」
「…………は?」
言っている意味を解せず、呆気に取られるミネルヴァ。そこでようやくイゴールは、ミネルヴァの違和感に気付き始めた。
「――――え? まさか君、この暮らしぶりが普通だとでも?」
「だ、だって! ラーヴァナやヴィージャー、シャマルの国や信者の皆さんから頂いているのは……僅かなお布施! それに神事に、教会や偶像は必然でしょう!? 信仰の対象が住まうなら、せめてシャマルよりかは大きいものを建てなくちゃ。お、お食事だって! 善意でお恵み頂いたものだけを口にして、決して私欲にお金を使ったりは――」
イゴールは強欲、それがミネルヴァの印象。自身は質素倹約で、イゴールとは真反対の道を生きる聖者。そう、信じていたはずなのに――
「あはっ、これはとんだお姫様だな。普段口にしてるものが何かも知らずに食べてきたのか」
「なによ! それくらい分かるわ! ただのパンに、ヌガーに、果物の薬膳煮よ!」
側でそれを耳にしたマルスは、浮かび上がる疑問を堪えることができずに、一つミネルヴァに尋ねることした。
「薬膳ってよ……一体何で煮込んでやがるんだ」
「滋養のお薬よ。砂糖で煮込むの。お肉とかは食べてないんだから!」
大口を開けるマルスは、もはや声すら出ないようだ。
「いいか、ミネルヴァ。お前の人々を想う気持ちは本物だ。だがしかし、お前の住むこの教会や偶像。そして食事には、多くの人々が身を削ってまでして、お前に与えているものだ」
「う……嘘よ……神の私を騙そうだなんて……」
「嘘じゃないわよ。私のレストランだって、砂糖を使った料理なんて出したりしないんだから。ヌガーも当然、庶民は決して口にしたりできないわ」
厳しいユリアの追撃だが、それでも信じないと、断固意見を曲げないミネルヴァ。そして我王の能力の下、各国各地の食事情や、建築にまつわる諸費用を目にすると。
「う、うぁぁ……うぁぁああああああん!」
と、子供のように泣き出してしまう始末であった。
「だってぇえええ……だってぇえええ! ラーヴァナとヴィージャーが嘘吐いたんだもん! 大したことないって、そう言ったんだもん! だから私はそれを信じてぇえええ! うわぁああああああん……」
そんなミネルヴァを前にする、遠国から呼び出したラーヴァナとヴィージャーは、居たたまれないといった面持ちだ。
「なぜだね。二人はどうして、ミネルヴァを騙すような形で立てたんだ」
「それは……その……」
「つまりは……」
その質問に、どうにも言葉を濁らせる二人組。回答を待ちあぐねるイゴールの気を汲んだのか、はたまた乙女心を解せぬ不器用か。我王は押し黙る二人の心境を代弁した。
「ミネルヴァに恋していた。そういうことだろう」
「てめぇえええ!」
「言うなぁあああ!」
茹蛸のように顔を赤らめるラーヴァナとヴィージャー。そう、二人はミネルヴァに惚れている。女ながらに惚れている。ミネルヴァの純真、ラーヴァナとヴィージャーの恋心。その二つはどちらも、ミネルヴァの生まれに由来する。
ミネルヴァはその昔、魔人の父と淫魔の母の間に生まれた。しかし父は母と同棲するようなことはせず、懐胎した母を置いて自由気ままに暮らした。淫魔である母も同様で、ミネルヴァを生んだ後には再び他の男の下へ。
一人孤立したミネルヴァは、淫魔の魅力を持ちながらに、聖なる者に憧れる様になった。自身を生んだ両親を反面教師に、清らかなる者を目指すようになったのだ。
後に忌まわしき淫魔の力を制御できるようになったものの、ラーヴァナとヴィージャーはそれ以前の段階で虜へ。そして二人はミネルヴァを立てるように、求める物を与え、根回しもすれば、シャマルはお布施と、渋々ミネルヴァに大金を渡す。二人の魔人の囲う箱に包まれて、ミネルヴァは純粋無垢に、無知に育った。
金の価値は知らない。財政の全ては二人に任せてしまった。
政治も知らない。リスクも知らねば、故にシャマルへ社会主義的構造を強要する。
強欲と、それを行使する力は排除する。制御できるのは己しか存在しないから。
そしてミネルヴァは知った。自身のこれまでの行為が、無意識にも強欲で、忌まわしき者たちとなんら変わりがないということを。
「ラーヴァナとヴィージャーのばかぁあああ! おかげで私は穢れてしまった。贖罪として、死ぬしかないんだわぁあああ――」
「それは違うぞ、ミネルヴァ」
泣き叫ぶミネルヴァを前に立つ我王。歳は遥かにミネルヴァが上に違いない。しかし我王は、それを上回る数多の経験を有している。
「罪は死んで償うものではない。そう言ってるんだ」
「ふえ?」
犯した罪が、死ねば清算されるなら、この世界から死刑制度の反対など上がらない。しかし実際には否定的な意見が聞かれる。それは何故か――
死んだところで、何も罪は消えないからだ。強いて消失するのは鬱憤のみで、犯した被害が元通りになる訳でもなければ、罪が償われるなんてことは絶対にない。だからシャルやバンデッドは、今もなお生き続けている。
「既にお前は、そういう環境を自国に、そしてシャマルにも作り出した。それらは死ねば清算されることもなく、むしろ神格化されることで、お前が誤ったと感じたその行いが、条理として受け継がれてしまうのだぞ」
「…………」
「お前が人々を想う心に偽りはない。であれば、償うのだ。いずれミネルヴァが朽ちた後。真に正しいと思う生き方が、しっかりと人々に受け継がれるように」
「うん……うん……」
そこに暴力が作用せず、過ちに気付くことができたのなら、ミネルヴァは真の意味での純粋無垢を手に入れる。
「受け継がれる世界に進む為にも、俺はいま戦っている。そして今一度問おう。ミネルヴァ、お前の力を俺に貸してくれ!」
涙を拭うミネルヴァは魔女から一変。数多の世界に渡って初である、正義の女神へと姿を変える。
「えぇ……分かりましたわ!」